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城郭探訪

yamaziro

文化財の撮影方法学ぶ 安土城考古博でアドバイス

2014年11月25日 | 講座

文化財の撮影方法学ぶ 安土城考古博でアドバイス

寿福さん(左)のライティングの説明を聞きながら、シャッターを切る参加者=近江八幡市安土町下豊浦・安土城考古博物館 

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)で24日、文化財や美術を専門とする写真家、寿福滋さんを講師に招き、仏像など文化財の撮影方法を学ぶワークショップが開かれた。

 約20人が参加し、寿福さんが事前に撮影した写真を使いながら、レンズの特性や光りの特徴などを講義した。

 続いて、鎌倉時代ごろの毘沙門天像を題材にした撮影会を行い、寿福さんが作品を講評した。寿福さんはライトの位置を変えながら「思いを表現するなら極端なライティングがいい」「もっと前へ肉薄して」などとアドバイスし、参加者は耳を傾けながら熱心にシャッターを切っていた。

 同市小船木町から参加した上垣香織さん(37)は「光りの当て方によって仏像の印象が変わった」と話していた。(京都新聞)

京都新聞の江夏順平記者(イケメン?)

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)・・・館内

中庭

安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


梅戸城 伊勢国(大安町)

2014年11月25日 | 丘陵城

梅戸城

お城のデータ

所在地:いなべ市大安町門前字天水   maphttp://yahoo.jp/6tp7SA

現 状:光蓮寺山公園・山林

区 分:丘城

標 高:84m 比高差:40m

遺 構:曲輪・土塁・空堀・石碑・説明板

築城期: 戦国期

築城者:春日部左衛門太夫  改築者:梅戸左衛門高実(高貫)

城 主:梅戸左衛門高実(高貫)・次男:実秀

目 標:光蓮寺

駐車場:光蓮寺駐車場

訪城日:2014.11.23


 

お城の概要

梅戸城は、光蓮寺山標高84mの東部先端に築かれていた。現在光蓮寺山西部には工場が建ち幹線道路が走っていて、そちら側からの梅戸城は、比高差のない平城のように見える。しかし東側から望むと、高い丘陵地の天然の要害だ。

主郭部には石碑が建ち、光蓮寺山公園として一旦は整備されたようだが、その後放置されている。遺構の確認は困難だが、主郭部には土塁がめぐり、比高差のない西側は空堀で防備されていた。

西側にはNTTの鉄塔や畑地、公園化などにより破壊された部分も多く、全貌が把握しづらい状態だ。

 梅戸城は梅戸高実の墓所である光蓮寺の西の丘陵に築かれており、現在は光蓮寺山公園として整備されている。

 現在公園の石碑が建ち三角点のある所が一段高く土塁のようである。その背後は堀切はなく無線中継施設や畑などとなって平たい土地が続いている。三角点のある所から南に向かって曲輪があり、周囲には土塁が残っている。もう一段南に小郭がある。堀切が残っているとされる。

 長谷川博美氏(中世城郭研究家)墓前で手書き!見事であった。

歴 史

 城主梅戸氏は、国人田光氏の末裔で、北伊勢四十八家の一つ、付近にかなりの勢力を誇っていた。近江と北伊勢を結ぶ八風街道を押さえていた梅戸氏に目をつけた近江守護六角高頼は、四男・高実(高貫)を養子として送り込んだ。

 高実は近江国佐々木六角氏の六角高頼の四男で梅戸氏の養子となり家督を継いだ。伊勢国桑名から近江国八幡に通じる八風街道一帯を領した梅戸氏は、通行税徴収のために梅戸城を築いたとされる。

永禄4年(1561)高実が死亡し、次男・実秀が跡目を継いだが、永禄11年(1568)織田信長の北勢侵攻により滅ぼされた。

梅戸高実

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 梅戸 高実(うめど たかざね、 文亀2年(1502年)- 永禄4年(1561年))は、戦国時代の武将。六角高頼の子で梅戸氏に養子に入る。

梅戸氏は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である高実を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

後に梅戸城(現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている)を築城する。高実の死後は次男の実秀が家督を継いだが、1568年に織田信長に攻められて滅亡している。

 

光蓮寺から登ってもいいですが、西側からハイキングコース(林道)が通じている。 

主郭に薄く残る土塁

城址公園碑・説明板三角点主郭南東部の切岸と空堀?曲郭Ⅱ・・・主郭の間に近世の切通し(林道)曲郭Ⅱの土塁で囲う。梅戸城(遠景)駐車場

本堂の裏に墓碑が。

ご住職の御好意で案内して頂きました。

宝篋印塔享禄・天文(1528~54)の頃、笠間郷を管理していた春日部左衛門太夫の居城が、光蓮寺後方の丘陵にあったが、朝明郡田光を領していた梅戸高実により滅ぼされ、以後梅戸氏の居城となって梅戸城と称された。高実は近江の佐々木高頼(六角氏)の四男で、梅戸家を継ぎ、左近太夫に任ぜられた。

 


 この地は伊勢湾を一望でき、さらに寺から約200メートルの雑木林の中に「史蹟八風街道番所趾」碑があるように、桑名と近江日野を結ぶ八風街道が通過する地点で、通行税徴収の権利を手に入れるため、春日部氏を滅ぼして田光城の支城としたものである。

 その子高宗は天文23年(1554)に他界しており、次男の高秀が後を継いたが、永禄11年(1568)織田信長の伊勢平定の戦いの際に戦死し、梅戸城も落城した。この時、高実は逃れて伊勢長島城に入り、一向宗とを率いて織田軍と戦い、天正3年(1575)一揆が平定された後、千草氏などと共に長島において切腹を命ぜられ、その生涯を閉じた。


 光蓮寺の本堂裏にある石組みの塚の上に、数基の宝篋印塔(の部分)が五輪塔群と共に祀られており、台上中央にある相輪・笠・基礎・基礎の部位で出来た総高180センチほどの宝篋印塔は梅戸高実の墓と伝えられている。

中央の宝篋印塔の笠と最下部の基礎は同一の塔のもので、この中では一番古く14世紀末、中段の基礎は15世紀中頃、相輪はそれよりやや後と思われる。この塔の左右にある小形の笠1・塔身1・基礎5を含めて、これらの宝篋印塔の造立は、応永頃から永正頃(15世紀~16世紀中頃)のものと思われ、この宝篋印塔を梅戸氏の墓とするに「矛盾しない」とのことである。

長谷川博美氏(中世城郭研究家)墓前で梅戸城概要頭を手書き!見事であった。

ご住職の御好意で本堂へ

木造薬師如来坐像【光蓮寺】とても、綺麗な

 光蓮寺の本尊。昭和54年に県文化財の指定を受けた木造の坐像。
平安後期に作られたと伝わっています。作者は、不明とも行基とも。

桧材寄木作で、彫眼。像の高さは89.4cmの結跏趺座(けっかふざ;座禅の時の座り方)で、円満安産の相です。

 衣文の彫りは浅く流れるような線で彫られています。肉髻珠(にくけいしゅ;仏頭ともいい、頭にあるぼこぼこした部分のこと。二段になっている)や、百豪(びゃくごう;眉間にある光を放つ珠玉のこと)は水晶が使われています。顔は丸顔で温和。平安朝様式をよく伝えています。台座は後の時代に補われました。

臨済宗妙心寺派笹笠間山光蓮寺は、天平8年(736年)僧 行基の開祖と伝わっています。

秀吉の掟書き「禁制」山岡撤収の書

参考資料:現地説明板・城祉碑 ・ご住職の説明・Wikipedia

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!