城郭探訪

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岩神館 (興聖寺(旧秀隣寺)  近江国(高島・朽木)

2013年05月16日 | 平城

 高島市朽木岩瀬374番地

所在地 : 朽木村岩瀬

築城年 : 享禄元年(1528)

区 分: 館城

遺  構 : 庭園、土塁、堀、石垣

訪城日:2013.5.14

興聖寺は戦国時代足利将軍義晴・義輝らがが流寓した寺で、境内墓地の背後には立派な土塁と空掘りが残っている。また、旧秀隣寺庭園は朽木稙綱が将軍義晴のために築いたといわれるもので、武家書院の蓬莱池泉鑑賞式庭園として有名なものだ。

 

旧秀隣寺庭園は朽木稙綱が将軍義晴のために築いたといわれるもので、武家書院の蓬莱池泉鑑賞式庭園として有名。

旧秀隣寺庭園
 享禄元年(1528年)の秋、12代将軍足利義晴が、京都の兵乱を避け、朽木稙綱を頼ってこの地に身を寄せます。この時、稙綱が将軍のために造営したのが岩神館で、館内に造られたのが、現在残る庭園です。将軍義晴は、享禄4年(1531年)まで3年間滞在しました。

 秀隣寺は、朽木宣綱が、慶長11年(1606)に正室の菩提を弔うために、かつての岩神館のあった地に建立した寺院であることから、この庭園は、正しくは「岩神館庭園」と呼ぶべきかもしれません。 
 庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としています。池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は池に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋を架けます。随所に豪快な石組を配する、全国屈指の武家の庭です。
 岩神館の庭園を作庭したのは、当時の政治的な有力者であり、かつ風流人としても名高い管領細川高国と伝えられています。

境内墓地の背後には立派な土塁と空掘りが残っている。

 

 興聖寺…遠望(国道161より)

興聖寺は、僧道元が近江守護佐々木信綱に建立を勧めたのが始まりといわれる寺院です。元は安曇川の対岸の上柏村指月谷にありましたが、江戸時代に大火に遭い、朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきました。秀隣寺は、朽木宣綱が、慶長11年(1606)に正室の菩提を弔うために、かつての岩神館のあった地に建立した寺院です。 
 興聖寺は、文政11年に本堂が焼失しましたが、安政4年(1857)3月に朽木大綱公の寄進で25世仙英和尚の代に再建されました。朽木家代々の菩提所です。
 本堂内には国の指定文化財の本尊釈迦如来像坐像が奉られています。また、敷地内には、国の指定文化財の旧秀隣寺庭園が所在します。

興聖寺(こうしょうじ)・旧秀隣寺庭園 興聖寺(こうしょうじ)・旧秀隣寺庭園本尊釈迦如来像坐像

 950年前、後一条天皇と中宮藤原威子との間に出生された皇子が朽木に隠されていましたが、薨去後、藤原頼通は仏師に三尊仏を祀り、皇子の霊を慰められました。その一体が本尊釈迦如来坐像で定朝一派の作品で伝教大師の遺作と称せられ、平安時代の名作といえます。檜の寄木造りで、その優美さと尊厳さをそなえた仏像です。

 見学庭園 浅井亮政寄進石橋 旧秀隣寺庭園見学

歴 史

興聖寺は、僧道元が近江守護の佐々木信綱に建立を勧めたのが始まりと云われ、朽木氏の菩提である。元は安曇川の対岸にあったが、江戸時代に大火に遭い、朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきた。
秀隣寺(前身は周林院)は、慶長11年(1606)朽木宣綱が正室(豊臣秀吉の側室松の丸の妹)の菩提を弔うため、岩神館のあった地に建立した寺院である。
それ以前の戦国時代初期のこの地には、すでに下殿や岩神殿と呼ばれた朽木氏分家の屋敷が構えられていたとされる。
享禄元年(1528)第12代将軍足利義晴が弟の足利義維・細川晴元に逐われ、管領細川高国・若狭の武田元光を伴い、朽木稙綱を頼って朽木に落ち延びた時、稙綱が将軍を迎えるために分家岩神殿の屋敷を改築して造営したのが岩神館で、その館内には高国の作庭とされる庭園(旧秀隣寺庭園)も設けられた。将軍義晴は、この岩神館に享禄4年(1531)までの3年間余り滞在し、また、第13代将軍義輝も天文20年(1551)三好長慶との不和により堅田から朽木へと逃れ、その後和睦して京に戻ったが、天文22年(1553)ふたたび三好長慶との戦いに敗れ朽木に落ち延び、永禄元年(1558)3月まで滞在している。

城郭案内・現地説明・・・ 講師長谷川博美氏(城郭研究家・元滋賀県中世城郭分布調査・現地踏査員)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


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