城郭探訪

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磯野館 近江国(高月)

2016年09月05日 | 居館

磯野館

お城のデータ 
所在地:伊香郡高月町磯野 map:http://yahoo.jp/sCp-lq
区 分:居館
現 状:個人宅地
築城期:南北朝期
築城者: 磯野氏
遺 構:土塁、堀
標 高:102m 比高差:0m
目標地:赤目神社・磯野公民館
駐車場:磯野公民館
訪城日:2016.9.5
 磯野山城・・・磯野より遠景
お城の概要
賤ヶ岳山系の尾根(磯野山城・松尾山のと)の東側、余呉川の赤川の合流する所に位置する。
磯野山城主の磯野氏の平治館で、現在も磯野氏の末裔宅か?磯野の表札が上がる。

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に磯野城主 佐々木浅井随兵 磯野源三朗、伊予守元摂州 磯野伊予守通信、同磯野右衛門太輔、佐々木隋兵磯野末宮沢右衛門」の名が見える。

 磯野山城は京極氏の家臣・磯野氏の居城で、江北で京極氏に替わって浅井氏が台頭した後は浅井氏の家臣となる。

 磯野員昌は浅井氏の家臣の中でも勇猛であったとされ、元亀元年6月姉川を挟んで浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いで、浅井・朝倉軍が小谷城へ向けて退却する際、磯野員昌は手勢五百を率い、敵中突破をして佐和山城に立て籠もっている。
 磯野員昌は、後に織田信長に降り高島郡新庄に封じられ、織田信澄の養父となっている。

 

参考資料:遺跡ウォーカー、『滋賀県中世城郭分布調査(旧伊香郡・東浅井郡)・(甲賀の城)(旧野洲・栗太郡の城) 』、『佐々木南北諸氏帳』

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下山館 近江国(愛東)

2016年09月04日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)百済寺本町 map:http://yahoo.jp/_R5nQr

現 状:宅地(百済寺の参道)

区 分:居館

築城期:南北朝期?

築城者:

遺 構:

目標地:日吉神社

駐 車:日吉神社に駐車

訪城日:2016.8.31

お城の概要

湖東三山百済寺の参道脇の位置するが、詳細不明。


お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「愛知郡 下山本村 此所ニ公儀御代官増島左内ト云人居住セシ由、_今其宅跡残存テリト云」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 百斎寺 住 佐々木隋兵小倉源氏 宮本右平衛」の名が見える。

参考資料:史跡ウォーカー、『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』

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下山本館 近江国(愛東)

2016年09月04日 | 居館

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)百濟寺本町 map:http://yahoo.jp/vgzziO

現 状:宅地(日吉神社の参道)

区 分:居館

築城期:南北朝期?

築城者:

遺 構:

目標地:日吉神社

駐 車:日吉神社に駐車

訪城日:2016.8.31

お城の概要

湖東三山百済寺の参道脇の日吉神社参道に位置するが、詳細不明。


お城の歴史

『淡海国木間攫』には、「愛知郡 下山本村 此所ニ公儀御代官増島左内ト云人居住セシ由、_今其宅跡残存テリト云」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 百斎寺 住 佐々木隋兵小倉源氏 宮本右平衛」の名が見える。

参考資料:史跡ウォーカー、『淡海国木間攫』、『佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!
 

十禅師館(下司坊)  近江国(日野)

2016年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町十禅師  map:http://yahoo.jp/80psxm
別 称:下司坊
現 状:十禅師地区会議所
区 分:居館
築城期:平安期
築城者:蒲生稻寸か
遺 構:
目標地:十禅師地区会議所
駐車場:十禅師地区会議所
訪城日:2016.5.24

十禅師地区会議所が比定地である。

お城の概要

詳細不明。

御代参街道と日野川右岸に位置し、日吉山王社の荘園であった、山王七社の十禅師宮の名が村の名として残ったと言われている。

宝篋印塔

必都佐神社

平安時代には大津坂本の日吉山王社の荘園となり、山王七社の十禅師宮が合祀されその名が村の名として残ったと言われている。
嘉元2年(1304)の在銘をもつ国指定重要建造物の宝筐印塔一基がある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(旧蒲生・神崎郡の城)、遺跡ウォーカー、

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奥島館(奥嶋館・島城)  近江国(近江八幡)

2016年08月14日 | 居館

奥嶋館/奥島館/島城

 
お城のデータ
別 称:奥嶋館・島城
所在地:近江八幡市島町1126 map:http://yahoo.jp/CqP-sd
現 状:宅地・集落
区 分:城館
築城期:南北朝期
築城者:中居氏
遺 構:石垣
目標地:奥津島神社
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.7.25
お城の概要
長命寺山の東麓、大嶋・奥津嶋神社の宮座を中心とする奥嶋庄にあり、在地領主の館か?
奥津嶋神社の北方に島(奥島)集落がある、集落の中心部に遺跡ウォーカーの比定地である。
奥津嶋神社の鎮守の森には、北津田城が残存する。

  

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 奥島 住 中居左近兵衛・中居買刑部少輔・中居口之介・福島市兵衛」の名が見える。
『大洞弁天当国城主名札』には、中居左近兵衛・中居式部大夫」らの名が見える。
『朽木文書』に、奥島館(島城)  (近江八幡) 建武5年閏7月 朽木頼氏軍忠状 「息嶋」と記す。
    
参考資料:遺跡ウォーカー、城郭分布調査1、 『朽木文書』、『日本城郭大系』11、「旧野洲・神崎郡の城」『滋賀県中世城郭分布調査』4 、『近江八幡市埋蔵文化財発掘調査報告書』XVII
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猿荻氏館  近江国(多賀)

2016年07月12日 | 居館

猿荻氏館 

お城のデータ 

所在地:犬上郡多賀町猿木  map:http://yahoo.jp/9EYYyl
現 状:畑地・神社・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:猿荻氏
遺 構:
目標地:西光寺・猿木神社
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.6.26
お城の概要
犬上川の右岸の猿木集落の中央部に西光寺、猿木神社の南側周辺が比定地で、猿木神社も城郭遺構か?
お城の歴史 
『佐々木南北諸氏帳』には、「猿荻城主 佐々木末旗頭 久徳左近将監、同 猿木左門」の名を記す。

 『淡海国木間攫』には、「犬上郡 猿木村 古此所ニ猿荻左内ト云武士居住スト云、邸跡有、此村ノ領主ノ由、」と記す。

また、奈良興福寺領、寺領猿荻莊は猿木の名で残っている。猿荻左近大夫の名が知られ興福寺領から自立した豪族とみなされている。

 

 

   

   

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布5「旧愛知・犬上郡の城」(1987.3)『日本城郭大系』11

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岡本城(岡本館)   近江国(蒲生)

2016年06月17日 | 居館

岡本城/岡本館

 
お城のデータ
所在地:東近江市蒲生岡本町字岡極  map:http://yahoo.jp/XNQ-qb
別 称:岡本館
現 状:畑地・水田
区 分:平城
築城期:
築城者:岡本民部
遺 構:
目標地:ガリ版伝承館
駐車場:高木神社の駐車場
訪城日:2016.5.23
お城の概要

御代参街道(ごだいさんかいどう)は、江戸時代に近江国に整備された脇街道。東海道土山宿(現・甲賀市)から中山道小幡(現・東近江市)までの約36kmを結ぶ。東海道脇街道、北国越安土道、伊勢道、市道とも呼ばれる。

  •  土山宿(甲賀市)~笹尾峠~鎌掛宿(日野町鎌掛)~石原宿(日野町石原)~岡本宿(東近江市蒲生岡本町)~八日市宿(東近江市八日市町)~小幡宿(東近江市五個荘小幡町)

 春日局が1640年(寛永17年)に伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際に整備されたと伝えられている。江戸中期頃には京の公卿たちの間で年に3回(正月・五月・九月)伊勢神宮と多賀社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際に利用されたことから「御代参街道」の呼称が生まれた。ただし江戸期の文献には「御代参街道」との記述はあまり見られず、慶応4年(1868)の記述が初見である。また、土山の道標には「右北国たが街道 ひの八まん道」とあることから、北国への最短経路としても利用されていたと考えられる。

 現在この街道の役割を引き継いでいるのは、道路では県道52号線、同45号線、同46号線、国道477号線、滋賀県道41号線など、鉄道では近江鉄道本線となる。ただし近江鉄道は日野から南は笹尾峠を通らずに甲賀市水口町へ向かっている。

お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には「蒲生郡 岡本 佐々木義輝隋兵 岡本民部」の名が見えるが、詳細不明
 
    
       
高木神社   由緒

 『三代実録』に麻生神と記された式外社。
 社伝によれば神亀元年(724)に創祀された。古くは高岡宮と称した。村の東側に高岡山なる小高い丘があり、これに由来する。窯跡がある。
 『古事記』神代記に、「高木神は高御産巣日神の別の名ぞ」とあること、もしくは大木を祀り、高木と名を改めたと言う。

                 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4、遺跡ウォーカー 、Wikipedia
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上野田(こうづけだ)城(上野田氏館)(上野田館)   近江国(日野)

2016年06月10日 | 居館

上野田城/上野田氏館/上野田館

 「又六ざんまい」=上野田氏の墓地

お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町上野田    map:http://yahoo.jp/HLaXM5
別 称:上野田氏館・上野田館
現 状:水田+墓地
区 分:居館
築城期:織豊期
築城者:上野田氏
遺 構:「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地
目標地:上野田共同墓地
駐車場:墓地駐車場
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 日野町上野田集落北方に100m四方を水路(堀)で囲まれた、「古屋敷」と呼ばれる土地があり、「又六屋敷」と言われた上野田氏邸跡と伝わる。現在、一部は共同墓地となっているはが、元は上野田氏の所有地であり、また更に北方に「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地が残存ずる。
お城の歴史
詳細不詳だが、『佐々木南北諸氏帳』には「蒲生郡 三本木 佐々木蒲生隋兵 上野田主計介」の名を記す。
が、三本木が、上野田集落であるかどうかの確証は無い

 近江蒲生氏の出目(蒲生氏の支流に上野田忠俊(蒲生惟俊の子)

藤原秀郷を祖と称する藤原氏の一族。近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、藤原惟俊の代から蒲生氏を称した。

室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えた。

藤原季俊の子、惟俊を祖とする・・・ 藤原季俊の子蒲生惟俊ー蒲生惟賢 蒲生惟俊の子、朝国惟義 蒲生惟俊の子、上野田忠俊 蒲生惟俊の子
    北方に「又六ざんまい」と呼ばれる上野田氏の墓地が残存ずる。http://yahoo.jp/wldMFe
  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3・4(旧:蒲生・神崎郡) 、佐々木南北諸氏帳、Wikipedia
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山副氏館(山副館)     近江国(竜王)

2016年06月08日 | 居館

山副氏館/山副館

 
お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町薬師     map:http://yahoo.jp/K28Y7
別称:山副館
現 状:宅地・竹林
区 分:居館
築城期:織豊期?
築城者:山添氏
遺 構:背後の竹藪に平削地
目標地:竜王町薬師集落の、祖父川の左岸の山添い
駐車場:空き地に路上駐車
訪城日:2016.5.22
お城の概要
 竜王町薬師集落の、祖父川の左岸に位置し、屋敷に西の山中にも削平地(竹藪)が残る、西背後山に三方に二重の堀と土塁を巡らしいたというが、今は宅地化が進み、何も残っていない。
お城の歴史
 竜王町薬師の山副家は、信長の近江入国以前は山添氏を名乗った土豪で、近世には、大庄屋を務めていたいう。
            祖父川(右岸から西)・・・集落の山副氏館の遠景 

   
参考資料:滋賀県中世城郭分布1、4(旧蒲生・神崎郡の城)(1986.3)、遺跡ウォーカー
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口分田(くぶた)古殿城  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市十里町    map:http://yahoo.jp/yUi_P7

現 状:田地・道路

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏?・加藤氏?

遺 構:不明

目標地:JH長浜IC

駐車場:近くに路上駐車

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 大井川南方にあたる、口分田集落は現在北陸自動車道長浜インターチェンジの入り口付近に位置し、南は山際町・東榎木町との境界をなす。口分田氏か加藤氏関連の屋敷跡と思われるが、詳しくはわからない。なお、古殿町の南の山際町に「上古殿町」「下古殿町」の小字名が残る

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸国帳』には、「坂田郡 十里 住 十里弥介・ 同 住 与力 石崎源吉 ・同 住佐々木浅井隋兵士族 野村弥八郎」と記す。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳

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口分田(くぶた)城ノ根城(口分田氏館)  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市口分田町    map:http://yahoo.jp/hVbIuC

別 称:口分田氏館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏

遺 構:堀痕(用水路)、口分田氏の氏神天満宮

目標地:口分田会館・口分田郵便局・天満宮

駐車場:口分田天満宮近くに路上駐車

訪城日:2016.6.3

 

 口分田氏館比定地(遺跡ウォーカー)

口分田会館の裏(北東側)が、比定地

お城の概要

口分田氏館は、口分田地区にある長浜口分田簡易郵便局の北側にある口分田会館から北側の住宅地一帯に築かれていた。 集落の天満宮は、口分田氏の氏神を祀ると伝えられている。

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。 

お城の歴史

『江州佐条南北諸国帳』には、「坂田郡 口分田 住 佐々木浅井隋兵 口分田彦右衛門」という土豪の存在を記す。

『近江国木間攫』には、「坂田郡 口分田村 往古此所ニ口分田彦七ト云武士アリ、代々京極家ノ卒將ニテ武功ニ家ナリ、浅井家権ヲ奪シ後蟄居セリ、三代記ニ不見、」と記す。

口分田氏館は、築城年代は定かでないが口分田氏によって築かれた。 口分田氏は、新田氏の末裔と伝えられ、佐々木南北諸士帳に口分田彦右衛門の名が見える。

浅井三代記 巻三

亮政を見つかんとて浅井新六郎、中島加助、伊部助七郎、丁野弥助、田部助八、尾山彦右衛門尉、彼等六人其勢二百、上坂の城 .... 上坂掃部頭、口分田彦七郎、両人の者 ども鑓を横たへ、きたなき味方の者共かな敵を味方に合すれば十分一もなきに、取てか  ...

    

     

天満宮

               

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳。淡海国木間攫、遺跡ウォーカー

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黒部館     近江国(浅井)

2016年06月05日 | 居館

黒部館

 

お城のデータ
所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)黒部町    map:http://yahoo.jp/BhiBfI
現 状:神社・山林・宅地
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:郭・堀・土橋 
目標地:黒部公会堂・大己来神社
駐車場:黒部公会堂に駐車、又は児童公園に駐車
訪城日:2016.5.14・2016.6.3
お城の概要
 浅井町田根地区北東部に位置する大字黒部は、三方が山に囲まれた馬蹄地形の微高地。
  現在は、住居区は継っているが、大己来神社参道を境として、およそ東西2地区に分かれる。
大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する。
・東地区はゆるやかな平坦地に近い地形で、背後は畑地と林となっているが、この境に大規模な土塁が残る。
西地区は、aとbが最高所でabを含むA区画は切岸」と道路によりB区画と区分されている。
・A区画は、西と北は山により囲まれる防御の形状。
・B区画は、A区画の全面に控え、南下に水路、西と北は山で守られている。特に防御施設持ったA・B地区が黒田館。
・黒部館の西の、舌状尾根の2ヶ所の平削地と共に、土橋・横堀・竪堀・曲廓が残存する。
・Ⅽ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられる(特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。この遺構は西側の竜安寺集落には、「竜安寺城」が知られている

・Fについては、竪掘(堀切)土橋を伴なったもので、低削平地が存在するが、先端には「見張り台のような小郭二つ」とその背後に堀切と土橋が存在し、詰め城のを兼ねていたか。更に登ると郭を三つ配し、堀切を持つ遺構があるⅭ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられるが、黒部館の共用していたとも考えられる。
お城の歴史
黒田館の歴史は不詳。
大己来神社の由緒
 口伝に、武蔵国足利郡大宮より勧請したという。永禄十一年足利義昭越前から尾張へ向う途中の鷹狩の際参拝し定紋付の什物を寄進したので足利氏の紋を神紋としている。

黒部館へ
        

東側の大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する。
         
大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する                
東地区はゆるやかな平坦地に近い地形で、背後は畑地と林となっている。
この境に大規模な土塁が残る。    
西地区は、aとbが最高所でabを含むA区画は切岸」と道路によりB区画と区分されている。・A区画は、東と南が切岸により遮断され、西と北は山により囲まれる防御の形状。

西の山城(詰め城?見張り廓)へ
  
 登り口        集落(黒部館)の西側の尾根上
   堀切?竪堀?          
  
 Fは、背後の尾根から堀切・竪堀(土橋はあるが)で遮断。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡の城)、遺跡ウォーカー

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西条城     近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 居館

西条城

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町南船木   map:http://yahoo.jp/-cdeX5
現 状:公園(小学校跡)・宅地
区 分:居館
築城期:鎌倉期
築城者:佐々木長綱
城 主:佐々木氏・松下氏
遺 構:不明。
目標地:高島市安曇川世代交流センター
駐車場:高島市安曇川世代交流センター駐車場
訪城日:2016.5.22
お城の概要・歴史 
西条城は、安曇川河口の南部、南船木にある高島市安曇川世代交流センター(小学校跡)にある。
西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。

『高島郡志』には、普門寺城について「正安元年(1298)船木城主佐々木長綱城内に一宇を建てゝ持念仏千手観音を安置す。此本寺の創始なり、地に船木城の出丸なり。伯綱の時姪能登守を船木城主とす。伯綱の子長伯西条城「三河に在り長綱以来両城主なり」に居りしが、没落して松下村に隠れ、後船木に移り普門寺城に居る。長享三年三月十七日兵乱の為め船木普門寺城両城とも炎上す。永正中能登守の助力を得て普門寺を再興す。」これは沢田氏郷の偽作とされている。

 西条城の土塁や堀などの遺構は残存していない、詳細不明。
松下氏は佐々木氏の分流で、元亀年間城とともに滅んだと伝えられている。
一方、西条城の名は『高島郡志』以外には登場せず、その資料内容等考慮すると普門寺城と同一あったと考えられる。
         
   
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布1、2(1984.3)(甲賀の城)8(1991.3)(高島郡の城)、遺跡ウォーカー
   本日の訪問ありがとうございす!!

朝国館 近江国(甲西)

2016年05月31日 | 居館

 

朝国館

 

お城のデータ 

 

所在地:湖南市(旧:甲賀郡甲西町)朝国  map:http://yahoo.jp/MxQGgx
現 状:宅地・田畑 
 構:圃場整備で消失
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:伴氏
目標地:
駐車場:路上駐車場
訪城日:2014.9.13・2016.522

城の概要  

地籍図により方形居館と推測される地点があるが、現状は圃場整備によって水田となり遺構はない。

お城の歴史  

詳細不明。伴氏の居館

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査2(甲賀の城)、史跡ウォーカー

         本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


万木(ゆるぎ)城    近江国(安曇川)

2016年05月31日 | 居館

万木城

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町西万木   map:http://yahoo.jp/45pPUI
現 状:神社・宅地
区 分:居館
築城期:室町期
築城者:佐々木惟綱
城 主:佐々木惟綱・能登守高城・中村五良左衛門
遺 構:城郭地名
目標地:旧国道161沿い日吉神社
駐車場:日吉神社の駐車場
訪城日:2016.5.28
お城の概要
 安曇川の旧国道161沿い「日吉神社」が史跡ウォーカーの比定地であるが、「日吉神社と旭砂稲荷社の間に鎮守の森」が残る。また、北東に堀(用水路)が流れる。
 万木は、現在安曇川町大字西万木と大字青柳(旧:東万木)にあたる。西万木には、中世城郭と関係する可能性の小字名「今城」「備後城」「殿馬場」などがあるが、地名以外に資料は無く詳細不明。また、東万木「現青柳」には、「城ノ腰」の地名が残る。
お城の歴史
 佐々木定綱の長男広綱、その子惟綱が万木に移り、万木氏を称し、その居館が万木城である。

なお、青柳(東万木)の徳正寺は『高島郡志』によれば、開基は、中村五良左衛門は、万木城主能登守高城の末裔で朽木氏仕え、天正の兵乱に本願寺蓮如に帰依し同寺を創建したいう。(滋賀県中世城郭分布調査8(高島の城)の解説)

.佐々木広綱~ (万木氏等)

広綱ー|ー惟綱ー|ー範綱ー|―範信
    |   |ー範定 |ー頼定
    |   |    |ー章綱
    |   |    |―彦三郎
    |   |―綱ーー惟定
    |   |ー惟景
    |ー為綱ー|ー為定ー|ー定義ーー|ー泰定
    |    |    |ー源三郎 |―頼直
    |    |    |ー義綱  |―泰広
    |    |ー清綱ー|ー頼清ーー|ー信実
    |    |    |     |ー信範
    |    |    |―秀清ーー|―秀貞高康ー定広清広ー定好
    |    |ー信成ー|―泰成ーー|―義尚
    |           |        |―朝氏
    |           |―信豪
    |           |―彦三郎
    |ー親綱ーー清定
    |―勢多伽丸
日吉神社 
            

旭砂稲荷社  

参考資料:滋賀県中世城郭分布10、2(甲賀の城)(1984.3)、8(高島の城)(1991.3)、高島郡志、遺跡ウォーカー
  本日の訪問ありがとうございす!!