城郭探訪

yamaziro

応昌寺城(応正寺城) 近江国(西浅井)

2015年12月12日 | 丘陵城

お城のデータ

別 称:応正寺城

所在地:長浜市(旧・伊香郡)西浅井町野坂・塩津中  map:http://yahoo.jp/hKwciK

現 状:公園・森林

築城年:室町期

築城者:熊谷氏

区 分:丘陵城

標 高:146.4m

遺  構:土塁、空堀、堀切、石積

駐車場:塩津小学校

訪城日:2015.12.12

お城の概要

 往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所遺構があったのでは、応昌寺城は関連する城郭か!

城跡は塩津小学校の東側で標高146mの北から南に細長く伸びる丘陵頂部に約450m×約80~30mの規模で築かれている。

二股に分かれる南西先端部の下に応昌寺・神照寺がある。二股の付け根から先端にかけて遺構らしき構造が見られる程度である。二股の西側は公園整備で改変を受けているものの、堀切状の深い窪地で先端部が区切られているのが分かる。

東側は入り込む谷に面して石塁状の遺構が残る。付け根付近には低土塁が見られ、形状は虎口状である。不明瞭で分かりにくい。

城址は小学校の南の山~東に続き林道を挟んで、東西160間×60間、東端は切岸、武者隠しの様な凹状の遺構が残る

 

歴 史

元亀年間の昔、信長が越前の浅倉氏を攻めるために、軍勢を率いて当の応昌寺の門前を通行の折、突然事もあろうに落馬したが、それは門前の古木のもとに鎮守の荒神が祭られ、古伝では何人たりともその神前を乗馬等の乗り物のままで通行すれば、おとがめ・たたりがあると聞いて、信長は立腹のあまり荒神(木像)の頭部を切り落としたという。即座に激しい腹痛をおぼえ、さすがの信長もざんげせざるお得なかった云々・・・」の伝承があり、

 このあたりは往古から敦賀・塩津浜間の街道を通行する人々を一刻下馬、下車させる古社もしくは番所に該当する遺構があったのではと推測され、応昌寺城はそれに関連する城郭か。

また、応昌寺はその昔「高源庵」と呼ばれ”とんちの一休”で知られた一休和尚の師の華叟宗雲禅師が京都より堅田の称名寺祥瑞寺を経てここ高源庵に住まわれたとの古伝もあり、堅田とこの高源庵の深いかかわりも考えられ、その墓塔が応昌寺に建ている。

応昌寺の裏に”一休和尚”の墓

道案内

塩津小学校に至る。校門を入った右手に公園へ通じる散策道があり、それを登ると城跡

城跡は塩津小学校の南に面した標高146mの小山で、頂部一面公園施設になっている。

城山へ

林道に出ます

林道を横切って、そのまま東へ

林道の東の概要図

マユミの紅葉と実

東側曲郭へ

戻ります

林道です応昌寺の裏に”一休和尚”の墓応昌寺

神照寺

三重荒神碑と参道(神照寺の庫裡の裏)

西浅井杉林が城址小学校の前のスキー場(頂部応昌寺城)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』1(1983.3)「伊香郡・東浅井郡の城」、遺跡ウォーカー 

        本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


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