旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

 客家とフェニキア人

2014年12月24日 09時21分41秒 | エッセイ
 客家とフェニキア人

 客家、ハッカと読む。よくご存知の方にはうっとうしい説明になるだろう。特殊な客家語を使うがれっきとした中国人、漢民族である。古くは秦の始皇帝の屯田政策によって南に移住させられ女真族、モンゴル、満州(女真族)と闘い敗れ、戦乱を避け中原の地を離れて南下した集団である。
 客家語は古代中国で使われていた、いわば中国語のルーツのようなものだが、現代北京語とはかけ離れていて通じない。日本でも古代の発音が、当時の辺境に当たる九州、薩南の島々に残っていたりする。客家は各地に分散した。福建省に入植した連中は独特な砦のような集合家屋(土楼と言う。円形は円楼、四角形は方楼)を作り、その石垣の中で数百年、民族の血と文化(言葉)を守ってきた。
 小平、「黒猫でも白猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ。」で有名な改革派の長老は、天安門事件さえ無ければ歴史に名声を残したろうに。彼は客家の出身。革命の父、孫文もシンガポールのリー・クアン・ユーも、台湾の元総統、李登輝もそうだ。ついでに言えば、フィリピンのアキノ一族も、タイのタクシン一族も客家系だ。漢民族の中で4%を占めるに過ぎない彼らとしては、やたらと革命家・政治家が多い。
 自分が初めて客家の事を知ったのは、映画[イヤー・オブ・ザ・ドラゴン]の中だった。ニューヨークの中華街を牛耳るチャイニーズ・マフィアと、それを追うポーランド系の刑事の話しで、マフィアのボスが水も滴るいい男、ジョン・ローン。映画の中で連中が使う客家語を盗聴しても、意味が分からない。刑事が通訳としてマカオにいたポルトガル人の尼さんを数人連れてきて翻訳させるのだが、会話で使っている客家語が余りに罰当たりで汚いので、尼さんが通訳を辞めたいと言い出し刑事があわてるシーンがあって面白かった。
 小学校の同級生に二人、お父さんが中国人の子がいたが、女の子の方のお父さんは台湾から来た客家系だと後から知った。そう言えば彼女、土壁で作った変わった家に住んでいたが、それは関係あるのかな。
 客家とは「よそ者」の意味である。流浪の民で土地土地に後から割り込んできたのだから、もめ事も多かったことだろう。彼らがどこまで選民思想を持っているかは分からないが、結束力が強くて決して仲間を裏切らず、外国に数多く移住し商売がうまい。だからほら、「中国のユダヤ人」とか言ってみたくなる。
 客家、ハッカ、その語感が良い。客家に対し漠然とした憧れを持っていたのだが、それを見事に粉砕してくれたのが、シンガポールで会った某君だった。この某君、商談の後の雑談の中で「俺、客家なんだ。」と言ったもんだから、オー、自分の中の好奇心と好感度が一気に上がった。某君そこで格好よく決めてくれたら、こちらもさっきの商談での値引き、半分受けてもいいかなって思ったりしたが、某君極めて当たり前の青年だった。「ポルノは日本製が一番だよな。」とか言ってこちらの憧れをぶちこわしてくれた。どうもありがと。
 あと、台湾の客家三人衆とひょんな事から仕事を共にしたことがあるが、三人の中で一番下っ端のおじさんと仲良くなった。彼はドライバー兼アシスタントといった感じで、英語はほとんど出来なかったが冗談ばかり言っていつも笑っている。街中で仲の良いカップルを見つけると、手を背中に回して「キス、キス、キスキス、ウーン、チュチュチュチュチュ」とかやって大笑い。本当にいい奴だった。「あんたまるで三国志の張飛だね。」と言ったら、「俺、俺がチャンフェイ?うれしいな。チャンフェイ大好き」そうか、張飛はチャンフェイか。すごく喜んでいた。自分は思うのだが、客家の特徴に教育熱心、政治好きに加えて、女好きを入れておいた方が良いね。
 さて所変わって自分がフェニキア人に会ったのは、古代オリエント博物館の中、ではなく自動車部品の商売で訪問したコスタ・リカだった。このお客さんは中南米にしてはまとまった注文をくれる良い顧客で、都合二回それぞれ二日間ほど訪問し注文をもらった。当時パーソナル・コンピューターの性能は低く、出張にはオフコンからプリントアウトした大量の紙資料をファイルして大きな手提げカバンに詰め、数のまとまった部品一つ一つの値段交渉と在庫・納期の状況を話し、一枚のプロフォーマインボイスにまとめる。まあ一回4~500万円の注文で、北米や中東に比べるとゼロが一つ小さいが、支払いがしっかりしていて、利益率がずっと良いので気持ちのよい注文なんだ。
 この会社の若いオーナーとはすっかり仲良くなり、他のスタッフとも気安くなった。滞在中、何度かレストランでご馳走になったが、カールネ、炭火焼きの牛肉がボリュームたっぷりで何とも美味い。突き出しの野菜も美味しい。この店には大統領夫妻もよく来るんだ。とか、この国の通貨はUS$で、軍隊が無い。など「へー」と言うような話しを聞かされていたがそのうち、「俺フェニキア人なんだ。」と言われてぶったまげた。えっカルタゴかよ。あんたハンニバル?びっくりしてよく聞いてみると、生まれはレバノン。内戦続きのベイルートを脱出して海外で生活するレバノン人(フェニキア人)は本国の倍はいるらしい。さすがは二千年前から有名な商人の末裔だけのことはある。確かに彼は、肌の色は白いが目に特徴があり、言ってみればエジプトの壁画の中のファラオや神官の目を思わせる。目に隈取りがしてある訳ではないが、今迄見たことの無いインパクトのある大きな目なんだ。まあ中南米だから色々混血しているし、イタリア系にしては東洋的な趣があるのは、インディオの血でも入っているのかな、と思ってはいた。しかしフェニキア人とは、というかフェニキアという言葉が現代の家族に充てて使われたことに驚いた。すげーな、俺フェニキア人。日本で言えば、俺、邪馬台国人なんだ。私はクマソ。
 二度目の訪問の時、商談もすっかり終え、明朝グァテマラへ移動という夕方、この親近感の増したフェニキア人と居心地のよいオフィスのソファで、コーヒーを飲んでくつろいでいた。外は風雨が強くなり、明日飛ぶのか少々不安になる。その時彼がボソッと言った。「今日家にカミさんがいないんだ。飲みに行ってセニョリータを引っかけようぜ。」えっ?大丈夫かいな。若旦那とはいえ、おっさん良く見ると腹は出てるし、髪は薄いしと正直思ったが、こっちは明日の朝まで暇だしおっさん自信があるようなのでついていった。
 実をいうと中南米の出張中、かわいい娘がうじゃうじゃいて、ニコニコしてくるのは良いが、こちらのスペイン語のボキャブラリーが悲劇的に不足していて話しが出来ないでいた。コスタ・リカといやラテン・アメリカの3Cだぜ。3Cとは、ミス・ユニバーシアードでよく優勝したり上位に来る美人の多い国のことを言う。チリ、コロンビアにコスタ・リカだ。
 ラテン・アメリカで若い娘というのは、ジロジロ眺めるものである。いい女が信号をシャラリシャナリと渡り始めると、止まっている車のドライバー、乗客の全員の目が女に集中する。渡り始めから渡り終えるまで、数十の目玉がゆっくり左右に動く。途中でたまらずヒューヒュー、合いの手を入れる奴も出てくる。いい女も視線を十分意識していて、渡り終えると初めてこちらを振り返りニコッとしてウィンクを入れたりする。すると車の中の男どもは興奮が最高潮に達して口ぐちに叫び出す。これは当たり前の光景、ラテンの常識である。ムッツリ助平ではなく、ムキダシ助平なのである。
 さて日本のムッツリ助平の我が輩と、今日まで知らなかったが、根が助平のフェニキア人は小嵐の中、意気揚々とセニョリータ狩りに車を出し、こじゃれたステーキハウス(?)に乗り込んだ。ところがガッテン、店はガラガラで娘はおろか一人の客もいやしない。我々は一瞬キョトンとなったが、表がこんなじゃ無理もない。結局そこで気勢の上がらないままボソボソと飯を食い酒を飲んでセニョリータが現れるのを小一時間待ったが、最後まで現れず我々が出たらこじゃれた店は早々に店仕舞いとなった。

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