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城郭探訪

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後藤又兵衛討ち死

2016年11月19日 | 文化財

後藤又兵衛討ち死に報告 豊臣秀頼に、書き付け発見

大坂の陣で後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付け

 岡山県立博物館は17日、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと発表した。

 同館によると、腰に重傷を負った又兵衛は配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から授かった脇差し「行光」を使っていたことが初めて分かったという。

 書き付けは縦27・4センチ、横35センチ。又兵衛の下で戦い、秀頼に又兵衛の討ち死にを報告したとみられる金万平右衛門の子孫宅で見つかった。25日から同館で展示する。

【京都新聞 2016年11月17日 12時55分 】


指月伏見城、石垣と堀発見 

2016年11月19日 | 丘陵城

指月伏見城、石垣と堀発見 慶長地震で倒壊か

高さ2・8メートル、南北14・5メートルにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡(京都市伏見区桃山町泰長老)

 豊臣秀吉が造営した初期の伏見城(指月城)とみられる石垣と堀が19日までに、京都市伏見区で見つかった。関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が発表した。指月城とみられる石垣は過去にも部分的に見つかっているが、6~7段積まれた本格的な石垣の発見は初めて。

 調査地は、伏見区桃山町泰長老と同区常磐町にまたがる公務員宿舎跡地で、文献などから指月城の西側と推定される。堀は幅20メートルに及ぶ可能性があり、高さ2・8メートルの石垣が南北14・5メートルにわたって確認された。自然石や割り石を積み、隙間に小石を埋めていた。

 指月城は1592(文禄元)年、秀吉が隠居所として指月の丘に建設を始め、天守を備えた本格的な城へと改造したが、96年の慶長伏見地震で倒壊。北東の木幡山に後期の伏見城を建立した。

 見つかった石垣に地震で崩壊した跡はなかったが、堀にたまった泥には、建具の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていた。

 吉川代表は「地震で倒壊した建物の瓦だと考えられ、地震以前に築かれた初期の伏見城の石垣と言える。それぞれの石の平らな面を表にして積み上げるなど手が込んでいる」と話している。

 【 京都新聞 2016年11月19日 22時50分 】


戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

2016年11月19日 | 文化財

戦国期の惣構えか 京都市内最大級、堀の跡発見

京都府庁の北側で見つかった、戦国時代の自衛施設「上京の惣構」とみられる東西方向の大規模な堀(京都市上京区)

 16世紀後半の戦国時代に機能した大規模な堀の跡が、京都市上京区の京都府庁北側の発掘調査で見つかり府埋蔵文化財調査研究センターが17日、発表した。自衛のための防御施設「構(かまえ)」とみられ、市内で確認された中では最大級。上京全体を囲った惣構(そうがまえ)の可能性があるという。

 上京区下長者町通新町西入ルの府庁北側の中立売署跡地で、幅約5メートル、深さ約3・5メートルの堀が約75メートルにわたって確認された。北側の下長者町通(当時の鷹司小路)に沿って東西にさらに延びていたとみられる。

 北側から短期間で埋められており、堀の土で北側に土塁を設けていた可能性がある。同センターは「市内で60カ所以上見つかった構の中で最大級。北側を守る大規模な構だとすると、上京一帯を囲った惣構ではないか」とみている。堀を埋めた後に掘られたごみ穴から、豊臣秀吉時代の大名屋敷のものと考えられる金ぱく瓦が出土した。

 現地説明会は19日午前10時半と午後1時半の2回。現地事務所の携帯電話090(3995)3936(当日のみ)。

【京都新聞 2016年11月17日 22時20分 】