城郭探訪

yamaziro

茂賀山(もがやま)城(茂賀山砦) 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 

お城のデータ

所在地:彦根市賀田山町茂賀

築城期:鎌倉期

築城者:小林氏

現 状: 山林+工場

区 分:砦

遺 構:土塁・敷石

城 主:小林氏

目 標:亀山小学校の裏山

訪城日:2014.5.13

お城の歴史

小林氏代々の居城で姉川合戦では朝倉側の武将として、小林佐馬頭家正の名がみえ、その孫小林新太郎政祐は関ヶ原合戦で島津軍を誘導した(日本城郭体系)

そんな伝説を残す小林氏と茂賀山城は、戦国時代になると京極氏・浅井氏の臣下となりました。姉川の戦いでは小林宗正が藤堂高虎と共に織田信長の本陣まで迫る勇猛振りを発揮し信長に賞賛されたのです。しかし宗正は討死しました。
やがて浅井氏が滅びると姉川での勇猛ぶりから宗正の息子・正国と正敏が信長の側近として召し抱えられます。でも二人とも本能寺の変で信長と運命を共にしたのです。 
秀吉の時代になると茂賀山城主は正国の子・正祐が勤めました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して岐阜城を守りますが、岐阜城が落ちると茂賀山まで帰城します。
その途中で関ヶ原の戦いに敗れて落ち延びる島津義弘一行と出会い高宮までの道案内をして義弘から感状を受けているんですよ。 

この後、小林氏は彦根藩に城を追われ南川瀬村で庄屋として江戸時代を過ごし、茂賀山城は不思議な伝説と共に歴史の闇に消えてしまったのです。 
現在、茂賀山には歴山碑が残されています(写真)。

平安時代末期、平家繁栄に陰りが見え始めると各地の源氏が平家追討を旗印に京の都を目指しました。この騒乱で都に一番乗りしたのは木曽を本拠地としている木曽義仲だったのです。義仲は同じ源氏の源義経に都を追われ討死しますが、義仲最後の直前まで彼に従っていたのは愛妾・巴御前でした。
そんな巴御前が産んだ義仲の子・三郎義秀が当時の豪族だった和田義盛の庇護を受けて安房国小林郷に屋敷を持った事から小林氏を称したのです。
しかし、和田合戦で和田氏が敗れると小林三郎義秀は近江国甲賀に逃れこの地で隠れ住むようになったのです。
南北朝時代になると小林宗政が近江を本拠地としていた佐々木道誉に従って活躍し茂賀山付近六ヶ村の地頭となり城を築きます。 
そんな茂賀山城は不思議な伝説が残っている事で知られています。 

金のニワトリの由来が記された茂賀山の歴山碑

現 状

 彦根市の荒神山とJRの線路との間に亀山小学校があります。そのすぐ裏に、亀山(茂賀山(もがやま))や金鶏山など、いくつもの名前を持った小さな山があります。
 そのなかの一つ、金鶏山からもわかるように、民話『金のニワトリ』の伝説が残っており、その由来がふもとにある歴山碑に記されています。
 昔はもっと大きく、亀を想像させる山でしたが、造成工事などで削り取られ、今は小さくなってしまいました。山の上には遊具のある「ジャングルランド」があり、小学校の子どもたちの遊びや学習の場になっています

  

西山麓に光雲寺

南からの遠景

参考資料:『日本城郭大系』、「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 

本日も訪問、ありがとうございました。


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