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城郭探訪

yamaziro

「さつた地蔵」「丁石地蔵」と「太郎坊宮 阿賀神社」「蛭子神社」

2012年09月27日 | 観光ボランティアガイド

JRふれあいハキング

毎週 土曜日 滋賀 近江鉄道 市辺駅 10:30分集合

基本案内コース 市辺駅⇒船岡山(万葉歌碑)⇒金柱宮跡⇒太郎坊宮⇒太郎坊宮駅

観光ボランティアガイド 無料案内 所要時間2:00

せつた地蔵(太郎坊宮参道を筏川の橋を越え、すぐ左)

東を向いて

詠 歌

あさひうけ                                                                                                       夕日かがやく                                                                                                            じおんどの                                                                                                      佛のおしえ                                                                                                     守れもろ人

お堂前に

暗渠の下の「丁石地蔵」を歩道と車道の境に祀られてます。                                                       後方のお山が「太郎坊宮 阿賀神社」

暗渠になったらすぐに常夜灯が(宿自治会館前)

此処から、暗渠にして歩道になってます、せつた地頭まで!

筏川に、1丁毎に(お花をお供えするようにケトウの花が!)

 

蛭子神社(八日市庭発症の地)


江州音頭の由来

2012年09月26日 | 観光ボランティアガイド

江州音頭の由来

[2008年3月6日]

伝統芸能 扇踊り 日傘踊り 

江州音頭

 

えい-皆様たのみます  (アードッコイセ)

 お見かけ通りの若輩が  習い覚えた一節を  つたないながらも  時間まで一生懸命  読み上げまするで 芽をだしまする 二つ葉の苗の育つよう  熱い情のご声援  ひとえにお願い申しまする (コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)

扇子踊り 

・・・ ・・・ ・・・

そもそも永正十七年  行基菩薩の御発願  四十九院の一寺にて  日吉山は千樹寺に   観音阿みだ如来をば ご本尊と安置して  万民快楽をいのらるる  近郷近在 処々方々  善男善女の参詣に  門前市をなす繁盛  (コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)

 扇子

永禄十一年 秋半ば  織田信長の軍勢に  焼打ちされて たちまちに  さしも栄えし千樹寺も  跡かたもなく なりにけり  そこで 天正十四年  藤野太郎右ェ門その人が  私財を喜捨し 一寄進  寺の再建折念せり  めでたく本道建立  落慶供養の余興にて  時の住職 根誉上人  自らお経に節をつけ  声高らかに読みければ  (コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)  (コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)

音頭とり

信長の面々 相つどい  ぎゃあてい ぎゃあてい  はらぎゃあてい はら僧ぎゃあてい  と踊りつく  身ぶり手ぶりも面白く  夜の白むのも打ち忘れ  互いに喜びかわしれり ・・・ ・・・ ・・・   (コラ ヨイトヨイヤマカ ドッコイサノセ)

観音盆
 
千樹寺

豊郷町の、中山道沿いに永源寺派の寺千樹寺がある。もともと奈良時代に行基によって創建され江州四十九院の一つであった。古くは比叡山延暦寺に属し日吉山王社を祀ったところから、日吉山千樹寺と称し、当地を「日枝の荘・千枝の里」と呼ばれていた。この寺は中世以来、たびたび焼失したが、そのたびに近在の人の努力で再建が進められた。その落慶供養の余興の中で「江州音頭」の原形ができ上がったのである。永録元亀の頃、織田信長と観音寺城主、佐々木義賢父子・天台宗派との内紛にまきこまれ、

千樹寺も、戦火にあった。天正十四年(1586)、当地の藤野太郎右ェ門が浄財を投じて再建した。その落慶供養の余興として、当時の住職根誉上人が境内に人形を多数並べ参拝の老若男女を集めて手踊りをし、自ら「ギャティ ギャティ ハラギャティ ハラソウギャティ ボウチソワカ」等の経文の二、三句を節おもしろく繰返し、音頭の調子をとり円陣をつくって手ぶり、足ぶみ踊ると見物人が我も我もと参加し、ついに夜のふけるのも忘れて踊りあかしたという。
それ以来、毎年7月17日(旧暦)にこの行事は続けられた。後、天明年間にも村の大火にあい、またもや焼失してしまった。時に北前船で活躍した近江商人、又十・藤野四郎兵衛が亡き父の意思を継ぎ再建。弘化三年(1846)7月17日、古例により遷仏供養を行った。その際、八日市に「歌寅」こと西沢寅吉という祭文作りの名人がいることを聞き、私邸に招き経文祭文をとりいれた一般民衆向きの音頭を作らせ、それに節をつけて歌わせ、さらに絵日傘や扇を与えるなど工夫を凝らして躍らせた。当日集まった人々は”踊らにゃ損”と音頭にのって踊りとおしたという。

江州音頭発祥地の碑
 
江州音頭発祥地の着物

 祭文踊りとして、評判が評判を呼び、美濃や伊勢にも広まり、やがて江州音頭の呼び名が定着した。豊郷・八日市を中心に近江路一帯に広がっていった音頭は、本来の祭文の意義も徐々に豊作祈願に変わり盆の恒例行事となった。音頭の演題もどんどん増えていく。恋物語から軍記、出世ものやお国自慢など娯楽に貧しかった当時の人々には、この上ない楽しみとなっていった。

 
絵日傘

江州音頭は、現在でも人々の心の中に受け継がれ、滋賀県をはじめ周辺都市では八月の盆踊りとして定着している。発祥の地豊郷でも地区ごとに、また、千樹寺境内に設けられた広場では、観音盆として、まちをあげての盆踊り大会が開かれるなど、町民の生活に根づいた文化としていきづいている。また、江州音頭は、豊郷町民の後世に伝えるべき無形文化財として、「絵日傘踊り」、「扇踊り」の形で保存・継承されている。

 

お問い合わせ

参考資料:豊郷町HPより 産業建設部門産業振興課 電話: 0749-35-8114 ファックス: 0749-35-5270


東近江ブロック交流研修会「日野会場」20120628

2012年06月28日 | 観光ボランティアガイド

日野商人の故郷。 “豪商”が残した”桟敷窓”・・・・・商人屋敷は変わっても「見越しも松」と「桟敷窓」は城下町には脈々と

東近江ブロック交流研修会「日野会場」20120628

観光ボランティアガイドの【東近江ブロック交流研修会】(日野会場)20120628
『ガイドの知識と技術の向上』~ホスピタリティーを学ぶ~87名参加。5コース9班、

Eコース≪曳山と桟敷窓・町並みを歩いてみよう≫に参加

  Eコースの担当ガイドさんと出発前の情報交換

  小学校正門横に(日野商人像(二宮金次郎像はあるのかな?)、マンホールも「台八車にシャクナゲと綿向山と日野商人」

     「日野椀」

    

日野商人・八幡商人の年表

見越しの松・日野まつりの山を見るための「桟敷窓」街道沿いの日野商人屋敷(城下町)

  日野まつりの曳山

さんが 2012/05/03 に公開http://www.youtube.com/watch?v=VJu_8md7GFk

  蒲生氏の菩提寺「信楽院」

火伏の愛宕山のお札

 文武両道にたけた氏郷公は「利休七哲の一人」

   

「モーア」の表札が!日野が気に入って古い屋敷を買って住みつく自分で修復しながら、日野の町づくりにも一生懸命その名は「モーアさん」

 

  

 

 伝統の花飾り「ホイノボリ」を奉納する南山王祭、滋賀県日野町大窪の日枝神社、満開のしだれ桜を思わせるホイノボリの下、氏子たちが酒で顔を真っ赤にしながら春のうたげを楽しんだ。パネル!

Eコース班」の分科会の始まり、自己紹介やガイドの評価・各自の取り組み・意見交換・課題・・・等々

曇っていて、綿向山は雲の中でしたが涼しくて、

銘ガイドさんのお蔭で今後の、観光ガイドの勉強になり、研修会・交流も充実したものでした。---散会

 

散会時間速く・・・・・少し、物足りず。

蒲生氏郷の生誕の中野城址(日野城址)へと・・・一人車で!

 

 

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。    資料:Wikipedia

初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。

またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。子に蒲生秀行。  

幼少時

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。

主家の佐々木六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。

織田家臣時代

信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。(氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。

豊臣家臣時代

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられる。豊臣姓(本姓)を与えられる。

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。

会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。同年12月、従三位参議に任じられた。

文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。

文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において死去。享年40

蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。

本日の歩数 10,642歩   1時間49分       7.4km
消費カロリー 353.0kcal    脂肪消費量 504g

観光ボランティアガイド 現地研修会20120619

2012年06月19日 | 観光ボランティアガイド

建部堺の山之神 

母のために建立した「孝養の不動尊」。日本3大不動尊の一つ。母の五回忌の孝養のために!

五個荘の近江商人「中三井百貨店」に釜山・大邸・ソウルで協力して、鉄事業・石油・セメントの販路を拡大。元建部村長旧宅宇野邸

乳橋乳橋地蔵

 

 

番外「松尾神社」


観光ボランティアガイド 現地研修会20120612

2012年06月12日 | 観光ボランティアガイド

東近江大凧・世界大凧会館

2012年東近江大凧(世界大凧会館にて)

http://plaza.rakuten.co.jp/t036kkk/diary/201205280001/

大紙鳶(おおいか) 

江戸時代の後期にはすでに100畳敷きの凧が揚がっていたといわれる八日市大凧。凧は揚げられたあと燃やすという秘密主義であったため、市内に残る版画や絵が八日市大凧を知る上で貴重な資料となっています。
  昔の大紙鳶(おおいか)が描かれた版画や絵28点を一堂に展示し、より多くの方に八日市大凧の輝かしい歴史の証明をご覧いただくとともに、まだ市内に存在するかもしれない新たな八日市大凧の資料発見に期待を込めて開催されます。

1874年「160畳敷 時のに叶う」 沖野ケ原大いかの図

金念寺

 金念寺に、江州音頭発祥の桜川一門の顕著碑

 ・墓

野々宮神社

中野神社 

  三生の樹

御代参街道御代参街道道標(親玉本店向かい)

 

薬師寺境内の不動明王

水掛不動(薬師寺の門横)

 ヴォーリス建築(旧住井歯科)

) 

田中うどん(乾麺製造)・・・ヴォーリス建築(旧住井歯科)の向かい

 

 

清水川奉行高札と清水川(元湧水・・・現在ポンプアップ)

 

 

 

 

一宮神社

額田王の立像(昭和天皇在位60年=1985年京都の復元師に」より彩色された)(400年前の市場まつりで山車飾られていた立像=彩色前の写真)

大海人皇子から、天智天皇に側室に蔵替えしてから歌(市宮神社)

市宮神社の社務所には、氏子や信者から奉納された『恵比須様・大黒様』

市宮神社の聖徳大子像道

 

 

太子ホールの聖徳太子童像

本日の歩数 7.062歩 1時間11分 4.9km
消費カロリー 311.5kcal 脂肪消費量 44.5g

万葉集と紫草

2012年04月11日 | 観光ボランティアガイド

 万葉集と紫草

 西暦603年、聖徳太子が中国の隋にならって冠位十二階を制定した時は、すでに紫草の染色技術は習得し、僅かの数量とはいえ制度を維持できる染色体制は整っていたと推測されます。

 万葉集で紫草を詠んだ歌は17首あり、当時の染色や色彩の手がかりとなっています。それ故、紫草を語る上で万葉集を除外することが出来ないのです。



    茜草さす 紫野の行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る             

                           額田王      巻 1 120
    
    紫草のにほへる妹を 憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも

                           大海人皇子   巻 1 121

     額田王(ぬかたのおおきみ)

    生没不明、出身不明の謎の多き万葉歌人。
    大海人皇子(おおあまのみこ:のちの天武天皇)の前妻で、 
    現天智天皇(前中大兄皇子で兄にあたる)の妃。
    藤原の鎌足に嫁いだ鏡女王(かがみのおおきみ)の娘とも言われている。                 


                            (左図は   「飛鳥の春の額田王」 安田靫彦画 

聖徳太子が岩に爪で刻んだという十三仏

2012年02月18日 | 観光ボランティアガイド

近江八幡・安土町の南東にある箕作山(みつくりやま)は、地元では岩戸山の名で親しまれています。

この山頂にある巨大な一枚岩に、13体の仏さまが刻まれています。【視認出来ず】
 飛鳥時代、聖徳太子が金色の光を発する不思議な岩を見つけられ、仏のお導きと思い仏像を彫ろうとしましたが、道具を持っていなかったので自分の爪で刻んだ、といういい伝えがあります。
 現在、仏さまを刻んだ岩の前にはお堂が建ち、外から見ることはできませんが、熱心な信者が毎日お参りをしています。毎年4月には千日会が盛大に行われます。

巨岩に微か漢字が・・・!

仏さまを刻んだ岩の前のお堂

 

  

 

  


額田王

2012年02月02日 | 観光ボランティアガイド

万葉ロマンの地 蒲生野 と 彼岸花  ・・・youtube   by Mryoshi3838

http://www.youtube.com/watch?v=ydG98p5aS0A&feature=related

天皇、蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)したまいし時に、額田王の作る歌

・茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 -- 万葉集の一・20
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

船岡山・額田王
(船岡山 陶板画)

天智天皇(一般には中大兄皇子)の寵姫であり、かつては皇弟大海人皇子(のちの天武天皇)の恋人で
大海人皇子の間には十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけた額田王が、
蒲生野で薬狩りがあった時に詠んだ歌
薬狩というのは、鹿の若角(鹿茸という薬にする)をとるための狩りで
標野とは禁野のこと、つまり天皇の狩猟地。
紫草の生い茂る蒲生野の只中で、鹿を追って馬を駆る男たちを眺めての相聞歌

皇太子(ひつぎのみこ)の答ふる御歌
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方・・万葉集20・21
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

この様な心情の歌が、安易に世に残る訳もないと考えられ、色々な解釈がなされていますが
人の心情が表現された舞台の蒲生野に興味がつきません。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

★一旦恋愛の歌の贈答であると思わせておいて、宴の席での座興であったことに気づかせる。
1.文法的説明をする。
2.語釈をする。
  ・あかねさす=「紫」の枕詞。
  ・紫野=紫草が栽培されている野原。紫は恋焦がれる思いを表す。
  ・標野=立入禁止の野原。
  ・野守=野の番人。
  ・袖振る=愛情を伝える動作。
  ・にほふ=色が美しい。
  ・妹=あなた。男子が姉妹や妻や愛人など親しい女子を呼ぶ言葉。
3.現代語訳をさせる。
  ・紫草を栽培する立入禁止の野原を行き、番人が見ていないのですか、あなたが袖を振るのを。
  ・紫草のように美しいあなたを憎く思っているならば、人妻だからといって、どうして私は恋などしようか、いやしない。
     ↓
   あなたを憎く思っていないから、人妻でも恋をしている。
4.これは「紫の唱和」と呼ばれていることを説明する。
  ・この二首は恋愛の歌である。
5.系図を見ながら「野守」「君」「妹」とは誰を指すか、この歌の背景を考える。
  ・野守=天智天皇。
  ・君=大海人皇子。
  ・妹=額田王。
  ・天智天皇が開いた宴の席で、妻である額田王と前夫である大海人皇子が、不倫の愛の歌を詠みあっていることになる。
  ・元々、天智天皇が自分の娘たちを大海人皇子に嫁がせ額田王を取り上げたという説もある。
  ・後年、壬申の乱で大海人皇子が天智天皇の子の大友皇子との皇位争いに勝ち天武天皇になった。とすれば、                         この歌がその遠因になっていることになる。
6.この歌の部立、三人の年齢などから、本当の背景を考える。
  ・「相聞」(恋愛の歌)でなく、「雑歌」(宴の歌)になっている。
  ・この時、天智天皇は四五才前後、大海人皇子は三七、八才、額田王は四〇才過ぎである。
  ・したがって、この歌は宴の席での余興である。
  ・「君が袖振る」は大海人皇子の舞振りを、「紫草のにほへる妹」は額田王をからかっている。額田王は大海人皇子が元服した時の添臥と言われている。
  ・万葉の時代の人の開放的な明るさを感じとる。

 

市宮神社に、額田王が天智天皇を思い慕い、天皇の訪れがないのを嘆く歌。

君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹  

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

 


太郎坊宮お火焚き祭(滋賀県東近江市・2012年1月9日))

2012年02月02日 | 観光ボランティアガイド

太郎坊宮どんど焼き(滋賀県東近江市・2012年1月9日)

http://www.youtube.com/watch?v=juKRl6uqjjk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=nP__JvSJnr4&feature=related

 

京都鞍馬山の次郎坊の兄、太郎坊天狗が守ると言われる、「太郎坊さん」で親しまれる勝運授福の杜。

数年前に友人が「太郎坊の磐座のエネルギーは
普通ではない」と言っていたのを思い出して妻と
行くことにしました。


八幡山城(東近江ブロック交流・研修会 現地研修 2011.12・08

2011年12月08日 | 観光ボランティアガイド

東近江ブロック交流研修会 20111208

東近江ブロック交流研修会

Bコース 3班 「秀次の文人としての歴史と山頂からの蒲生野の絶景をみる。」

  近江八幡城は、JR近江八幡駅の北西約2.5キロメートルにある独立丘の鶴翼山、通称八幡山の南半分に築かれた城で、比較的急峻な山城である。八幡山山頂へはロープウェイが通じており、約5分で到着できる。

 標高271.9mの八幡山最頂部に本丸をもうけ、二の丸、西の丸、出丸が配置された一大要塞であったと推測されます。
 往時の城下町は安土城城下町を移住させて形成し、琵琶湖の水を引いて作られた八幡堀を配して、戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。

 現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和36年(1961年)に移転されている。
 また、平成13年(2001年)には山麓で豊臣秀次の館跡が発見された。


 近江八幡城は、1585(天正13)年に豊臣秀吉の甥の豊臣秀次によって築かれた。秀次は43万石を領して入封し、安土城の一部と城下町を移転させて形成した。

 秀次は、1590(天正18)年の“小田原征伐”の軍功により、戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張、伊勢北部5郡などに100万石の大領を与えられて尾張清洲城に入る。
 替わって、近江八幡城には京極高次が2万8千石で入城したが、高次は、1595(文禄4)年に
大津城へ移ったため、近江八幡山城は廃城になった。

ロープウェーの山上駅前で・・・!

 

本丸跡には、秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が・・・

城下町絵図で・・・!

西の丸から、琵琶湖と長命寺・・・!

雨で・・・蒲生野も瓶割山城址や雪野山も

八幡公園の秀次館・家臣屋敷跡!

八幡城の縄張り・・・!

従一位 関白 豊臣秀次公の銅像(八幡公園)

日牟礼神社~

絵馬も「そろばん」??

現地ガイドを終了して、

  

 近江商人塾で、昼食コース班毎に

その後、班毎に研修討議~~アンケートを提出して、班毎に解散!

雨の中、ガイドを大変勉強になりました。

  また、研修後のミーティング各ボランティアさんの、意見や感想など参考になることがたくさん有りました。

 ***近江八幡観光ボランティアガイド協会の皆様、お世話になりました。

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


太郎坊宮と菊花展

2011年10月29日 | 観光ボランティアガイド

太郎坊宮と菊花展

 

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淡海観光ボランティアガイド交流研修会 

2011年10月26日 | 観光ボランティアガイド

淡海観光ボランティアガイド交流研修会 2011/10/25

石積の町・・・坂本はほとんど「穴太積み」

淡海観光ボランティアガイド交流研修会 20111025

淡海観光ボランティアガイド交流研修会2 20111025

淡海観光ボランティアガイド交流研修会3 20111025

猿の霊石(東本宮を出て振り返れば、お猿さんが座ったように見えます)

研修会終了後、世界大凧会館に到着、解散です!

大変勉強になりました!

 訪問して頂きまして、ありがとうございました


紙芝居と桃香りのする試食会・・・八日市ボランティア協会主催

2011年08月19日 | 観光ボランティアガイド


 八日市観光ボランティア協会は十九日に催す歴史ウォーク「梨狩りと建部の里を訪ねて」の予定だったが、。

 当日、雨で予定変更。

【同協会会員手作りの建部の民話を題材にした紙芝居を初披露と桃の香りのする梨の試食会に変更。】

乳橋乳橋地蔵

乳橋地蔵の紙芝居・・・

嫁取り橋・・・

紙芝居と桃香りのする試食会・・・八日市ボランティア協会主催

桃の香りのする梨試食会

大凧梨絵園の直売所

買って帰って・・・桃の香り梨

大凧梨園の即売所(CM)

当初の予定は

 八日市観光ボランティア協会は十九日に催す歴史ウォーク「梨狩りと建部の里を訪ねて」
 当日、午前七時十五分までに建部堺町の運動公園に集合したあと同三十分に出発。

コースは、乳橋地蔵、日吉神社、大塚古墳、引誓寺、建部大凧梨園を訪れる約五キロ(約四時間)。終着の梨園では梨狩りを楽しんだあと同協会会員手作りの建部の民話を題材にした紙芝居を初披露する。

対象は、歴史と歩くことが好きな人や親子。定員三十人。参加費大人千円、子ども七百円(保険代・梨狩り代)。


 問い合わせと申込みは、同協会の高村さん(******)へ。ファックスでもよい。名前、住所、連絡先、参加人数等を明記して谷さん(FAX・22―****)へ。

 

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市宮神社の額田王////「万葉の森 船岡山」および「妹背の里」周辺

2011年06月23日 | 観光ボランティアガイド

市宮神社の額田王

 

 

額田王、近江天皇を思(しの)ひて作る歌

君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く(万4-488、8-1606)

【通釈】あの方が早くおいでにならないかと、恋しくお待ちしていると、我が家の簾がそよそよと動き――あの方かと思ったけれど、お姿はなく、秋風が吹くばかり。

 

「天皇、蒲生野に遊猟する

額田王

 あかねさす 紫野行き 標野行き 
     野守は見ずや 君が袖振る


「皇太子の答ふる御歌」
 紫の にほへる妹を 憎くあらば
   人妻ゆゑに 我恋ひめやも   
 
          

(万葉集巻一)

天智天皇7年(668)旧暦5月5日、遊猟のため、
天皇とともに蒲生野に訪れた額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(おおあまのみこ)との間で交わされたこの相聞歌は、
万葉集を代表する歌としてあまりにも有名です。

舞台となった「蒲生野」は旧蒲生郡内にあった野で、
古代には皇室の薬猟場として、華やかな宴が催されました。

この歌が広大な蒲生野の何処で詠まれたか、
もはや知る由もありませんが、
この歌をもとに整備された「万葉の森 船岡山」に足を運びました。




山というよりも小高い丘と呼ぶにふさわしい船岡山は、
万葉集愛好家にとって憧憬の地です。

麓に鎮座する阿賀神社の前を過ぎて山道を登ると、数分で山頂にたどり着きました。

山頂には、相聞歌の歌碑が安置されています。
歌碑に刻まれた文字は『元暦校本万葉集』(国宝)に基づいています。
昭和43年に蒲生野顕彰会によって建立されたこの歌碑は、
その後、全国各地に誕生する万葉歌碑の先駆け的な存在として知られています餭

RIMG1653.jpg【船岡山の万葉歌碑】

碑の前で歌を詠んだ後、阿賀神社からの登り道とは反対側に山を下ります。
麓には万葉植物園がありました。
蒲生野遊猟」と題された陶板のレリーフの周囲に、
万葉集ゆかりの花100種あまりが植えられています。

RIMG1659.jpg
【「蒲生野遊猟」のレリーフ】

早速、相聞歌で詠まれた紫草(むらさき)を探します。

RIMG1661.jpg
【紫草です】

見つけました。
私が訪れた6月上旬はまさに満開の時で、
鮮やかな白に彩られた五弁花を広げていました。
使い古された言葉ですが、この花に対しては「可憐」という表現がぴったりです。

紫草は草丈が60センチ程になる多年草です。
赤紫色をしている根は、
往古より布を紫に染める「紫根(しこん)染め」に用いられました。
高貴な色である紫の原料となる重要な染料植物でしたが、
合成染料の登場によって近代以降は急速に減少します。
さらに、発芽率が低いうえ、ウイルスに弱いため栽培も容易でありません。
そのため、現在は絶滅危惧種に指定されています。


竜王町の「妹背の里」にも足を運びました。
蒲生野にそびえる雪野山の麓に位置する多目的広場です。
額田王と大海人皇子の像とともに、ここにも相聞歌の歌碑があります。
近くを流れる日野川に架かる雪野山大橋にも歌碑と2人の像が置かれています。

RIMG1621.jpg
【妹背の里の歌碑】

RIMG1623.jpg
【雪野山大橋の歌碑】

RIMG1624.jpg
【雪野山大橋の額田王像】 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました