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城郭探訪

yamaziro

黄和田(きわだ)城(黄蘗城) 近江国(永源寺・黄和田)

2013年05月04日 | 平山城

 

京極氏隠れ城【京極治部少輔材宗の城砦)

お城のデータ

別 名:黄蘗城

所在地:東近江市(旧:神崎郡)永源寺黄和田町城ノ腰   map:http://yahoo.jp/ujmIi5

目標地点:旧政所小学校、黄和田日枝神社

区 分:平山城

標 高:486m  比高差:10m 

現 状:山林

遺 構:郭・碑・説明板・石積(大半は棚田用カ)

築城期:南北期

築城者:小倉氏

城 主:青山大蔵太輔幸成、永正年間に河副公政、永禄年間には河副吉長が在城。 

訪城日:2013.5..4

お城の概要

黄和田城は、愛知川に沿って伊勢へと通じる八風街道を眼下に押さえるように、黄和田地区東側の山裾を利用して築かれた城だ。

 階段状に何段もの削平地があり、その一番高所に城石碑と案内板が建てられている。城の遺構は、削平地の曲輪群だけだが、おそらく後世に築かれた棚田の石垣が、「お城」の石塁・石垣か。

お城の歴史

 黄和田城、南北朝時代に小倉氏によって築かれたと。大岩日記に「小倉殿の家来、河副才蔵を黄和田の八風越え目付にしける」をある。

善光寺如来縁起には、「往昔青山氏(小倉氏の一族)の先祖(青山大蔵太輔幸成)居城の時」とある。

 室町時代に京極家の内紛に敗れた京極大膳大夫政高とその子京極治部少輔材宗が黄和田城に逃れている。 また、永正年間に河副公政、永禄年間には河副吉長が在城した。  

 京極政経(政高)と子の材宗が居住したと伝承されます。京極政経(政高)は持清の子で、応仁の乱を挟んだ頃の京極氏の当主であった人です。

 長享二年(1488年)、秦川(現在の愛荘町)の松尾での京極高清との戦いに敗れた京極大膳太夫政高が政所から黄和田城に逃れたといわれ<伊勢に逃亡したが通説?>、以来、京極氏の城として、江勢国境八風峠・石槫峠の要衝を抑えたものと思われます。

 京極政高の子の材宗は、黄和田城を根拠地として在城しており、金剛輪寺から年始の贈り物を材宗とその家老の市村某に届けたと伝えられています。永正二年(1505年)には材宗と高清は和睦し、正式に京極氏の当主は高清となったようです。

後に、守護佐々木六角氏の被官の小倉氏(西家)はこの小椋谷を領し、家臣の川副孫三郎吉永という人を置きました。<現地案内板より>

城跡には集落側からも入れ、入り口にも説明板が立っていて、脇には五輪塔が二基ありました。

集落からの城跡入り口の説明板

主郭の説明板と城址碑

高台の一角に城址碑というか墓碑と地元の方の手書きの説明板が立っています。この辺と稲荷神社付近の石垣は若干他の石垣と違っても見え、せめてこれくらいは城の遺構だといいのだが・・・。

城主の墓か? 。黄和田の手前の集落が政所、説明板には京極氏が居た館があったようです。

小さな稲荷の祠があります。

この辺から城域には石垣が累々とありますが、たぶん棚田の跡か集落の跡カ?。今は檜が植林され、綺麗に手入れがされています。

黄和田城(遠望)

 黄和田集落

日枝神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、永源寺町の歴史探訪1、史跡ウォーカー

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


和南(わなみ)城 近江国(神崎郡・永源寺)

2013年05月04日 | 平城

 小倉城は承暦年代(1077~1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いたものである。

 室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉氏本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城、鳥居平城、長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、
小倉西家は神埼郡御園庄(山上郡)を支配し、山上城を本拠として和南城、山田城、相谷城、九居瀬城,八尾山城等の支城を設けた。

 小倉氏は承暦年代に小倉城を築いた以後、約500年間にわたって愛知・神崎・蒲生三郡の東部を領し、六角氏、蒲生両氏の隣強と東近江の雄を競ったが、永禄年間(1558~1569)に至って、小倉一族の間に内乱が起こり、第17代城主・小倉良秀が敗れて城は焼亡し、同族は各地に散逸した。

所在地:東近江市和南町  map:http://yahoo.jp/xeOvuk
    旧:神崎郡永源寺町和南

標地点:多度神社・光明寺

区 分:山城  

標 高:300m  比高差:70m

現 状:山林

遺 構:土塁・堀切・竪堀

築城期:南北期

築城者:和南氏

城 主:和南氏・小倉氏

駐車位置からの主郭まで:多度津神社より15分

訪城日:2013.5.4

 和南城は、代々和南氏が常住した城で、創建年代は南北朝時代とされている。 永禄元年(1558)、京都・堺を離れて帰途についた織田信長を、小倉右京亮実治が相谷からの八風越の道案内をしたが、佐々木六角承禎はこれを怒り、小 倉右京亮実治を攻撃した。これが今に残る和南山の合戦である。 (中世城郭辞典より)

 永禄元年(1558)八風峠を越えて尾張へ帰国する信長の道案内をしたのは小倉左京亮実房であるが、上記中世城郭辞典記載の小倉右京亮実治とは小倉左京亮実房と同一人物か?

 和南地区、脇山(和南山)の山麓にある多度神社の背後から西尾根を登ると、狭い尾根上に平行して竪堀状の窪地が続く。通常の竪堀は尾根と直交する形で配置されるもので、これが防御施設の一部かどうか結論を出すには至らず。

 10分足らずで横堀と比高差4mほどの切岸を介して主曲輪に至る。主曲輪の削平状態は良いとは云えないが、西から南にかけて内法に石積みをした土塁が廻らされている。

 主曲輪の背後に2つの大きな曲輪を連ねるが、いずれもほとんど削平されていない。最高部の曲輪の背後は、尾根幅が狭くなる地形を利用して、土塁と横堀を尾根に直交する形で配置し土橋を渡している。土橋の位置は尾根の南端に寄せられ、横矢を意識している点は注目される。
この土橋から更に100mほども登ると、2つ目の横堀と土橋が確認できる。

横堀と土橋

横堀と土橋

横堀と比高差4mほどの切岸を介して主曲輪に至る。主曲輪の削平状態は良いとは云えないが、

西から南にかけて内法に石積みをした土塁が廻らされている。

主郭土塁  主郭土塁  主郭虎口?(土塁開放部)

主郭虎口?(土塁開放部)横堀と比高差4mほどの切岸を介して主曲輪に至る。主曲輪の削平状態は良いとは云えないが、西から南にかけて内法に石積みをした土塁が廻らされている。

石工の削岩、ノミの跡!

主曲輪の背後に2つの大きな曲輪を連ねるが、いずれもほとんど削平されていない。最高部の曲輪の背後は、尾根幅が狭くなる地形を利用して、土塁と横堀を尾根に直交する形で配置し土橋を渡している。土橋の位置は尾根の南端に寄せられ、横矢を意識している点は注目される。
この土橋から更に100mほども登ると、2つ目の横堀と土橋が確認できる。

横堀

石工の削岩、ノミの跡!

 

和南城(脇山・・遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!