goo blog サービス終了のお知らせ 

城郭探訪

yamaziro

三上藩と藩士鷲見(スミ)家

2015年03月29日 | 番外編

三上藩陣屋(参考資料:Wikipedia:ウィキペディア)

三上藩(みかみはん)は、現在の滋賀県野洲市野洲町三上に存在した藩。藩庁は三上陣屋(城主格)

藩主家は遠藤氏である。

遠藤家は美濃郡上藩2万4000石を領していたが、元禄2年(1689年)に第4代藩主遠藤常春が謎の死を遂げると、これが家臣団を二分する家督騒動に発展。跡目を相続した遠藤常久も元禄6年(1693年)7歳の時に家臣によって毒殺されるに及び、ここに郡上藩遠藤家は無嗣改易となった。

 しかし藩祖・遠藤慶隆の功績が特に考慮された結果、時の将軍・徳川綱吉は側室・お伝の方の妹と旗本・白須正休の間にできた長男を、いったん遠藤家の遠縁にあたる美濃大垣新田藩1万石の藩主・戸田氏成の養子としたうえで、これを改めて遠藤家に入れて遠藤胤親と名乗らせ、この胤親に常陸・下野で都合1万石を与えた。こうして旧郡上藩遠藤家とはまったく無縁ながらも胤親が大名に取り立てられたことで、遠藤家は形ながらも家名存続を果たしたのである。この胤親が元禄11年(1698年)に近江四郡に移封となり、ここに三上藩が立藩した。

若年寄となった第5代藩主・遠藤胤統は、嘉永5年12月(1853年2月)、江戸城西の丸造営の功績を賞されて2000石の加増を受けた。幕末の万延元年(1860年)には城主格に格上げされている。胤統は文久3年(1863年)に隠居し、後を孫の遠藤胤城が継いだ。胤城は講武所奉行に任じられ、長州征伐などに活躍。

 徳川慶喜の代には奏者番に任じられて将軍側近となり、佐幕派としての立場を貫いた。しかしこのため、慶応4年(1868年)1月に新政府から朝敵と見なされて領地を召し上げられた。しかし同年5月には罪を許されて領地を戻され、翌年6月には三上藩知事に任じられた。胤城はその後明治3年(1870年)4月に藩庁を和泉国吉見に移したため、以後は吉見藩と呼ばれることとなった。

歴代藩主

遠藤(えんどう)家

準譜代。1万石→1万2,000石。

  1. 遠藤胤親(たねちか)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-享保18年(1733年)9月25日隠居】
  2. 遠藤胤将(たねのぶ)【享保18年9月25日藩主就任-明和8年(1771年)4月12日死去】
  3. 遠藤胤忠(たねただ)【明和8年6月4日藩主就任-寛政2年(1790年)2月20日隠居】
  4. 遠藤胤富(たねとみ)【寛政2年2月20日藩主就任-文化8年(1811年)6月23日隠居】
  5. 遠藤胤統(たねのり)【文化8年6月23日藩主就任-文久3年(1863年)9月25日隠居】
  6. 遠藤胤城(たねき)【文久3年9月25日藩主就任-明治3年(1870年)4月14日移封】

 

藩士「鷲見(スミ)家の歴史」

藩主の遠藤家はもと美濃の郡上を領していた一族である。一時は無嗣改易の危機にも陥ったが、徳川家の裁量により養子を得て、17世紀末期に三上藩の藩主となった。

鷲見家ももとは美濃の郡上八幡・鷲見郷に住していた武士の一族である。

遠藤家の家臣として三上にまで移りすみ、家老として江戸時代末期までこの地に家を構えていた。

      今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


永原御殿 近江国(野洲)

2015年03月29日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:野洲市永原 map:http://yahoo.jp/nK6-06

別 名:永原御殿

築城期:江戸期

初城主:徳川氏

区 分:御茶屋御殿

遺 構:土塁、堀、石垣、門(浄専寺に移築された永原御殿の移築門)

城 域:200m×200m

目標地:野洲北中学校

駐車場:永原御殿前駐車場

訪城日:2012.12.14・2015.3.28

お城の概要

 江部の交差点を西(琵琶湖方面)に約300m入ると、住宅地の中を抜けると、竹林がある。ここが永原御殿跡である。

地元の人たちはボランティアで竹を刈りたいと役所に申し入れたそうだが、御殿跡を保管管理する手前、許可されない。
御殿跡の西側には石積みが残り、御殿の門が同町の浄専寺に移築されているが、管理状態はあまり良いとはいえない。
また、草津の芦浦観音寺に貞享2年(1685)に移建された一棟が観音寺書院(重要文化財)として残されいる。

(野洲市歴史博物館)

お城の歴史

 永原御殿は、江戸期に将軍が上洛する際の宿舎として造られたもので、近江国内では永原御殿以外に柏原御殿伊庭御殿・水口御殿(水口城)がある。将軍家が中山道を通って上洛する場合、永原御殿の次の宿舎は京都二条城であった。
この永原御殿も、貞享3年(1686)、幕府の命によって廃城となった。

 近江守護の観音寺城主佐々木六角氏の重臣で、野洲、栗太、甲賀にまで勢力を拡げていた永原氏が築いた永原城がその前身で、その築城年代は定かではないが、室町時代中期といわれる。永原城は永禄11年(1568)、織田信長の近江侵攻の際に攻められており、元亀元年(1570)には信長の重臣、佐久間信盛が入城しており、その後、豊臣政権下の文禄年間(1592~96)に廃城となった。
 関ヶ原合戦後に家康公が権力を掌握すると、中山道と朝鮮人街道の近くにある永原城の跡地を利用して将軍上洛時の宿泊施設としての永原御殿が築かれた。永原御殿は慶長 6年(1601)、家康公が利用したのをはじめとして、その後、家康公が 6回、2代将軍秀忠が 2回利用し、寛永11年(1634)、3代将軍家光が上洛にあたり利用したが、これが10回目の、最後の利用となった。この後は徳川幕府の権力が磐石なものとなったことから将軍が上洛することはなくなり、各地の御殿と同じく、必要性のなくなった永原御殿は、貞享 2年(1685)に廃止された。尚、御殿の建物は芦浦観音寺(草津市芦浦町)に書院として移築されており、国の重要文化財に指定されている。又、浄専寺(野洲市北)には門が移築され、現在も残されている。

御殿跡の西側には石積み

浄専寺に移築された永原御殿の移築門

浄専寺に移築された永原御殿の移築門 (野洲市歴史博物館)

 永原御殿は御茶屋御殿の遺構。

御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです

これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったため。

 (野洲市歴史博物館)

復元模型(野洲市歴史博物館)
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。

幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

       今日も訪問ありがとうございました。