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三好(織田)信孝の家臣団

2013年05月08日 | 武将

三好(織田)信孝の家臣団

<六角(近江守家)譜代家老衆>

<南近江国衆> 鏡・大原・青地・山内・馬淵ほか。

(青地)

青地道徹 (*)(佐々木)・入道。南近江国衆。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<養子の蒲生(青地)茂綱、母方の馬淵家の血を引き継いでいるのなら、蒲生でも佐々木氏一門ということで青地氏も継承できるということでしょうか。>

⇔青地茂綱 (*1530~1570)蒲生・駿河守・式部少輔。南近江国衆。蒲生定秀の息、蒲生賢秀の弟。青地(入道・道徹)長綱の娘と婚姻し養子となる。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。蒲生家とともに織田信長に臣従。宇佐山城主、森可成とともに朝倉軍との戦闘に討死。

青地元珍 (1560~1633)千世寿・四郎左衛門・内匠助。南近江国衆。蒲生氏縁戚。六角氏旧臣。織田家に臣従する。父・茂綱は森可成の与力で1570年朝倉氏と戦い森可成と共に討死した。佐久間信盛の与力。粟太郡の土豪。

 

(永田)

永田賢弘 (*)佐々木・備中守・入道。南近江国衆。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔永田景弘 (*~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。<舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか。永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。>

 

(平井)

平井高好 (*)(佐々木)。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。息に定武。

平井定武 (*)(佐々木)・加賀守。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。高好の息。六角定頼・義賢の家老。粟田郡平井領主。1537(天文6)年本願寺への使者。娘婿に浅井賢政を迎えるが破談。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

平井高明 (*)(佐々木)・弥太郎。南近江国衆。高島郡佐々木氏庶流。粟田郡平井領主。六角家家臣。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。

 

(三上) 幕府奉公衆に三上近江入道あり、独立性強し。

三上士忠 (*)栖雲軒。定頼の代の奉行人。布施・宮木氏と共に奉行衆。<三上頼安の入道名とも。>

三上頼安 (*)越後守。幕府奉公衆兼、定頼の代の奉行人。<高頼の代に三井右兵衛大夫・高就が北近江高島郡の知行を与えられる。子孫か。>

三上恒安 (*)越後守。南近江国衆。幕府奉公人・越後守頼安の息。六角家家臣。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

 

* (*)加賀美・各務。南近江国衆。六角家家臣。<六角分家。>

大原* (*)南近江国衆。六角家家臣。<六角義賢の次男・義定が相続か。>

山内* (*)南近江国衆。六角家家臣。<守護代山内家は建部氏に改姓。>

 

佐久間信盛・原田(塙)直政の軍団

<六角譜代家老衆>

<南近江国衆>

永原重隆 (*~1550)太郎左衛門・越前守。重泰の息。六角定頼の側近。1532年六角定頼の「山科本願寺攻略」に旗頭。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに鎮圧軍として上洛。1539年浅井亮政との対陣にも従軍。1540年細川晴元の後詰として進藤貞治とともに上洛軍。芥川城受け取りの奉行。

永原重興 (*~1562)越前守。重隆の息。弟に久重。六角義賢の侍大将。1562年三好軍との「久米田の合戦」に先陣。松永軍に敗北戦死。

永原重虎 (*)越前守。重興の息。六角家家臣。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。親後藤派。1563年「観音寺騒動」に当主・義治から離反。1568年織田家の侵攻に隠居。

⇔永原重康 (*)越前守。野州郡の土豪。六角家家臣。のち織田家に臣従する。佐久間信盛与力。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。><永原遠江守の件で誅殺されるか。>

↓永原* (*~1570)遠江守。六角家家臣。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に参加。

 

進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。

進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長様直参でなかったぶん、後藤家のほうが信長様に重用されるようになっていたのかもしれません。>

 

後藤* (*)左衛門。六角定頼の家老。1525年伊庭貞説の観音寺城攻撃を撃退。

後藤高雄 (*)六角定頼の臣。観音寺奉行衆。後藤氏一門。被官に杉山藤三郎。1525年「黒橋口の合戦」に九里・西川氏を討つ。1531年浅井家との「箕浦の合戦」に軍功。

後藤賢豊 (*~1563)重左衛門尉・但馬守。羽田荘の領主。義賢の筆頭家老。六角の両藤と讃えられる重臣。観音寺奉行衆。1562年六角義賢とともに上洛。大徳寺の警固等京都に治安を維持。1563年専横が過ぎると新当主・義治に観音寺城で討たれる。娘婿に蒲生賢秀。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

後藤* (*~1563)又三郎・壱岐守。後藤賢豊の嫡男。1563年専横が過ぎると当主・義治により、父・賢豊とともに観音寺城で討たれる。義兄弟に蒲生賢秀。

⇔▽後藤高治 (*~1589)喜三郎・高安・定豊・戸賀十兵衛。1563年「観音寺騒動」により壱岐守の跡職。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。親明智派。蒲生家に出仕する。<父・兄を亡くした後、よくぞここまで家を再興したとおもいます。><たぶん若いと思います。>

 

 

 六角氏に六奉行なるものがあったとすれば、斎藤家もそれを真似ていたとうことでしょうか。信長も五奉行=六奉行みたいな側近衆を形成していますいし、当時の戦国大名の政治スタイルなのかもしれませんね。

斎藤道三、義龍の家臣団

<六角(弾正忠家)譜代家老衆> 永禄10年三上・後藤・進藤・蒲生ら重臣14氏20名が「式目」起草、六角当主に承認させる。

<六角弾正忠内衆> 永原・池田・布施・狛・山中・三雲・望月・黒川・三井・神崎・新村・瓦薗・河井・横山。

 

(三雲氏)

三雲定持 (*~1570)三郎左衛門・対馬守。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。<1525年六角定頼の動因に従う譜代家。>

三雲賢持 (*~1566)新左衛門尉。三雲定持の息、1566年浅井長政に破れ討死。

三雲成持 (*~1603)豊左衛門尉。1566年兄・賢持の討死し家督。三雲城主。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。六角家滅亡後は浪人。1584年北畠信雄に出仕。

 

(三井氏)

三井将鶴 (*)離相庵。親後藤派。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

三井治秀 (*)新五郎。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。

 

(山中氏)

⇔↓山中俊好 (*)春好。山中貞俊の息。甲賀郡中惣の伴・美濃部とともに柏木三家と称される旗頭。1549年兄・大和守久俊の死後、家督。1574年頃には織田家に臣従。甲賀衆。

⇔↓山中長俊 (1547~1607)吉内・橘内・山城守。山中為俊の息。六角氏旧臣。長光寺城主の柴田勝家与力となり、のち柴田家の家老職。丹羽長秀、堀秀政に歴仕。秀吉に祐筆として迎えられる。

 

(布施氏)

布施公雄 (*)淡路守・淡路入道。親後藤派。1566年、義治に不信を抱き篭城。寄せ手の大将・三雲賢持と抗戦する。親後藤派。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。息に公保。

布施公保 (*)藤九郎・忠兵衛。六角氏旧臣。蒲生賢秀の娘婿。1570年旧主六角義賢との「落窪の合戦」に参陣。伊勢「北畠氏征伐」に従軍。1578年8月安土相撲に奉行、相撲披露。のち蒲生家の与力から、信長直参馬廻衆。親明智派。<蒲生勢力、侮れませんねえ。>

 

(池田氏)

池田景世 (*)真光寺周揚。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>

⇔池田景雄 (1528~1597)池田秀雄・弥次郎・孫次郎・伊予守。親後藤派。蒲生郡の土豪。小井城主。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。1573年「槙島城攻囲戦」に従軍。1575年明智光秀の与力として「越前一揆平定」に従軍。天正3年まで柴田勝家与力、以降佐久間信盛与力。親明智派。朝鮮に陣没。<1572年武田信玄の上洛に旧主・六角義治と連絡をとっていたようです。>

池田高祐 (*)池田秀氏・孫二郎・伊予守・。蒲生郡桐原村池田の土豪。池田景雄(秀雄)の息。のち藤堂家に出仕。

 

(狛氏)コマ

狛 * (*)駒・丹後守。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署受取人。<「駒殿」の呼称からすれば朽木系佐々木氏?。>

 

(望月氏)

⇔↓望月吉棟 (*)義治に親しく、病気の見舞いを受ける。甲賀中惣衆。1569年織田家と三好三人衆との戦況を義治に報告している。のち織田家に臣従。信長から宿の手配を依頼される。

 朝倉義景の家臣団  浅井長政(賢政)の家臣団

南近江国人領主

(建部氏)

建部賢文 (1522~1590)建部秀昌の息、兄は秀治。箕作城主。のちに書家として大成する。

建部秀明 (*~*1568)源八郎。1568年織田信長の上洛軍に対して、六角義治に忠節を尽くし徹底抗戦し落城。観音寺城の前衛・箕作城主。

⇔建部寿徳 (1536~1607)与八郎・内匠頭・高光・秀栄。蒲生郡の土豪。織田家に臣従する。中川重政の与力。・丹羽与力。守山にて500石を与えられる。変後、秀吉に出仕。<じいさんっぽい名前ですが、丹羽・羽柴世代。>

 

(宮木氏)

宮木重祐 (*)対馬守。六角氏家臣。

宮木賢祐 (*)右衛門尉。六角氏家臣。観音寺奉行衆。1551年浅井攻略に太尾城に留守居。1557年義賢の伊勢征伐に軍備を整える。のち織田家、豊臣家に出仕。<秀吉家臣の堅甫とは別人とも。>

宮木堅甫 (*)右兵衛。六角氏家臣。息に正重、文利、豊盛。<賢祐とは別人らしい。>

宮木豊盛 (1554~1620)長次郎・丹波守。賢祐の養子。豊臣家の直轄地代官、朝鮮に渡航。徳川家に出仕。秀忠の伽衆。

 

(山崎氏)

⇔山崎片家 (1547~1591)堅家。六角氏家臣。後藤賢豊の嫡男が娘婿。親後藤派。織田家に臣従する。安土城二の丸在番衆。本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも「秀」字を与えられ、世渡り上手です。><想像してたよりも以外に若い。>

⇔山崎家盛 (1567~1614)与市・左馬介。

⇔山崎頼久 (1570~1609)右京進・長俊・忠頼。山崎片家の息。宮木豊盛の養子となる。秀吉に仕え1587年北野大茶会の奉行。

 

(山岡氏) 佐久間信盛・原田(塙)直政の軍団

山岡景之 (*)息に景隆、景佐、景猶、景友。

⇔山岡景隆 (1525~1584)美作守。山岡景之の嫡男。六角氏家臣。山岡氏惣領、瀬田(勢多)城主。江南の旗頭。粟太郡の豪族。1569年頃から織田家に臣従し、伊勢北畠氏「大河内城攻囲」に従軍。柴田勝家の与力。1571年12月より粟太郡を支配する佐久間信盛の与力。信長の宿泊宿。1571年「比叡山焼き討ち」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1573年7月足利義昭の与力(実弟)山岡景友を撃破。1577年紀州「雑賀・根来征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。反明智派。柴田勝家と懇意。瀬田城主。

山岡景宗 (*)孫太郎・修理亮・景昌・景広。山岡景隆の嫡男。信長に父と別行動で一隊を統率することが許された織田家中の若手将校。山岡隊の副将。1576年摂津「石山本願寺攻囲」に従軍し天王寺砦を守備。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。のち徳川家に出仕。

山岡景友 (*)三井寺・道阿弥・光浄院・暹慶。景之の息(4男)。

 

(高野瀬氏)

高野瀬頼定 (*)頼貞。愛知郡の豪族。光頼の息。弟に定季。六角義賢に従い、畿内の合戦に戦死。肥田城主。息に秀隆。

高野瀬秀隆 (*~1574)修理大夫・備前守。頼定の息。六角氏家臣。犬上郡の豪族。1560年浅井長政に離反。織田家に降伏臣従。1574年「越前一向一揆」討伐に戦死。息に秀澄、隆景、定隆、隆英。肥田城主。

↓↑高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲の合戦」に討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。><実は定季の子孫とかで、秀隆とは分家の別流か。>

 

(吉田氏) 戦国なのに御長寿の家系です。

吉田重賢 (1463~1543)(佐々木)・太郎左衛門・上野介・出雲守・重長。六角氏家臣。日置流弓術を相伝する。これに改良を加え吉田流弓術を興した。81歳。息に重政。川守城主。

吉田重政 (1484~1569)(佐々木)・出雲守。重賢の嫡子。吉田流弓術を相伝する。84歳。息に重高、重勝。川守城主。

 

(小倉氏) 分家が乱立していたようです。信長と縁があるのは八尾山城主の小倉氏。

小倉実秀 (*~1564)小倉・右近大夫・右京大夫・賢治。東近江の蒲生郡佐久良庄の豪族。蒲生氏と抗争。1564年主・六角義賢と対立し自害。息に実治。

小倉実澄 (*~1570?)右京亮・実房。神崎郡御園庄の豪族。1570年越前から撤退する織田信長を先導する。六角家と抗争し蒲生定秀軍に攻略され戦死。八尾山城主。息に甚五郎、松寿。<室は奥政景の仲介で「お鍋の方」として織田信長の側室に迎えられる。>

小倉松寿 (*~1582)準織田一門。信長室、鍋ノ方の連れ子。近江六角氏の旧臣、小倉実澄(信長に内通したため討たれた)の息。本能寺に駆けつけ奮戦し討死する。直参御番衆。<運命の不思議/鍋の方は、自分を一度は追った蒲生氏に、変の際は加護される。

 

(多羅尾氏)

多羅尾光俊 (1514~1609)四郎兵衛・四郎右衛門・道賀。近江甲賀信楽の豪族。六角氏旧臣。1574年多聞山城城番をつとめる。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<伊賀・甲賀が滅ぼされたといいますが、果たしてそうなのでしょうか。信仰や旧縁で相容れなかった、反抗的な土豪が滅んだ、または追放されただけかと思います。><河内の多羅尾常陸とは別系統。>

⇔▽多羅尾光太 (1552~1647)彦一・彦市・久右衛門・左京進。近江甲賀の豪族、多羅尾光俊の息。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。多羅尾隊の副将。変事、徳川家康の伊賀越えに協力する。<河内の多羅尾常陸とは別系統のようです。>

 

 

 

南近江国人領主

小川祐忠 (*~1601)孫一郎・土佐守。六角氏旧臣。近江神崎郡小川の豪族。1571年織田軍に小川城を攻撃され降服。柴田勝家の与力となる。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。親明智派。のち柴田勝豊家臣。1583年4月勝豊死後、秀吉家臣。小牧長久手に兵250動員。のち伊予今治に7万石を領する。関ヶ原に失領。<本能寺の変ののち惟任勢でありながら、秀吉のもとでも出世し世渡り上手です。><ひょっとして若いかもしれません。>

青木* (*)玄蕃允。六角氏旧臣。1581年「伊賀平定戦」に堀秀政配下「信楽口」従軍。<青木所右衛門・一重が渥美一族と因縁が深いことから、渥美玄蕃允とも呼べるような気がします・・(妄想)。>

平野* (*)土佐守。元・六角家臣。1573年4~7月京都「足利義昭征伐」に従軍。1573年8月越前乱入「朝倉・浅井征伐」に従軍。1581年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。1582年1月安土爆竹(馬揃え)馬廻衆北方組。近江福島城主「近江輿地志略」。<平野姓といえば秀吉配下の平野長泰(彼の父は船橋枝賢の息子で、後北条氏家臣・平野万作の養子となった平野長治)と関連する一族か?>

 

木村* (*)筑後守。六角義治の側近。1568年足利義昭・織田信長の上洛に、協力要請の使者の取次。

高畠* (*)源十郎。近江野洲郡北里の土豪。六角家家臣。娘婿に小倉実澄。<織田信長と縁が繋がります。>

種村貞和 (*)近江の豪族。六角家家臣。義弼の側近。観音寺奉行衆。後藤・平井・布施と奉行を務める。

和田* (*)嘉助。近江の豪族。六角家家臣。織田軍の上洛軍を6000の軍兵にて迎え撃つ。和田山城主。

黒川* (*)近江の豪族。六角家家臣。1573年の一揆に参陣。

新村* (*)近江の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。

河井* (*)近江の豪族。六角家家臣。1570年の野洲一揆に参陣。

横山* (*)近江の豪族。六角家家臣。

瓦薗* (*)近江の豪族。六角家家臣。

神崎* (*)近江の豪族。六角家家臣。

 

 

六角氏残党

<1568年以降の反 織田信長勢力>

1570年4月落窪「野洲川の合戦」六角氏再興をかけて、柴田・佐久間軍との合戦。 (六角側:三雲・高野瀬・永原・乾) 1572年「金森の合戦」に一揆勢力は鎮圧される。

↑永原* (*~1570)遠江守。六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に参加。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣の将。<織田政権下では、永原一族は佐久間信盛の与力を経て、直参として迎えられず没落していく様子です。反抗したことが尾をひいたのでしょうか。>

↑高野瀬秀澄 (*~1570)美作守。六角氏家臣。犬上郡の豪族。高野瀬秀隆の息。1560年浅井方として肥田籠城。六角義賢の軍勢25000に包囲される。後詰に出動した浅井長政が「野良田の合戦」で義賢を撃破。六角家は斎藤家と再度同盟。のち六角家に帰参。1569年織田家の上洛軍に抵抗するが敗走。1570年六角義治に味方し「野洲川の合戦」に先陣の将。討死。肥田城主。<先祖は1525年六角定頼の動員に従う譜代家。高野瀬秀隆は浅井に降る。>

乾 * (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に先陣。

新村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>

種村* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。

河井* (*~1570)六角氏家臣。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に遊軍。<譜代の臣。>

↓美濃部* (*)義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆?>

三上* (*)伊予守。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に本軍。合戦中に離反し織田方に転ずる。

望月* (*)義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。義賢とともに落ちる。<甲賀衆?><望月吉棟の一門か。>

三雲* (*~1570)三郎左衛門。義賢の挙兵に参陣。織田軍との「野洲川の合戦」に敗北。戦死(義賢とともに落ちるとも)。<甲賀衆?>

1571年「近江一向一揆」。<本願寺から派遣された軍事指導者。>

⇔↑小川祐忠 (*)孫一郎・孫市。一向一揆と結び反乱。志村落城を見て降伏し織田家に臣従。小川城主。

志村資則 (*)筑後守。一向一揆と結び反乱。織田軍の総攻撃を受け逃亡。志村城主。

川那辺秀政 (*)一向一揆と結び反乱。金ケ森城、安土常楽寺城主。<石山本願寺から派遣された侍大将とも。一向宗の在地の豪族のような気もしますが。>

1573年近江志賀郡、高嶋郡、西近江「木戸・田中城攻防戦」。南近江「百済寺・鯰江城攻防戦」。「甲賀石部城攻防戦」。

 

鯰江貞景 (*~1573)三井。貞秀の息。兄弟に貞春、貞興、秀国、政次、高次。1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。

鯰江貞春 (*)森・毛利・定春。貞秀の息。貞景とともに1568年観音寺城から落ちた六角義賢を迎える。元亀争乱に六角氏勢力として「百済寺・鯰江城攻防戦」。六角義治を擁して一揆とともに蜂起する。のち秀吉に出仕し毛利に改姓。

黒川* (*~1573)修理進。甲賀郡黒川の豪族。六角義治の家臣。甲賀郡中惣衆。元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。伊勢国境の豪族。

倉垣* (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。

木村* (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として一揆とともに蜂起する。

石部家清 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

三雲成持 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

山中長俊 (*~1573)甲賀衆。元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。1574年頃には織田家に臣従。

山中氏俊 (*~1573)元亀争乱に六角氏勢力として、義賢を擁して一揆とともに蜂起する。「甲賀石部城攻防戦」。

 

 これだけ度々一揆がおこせるとは、けっこう忠臣達がいた感じですね。里見八犬伝なみの六角氏再興物語があったりして。

尼子の山中幸隆といい、六角残党といい、復活した京極氏といい、佐々木系はしぶといですね(汗。

織田が尼子残党に手を貸したように、上杉家や武田家、毛利家も手を貸していたりするかもですね。

 

  

 


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