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半世紀前の事....

558 京都に空襲(毎週土曜日に更改しています)

2018-02-10 04:07:36 | ブログ
 京都に空襲、そんな馬鹿な!戦中、空襲は西陣地域に7発の爆弾の投下があって死者50名、負傷者66名、被害家屋 292戸、被災者 850名。そして私に関わるだけで、その「西陣空襲」だけで無く「東山空襲」(馬町空襲)等々ありました。
 
 特に西陣空襲は、我が家の裏手に被弾、土間の土が座敷迄あがったと母から聞いていました。祖母が、大変恐れて、我が家で町内が持ったと言われた家を売ったのです。売ったお金を全額預金、その預金はその後、引き出し不能で母は残念がっていました。今、考えると、家に被弾しなくて良かったです。それを感謝しなくてはならないです。

 馬町空襲は少し外れていたら我が家のお墓や清水寺を焼いていたかも、しかし、多くの人が亡くなったのです。京都に原爆投下を予定されていた事は、ご存知の方も多いと思います。それ以外にも空襲があった京都は日本人の心拠り所と言われていますが、その本山を米国は狙ったと思います。戦中メディア等の統制があって国民に良く伝わらなかったと思います。

 戦争知らない世代が私も含み殆どになりました。加藤篤二先生が軍医としてビルマに行かれ、本「遥かな戦場の記憶」に書かれました。連合軍の近代化した兵器に対して、歩兵は前時代の三八式歩兵銃で対しました。玉砕命令などで無益な犠牲者を出した事など忘れてしまったと言う事から、かなりかなり経ってしまいました。

 しかし主に京都から参加させられた一二八連隊「安」兵団は1万5000名中、実に1万1000名が帰れない人になったのを忘れてはいけないです。この様な事は今なら無謀と分かりますが、戦医として「安」兵団に参加した加藤先生は、その本で、旧日本軍の行軍は1日36キロの強行軍を標準としていて、殆ど道なき道を銃と重い背嚢を背負って苦しみの中、歩き続け昼間はジャングルで休止し、夜間の行軍。
 1時間ごとに休止、疲れ果てて背嚢ぐるみで倒れるように地面に眠る。チーク密林内では野象や虎の出現に驚かされ、木の枝からポトポト落ちるヒルが尺取虫のように身体にまとい付き血を吸う...という過酷な条件であった。この為、朝令暮改の軍令で東奔西走した将兵の体力は量り知れないものがあったと書いておられます。

 大事な事は、その命令に従わざるを得ない時代があったという事です。何時の時代でも、名も無き末端の人達の犠牲は今も続くのでしょう。戦前の日本のような国が近くにある事が怖いです。
コメント
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