城郭探訪

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新宮支城 近江国(甲賀・甲南)

2013年03月13日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治  map:https://yahoo.jp/0gb5v9
区 分:丘陵城

現 状:山林
遺 構:曲輪・土塁・虎口・堀切
築城期:室町期

築城者:服部氏 

標 高:201m 比高差:20m
目標地:善願寺・新宮神社

駐車場:路上駐車
訪問日:2013.3.13

室町期、新宮城・支城で服部氏の城と伝えられます。 

 (新宮支城・・・新宮城)

お城の概要

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

2013年3月12日、東側麓沿いの道の城址碑の所から攻め込みました。西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭も。 

一段下がったところに北側、横堀の先に、井戸水を湛えて(防御の為か、飲料水ヵ)

東側から枡形虎口を攻込んでいく

主郭内

内部の平削し、土塁に積み上げ

北側土塁は、1mほど巾で方形(ロ字形)

土塁の外堀は、自然の地形と切岸を、

お城の歴史

方形に区画された曲輪(くるわ)を土塁や堀で囲み防御とする例は決してめずらしくはありませんが、同一の構造の城が地域全域に、しかも同時期に多数築かれたのは、隣接する三重県の伊賀地域を除いて他では見ることはできません。小規模な城が地域内に群在する姿こそが、甲賀の城の最大の特徴であり、それは戦国時代の甲賀の社会のありかたをひもとく「鍵」ともなるのです。

戦国時代の甲賀郡は、飛び抜けた領主がいなかったかわりに、谷ごとに土豪、地侍たち(甲賀衆)によって支配されていました。しかもその支配は本家である惣領家だけでなく、同じ性をもつ家(同族)どうしが結束してあって行うところに特徴があり、そういう一族の結合を「同名中」と呼び、掟を定め、戦の時の動員や、もめごとの解決などを寄会で合議し決定したと考えられています。

戦国時代後半にもなると、まず近接する同名中どうしが連合し、さらに広域(信楽を除く甲賀上郡域)の地侍が連合して地域を治めようとする「郡中惣」へと発展していきます。しかし、いずれの場合も地侍の連合に変わりはなく、最後まで領主権力を一カ所に集中させる方向に行くことはありませんでした。このような小領主間で横方向に連なる体制は、同じ大きさで、同じ形の城が地域内に群在する甲賀の城の姿と見事に符合しているといえます。

甲賀の城は1980年代後半から調査が進み、平成20(2008)年には、「甲賀郡中惣遺跡群」として5つの城が国の史跡に指定され、さらに翌年には甲賀衆の結束と寄会の場であった矢川神社と油日神社の両境内地が追加指定されています。指定された城跡はいずれも典型的な甲賀の城であり、集落に寄り添うように築かれています。このうち新宮城跡は、複数の曲輪を連ね主郭への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。またそれに隣接して築かれた新宮城支跡は、高さ10メートルに及ぶ高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御しており、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。「単郭方形四方土塁」を基本に、時代によって様々に工夫がなされた甲賀の城。現地を訪れてのその歴史を体感できるのも醍醐味といえるでしょう。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・甲南町新治の7城、『甲賀市史 甲賀の城』

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


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