旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ニューギニア戦線

2017年01月20日 17時20分06秒 | エッセイ
ニューギニア戦線

 太平洋戦争開始間もなく1942年3月8日、日本軍は東部ニューギニアのラエ、サラモアに上陸し占領した。ニューギニアの戦いの始まりである。真珠湾奇襲、香港占領、フィリピン攻略、シンガポール占領、インドネシア進攻と初期の作戦が尽く成功した日本軍は、広大な南方資源地帯を手中にした。そこで第二段階、ところが頭の悪い軍人はこの先の作戦が何も無いことに気づく。
 手にした占領地は広く、石油・ゴム・鉄・アルミ・食糧・労働力を確保した。ところがその先の戦略、構想は無かった。だから軍人に国を任せてはならない。付け焼き刃のように出されたのが、米豪遮断作戦と前線を固めて米軍の反撃に備えるというものであった。小国が大国と戦ってじっくり構えたら、勝てるとは思えない。小兵力士は常に先手を取って動き廻らなければ、大きな相手には勝てない。相撲なら時間をかければ大きな力士が疲れることもあるが、生産力で10倍上回るアメリカに時間を与えては、不利になるばかりだ。それもある時点からは加速して差がつき、その差が開いて行く。
 日本軍はトラック諸島に海軍基地を置き、ニューブリテン島ラバウルを攻略し前進基地とした。しかしオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から、ラバウルは爆撃圏内であった。そこでポートモレスビーに海路上陸する作戦を立案した。しかしこれではキリがない。あそこを取ればその先も、さらにもっと先まで手に入れたい。本土を離れれば離れるほど、物資の輸送のリスクとコストは上がる。輸送船の数には限りがあり、シーレーンの防衛に戦力を割くのは痛い。
 ニューギニアはグリーンランドに次いで世界で2番目に大きな島で。面積は日本の約2倍、熱帯に位置するが、山脈は4~5,000m級の山が連なり万年雪を頂いている。目ぼしい地下資源は無く、帝国主義にとって魅力に乏しいこの島は19世紀にはオランダ。ドイツ、イギリスが分割していたが、利用していたのは沿岸部だけだった。大戦当時はほぼオーストラリアの統治下にあった。
 ポートモレスビーはオーストラリアにとっては本土最後の防衛線で、フィリピンを脱出してオーストラリアに間借りしていたダグラス・マッカーサーにとっても、対日反攻ルートの起点であった。地図を見てみると分かるが、西部ニューギニアとフィリピンは意外なほど近い。1942年のオーストラリアはかなり追い詰められていた。主力部隊は、北アフリカでロンメル率いるドイツアフリカ軍団と戦っているか、シンガポールで降伏して捕虜になっていた。
 海上からポートモレスビーを攻撃する作戦は、珊瑚海海戦によって中止された。海戦は日本軍優勢で終わったが、空母部隊、特に艦載機の損害が大きくて輸送船団の護衛が出来なくなったのだ。船団に乗っていた南海支隊は北東部のブナに上陸する。そして思い付きのように2,000mを超す山脈越え、陸路でのポートモレスビー攻略が開始された。
 戦時中の『日本ニュース』の中で、ニューギニアの自然環境を「千古斧鉞を知らざる樹林」「瘴癘の暗黒地帯」「悪疫瘴癘の蛮地」と言っている。日本軍は方位磁石も持たず、案内人もいないままマラリアの蔓延するジャングルに分け入った。しかし自然環境の過酷さは、守るオーストラリア軍にとっても同じことだ。マラリア、アメーバ赤痢、デング熱、腸チフスによる熱帯性の感染症によって、両軍兵士はバタバタと倒れた。
 それに加えて日本軍は栄養失調による餓死者、病死者が戦闘による戦死者を上回った。連合軍はDDTを撒いてマラリアを仲介する蚊を駆除し、卵や飲み水まであらゆる種類の缶詰を前線に送った。キャンプ地では家畜を放牧して新鮮な肉を供給し、クリスマスにはケーキを出した。日本軍はガダルカナル島の攻防戦に全力を傾け、ニューギニアへの補給は滞りがちになっていた。制空権も徐々に失われていた。そのガダルカナルの日本兵2万に対する補給にも窮し、兵士は次々に餓死していた。
 現地で食える物は何でも食った。原住民はサゴヤシからデンプンを取り、タロイモ、バナナ、ヤシの実を食べている。日本兵はヤモリ、トカゲ、ワニ、ノブタ、ネズミ、ヘビ、カエル、モグラ、ゲンゴロウ、トンボを捕えるが、部隊で食うほどの量はない。特に山岳地帯には食べるものが何もない。オーストラリア軍は日本兵の頑強な抵抗に遭い、彼らはジャングル戦のエキスパートに違いない、と判断したが日本兵はジャングルに入るのは始めてだった。
 ニューギニアの密林で台湾出身の山岳民族、高砂義勇兵が活躍した。健脚、卓越した方向感覚は生まれつきのもので、使命感と忍耐力が抜きん出ていた。彼らは偵察と主に輜重兵として、前線の部隊に食糧・弾薬を届けた。高砂義勇兵が前線にたどり着く直前に、背のうに山ほど詰め込んだ米には手をつけずに餓死した話はあまりに悲しい。
 道無き道を行き2,000mを超す峠を越えてポートモレスビーまで直線距離50kmまで迫ったが、食糧弾薬尽き日本軍の進撃は止まった。オーストラリア軍の必死の抵抗によって時間を取ったことが痛かった。オーストラリア軍の防衛線はあと一つで、そこを抜けば遮るものがない、という両軍ともぎりぎりのところであった。ポートモレスビーの街の灯りを見つつ、餓えた日本軍は撤退した。帰りは戦死した戦友の墓標を抜き取って痕跡を消した。しんがりの部隊は、敵の反撃を2週間防ぎ全滅した。
 そのころ日本軍はミッドウェー海戦で虎の子の4隻の正規空母を失っていて、ポートモレスビーに構ってなどはいられなくなっていた。その後のニューギニア戦線は負ける一方だった。何度も攻勢を取るが、銃弾を数えて撃つような攻撃は長続きしない。最後の頃の攻撃は人減らしのためではないか、餓死より戦死を選ぶ、と思われるものになった。サゴヤシのデンプンには限りがあったのだ。
 原住民は日本軍にも連合軍にも味方し、また敵となった。元々彼らは一枚岩ではなく、谷一つ違うと言葉が変わるという。日本兵が彼らのサゴヤシを奪い、タロイモ畑を荒らすのは日常茶飯に見られた。末期のころは、原住民の人肉食の禁止令が出ている。原住民が人肉を食うのではない。日本兵が餓えて彼らを食うのだ。1943年に、駆逐艦〝秋月〟に乗せてラバウルに移送中の女子供を含む原住民と宣教師を、海上で殺して捨てた「秋月事件」が起きている。この戦争での現地人の犠牲者数は明らかではないが、4万とも5万人ともいう。
 陸軍航空部隊は、悪条件下よく戦った。最初にラバウルに送られた一式戦・隼が連合軍のロッキードP-38に対抗出来なかった。P-38は徹底して格闘戦を避け、高速ダイブで戦ったので隼では追い付かない。そこで新鋭機、三式戦・飛燕(ひえん)を送った。飛燕はライセンス供与されたダイムラーベンツ社の液令エンジンを使っている。ただでさえ整備の難しいエンジンを、補給もままならぬ最前線に送り込まれた整備兵は大変な苦労をした。しかし飛燕は優秀だった。しだいに稼働率を上げ、圧倒的に優勢な連合軍に対抗した。
 敵には無尽蔵の補充があったが、こちらは滅多に補充機が来ない。空中戦で受けた敵機銃弾の穴を何度も埋めたために、速力が低下した。しかしニューギニアの航空隊に思わぬ贈り物が届いた。ドイツから輸入したマウザー20mm機関砲である。マウザー砲を搭載した改造飛燕は、双発のB-25、4発のB-24といった爆撃機をも空中分解させる威力を発揮した。同じ20mm機銃でも、零戦に使われている国産の物よりずっと高性能だった。航空隊は驚いたことに1944年まで戦っているが、根拠地のホーランジャが大空襲を受け、残っていた装備機がほぼ全滅する。
 間もなくホーランジャに米軍が上陸し、装備機を失った航空隊は山中に撤退して抵抗した。7月には戦隊が解散し、残った最後の飛燕3機が100機以上の米航空隊と空中戦を繰り広げて散り、ニューギニアに於ける空の戦いは終わった。1944年7月といえば戦場はニューギニアの遥か後方、サイパン島が玉砕する時だ。前線のとんでもない後方でまだ戦っていたのだが、内地の誰もが忘れている戦場であった。
 敵は本土に迫り、ニューギニアなどにはもう全く戦略的な意味はない。時期を見て撤退すれば良かったのだ。撤退の案は何度か出ていたが、大本営は踏み切らなかった。逆に1943年、日本軍は将来のポートモレスビーの攻略に備えるとして、兵を続々とニューギニアに送りこむ。ガダルカナルへの投入が予定されていた第51師団をニューギニアに送った。2月下旬には7,300名を載せた輸送船団がダンピール海峡で連合軍の反復攻撃を受け、輸送船8隻全てと駆逐艦4隻が撃沈され3,600名が戦死した。
 成功した輸送もあり、また小規模に分かれた舟艇や駆逐艦による輸送により、ついには20万人をニューギニアに送りこんだ。1944年に至ってもニューギニアに増援部隊を送っている。負けた博打の金を取り戻す為に、小出し小出しでつぎ込む必敗のパターンだ。しかし制空権・制海権を失っての輸送は困難を極め、戦力の大半は到着前に米潜水艦によって沈められた。ガダルカナルと同じで、かろうじてたどり着いた兵は食糧も武器も弾薬もなく、到着した日から飢えに苦しむ。いかに精強な日本兵でも、弾丸も足らず食いものが無くては優勢な火力の前に、連合軍には勝てない。
 その後連合軍が空襲、砲撃、海岸線に上陸、日本軍は4000m級の山岳地帯を越えて撤退、また立ったまま寝るしかない大湿地帯を越えて撤退。その都度、装備と万を超す将兵を失い、兵力は半減或いは1/3に減った。山では凍死、墜落死、餓死、過労死、自決。沼地では病死、ワニに食われて、毒草を食って中毒死、自決。行軍はそのまま死者の連なる道になった。分断されたまま終戦まで生き残った小部隊もいる。
 また日本軍としては珍しく、中佐以下42名で集団降伏している(竹永事件)。ここまで見捨てられた状況で、降伏しないほうがおかしい。米軍は飛び石作戦で日本本土に迫り、遊軍と化したニューギニア残留日本軍など放っておいた。日本軍は、後を引き継いだオーストラリア軍の掃討部隊と終戦の日まで戦った。東部ニューギニア戦線に投入された将兵は16万、西部ニューギニアを含めると20万人以上が戦いに参加した。
 その内、生きて内地の土を踏んだ者は2万人。実に10人に1人の生還率であった。ニューギニアに赴いた船員などの軍族や民間人、シンガポールの戦いで降伏し、その後チャンボラ・ボースの独立軍に加わり、日本軍と共に戦ったインド兵などの戦病死者の数は明らかではない。連合軍は、オーストラリア軍8千、アメリカ軍4千がニューギニアで戦死した。
 東部戦線、第18軍の安達司令官は、温厚で将兵と苦難を分かち合いよく部下を掌握したという。戦後ラバウルに収容され戦犯容疑で裁判を受けたが、部下の弁護に力を尽くし、全ての責務を果たし自決した。
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