旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-2

2014年12月22日 14時07分40秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

イスタンブール

















 イスタンブールは猫の街だ。三毛もいるが黒猫が多い。海外に出て犬はたくさん見てきたが、猫が住んでいる密度は日本が一番だと思っていた。いやあ世界は広い。イスタンブールの猫密度は日本の下町を上回る。
 総じて小柄でやせた猫が多く、とても人なつっこい。犬も多いが、あれ、こんなきれいな犬なのにノラなの?という感じでチワワのノラまでいた。猫たちに話しかけながらエサをやっている光景を何度か見たが、それはいつもモスクの内外でヒゲ面の男たち。内一人はイスラム教の導師(イマーム)でした。ついでだから言っておくと、イスラム教には僧侶、司祭、牧師に当たる聖職者はいない。世俗のイマームが先生になってイスラムの教えを伝える。イマームは先生だから当然妻帯します。イスラム僧なんて言葉は無いのです。
 一度猫と犬のケンカを見た。広場の芝生に陣取った猫と、体格がその猫の五倍はある犬とがにらみ合っていて一触即発。徐々に間合いが詰まって、犬の鼻先に猫のコンマ三秒のエアーパンチが炸裂すると、犬は飛び上がって逃げた。犬はなおも未練がましく芝生の回りをしばらくうろついていたが、芝生の中央に背を丸めてどっしりと座った猫にはかなわない。ところでここの猫はムスリム(イスラム教徒)なんでしょうか?

 黒海から流れ出た水は、ボスポラス海峡を通り抜けてマルマラ海にそそぎ込み、その先はエーゲ、地中海へと広がる。そこにはロードス、キプロス、クレタといった大小無数の島々が浮かぶ。どこを歩いても海に向かって開けたこの美しい街は石畳の坂道が多く、トラム(路面電車)、地下鉄、電車、ケーブルカーといった様々な交通手段があり、丘の上には巨大なモスク、海沿いには宮殿(トプカプ、ドルマバフチェ)とバザール、商店、食堂、公園があり、観光客と地元の人がたくさん歩いていて活気がある。長い間あこがれていたこの街に都合五泊したが、あと一日、あと二日はいたかった。たまらなく魅力的な街です。宿泊したホテルは旧市街の、ブルーモスクをちょっと見下ろすロケーションにある、こじんまりとした中級ホテルです。屋上に食堂があり、ブルーモスクへは歩いて二分、屋上からの視界の三分の一はボスポラス海峡で向かい側は新市街、丘の上にはガラタ塔が見えます。残りはマルマラ海に向かって大きく開けていて数多くの貨物船が行き交っている。その先にはアジア側の陸が見え、その陸地は広大なアナトリアの大地へと通じる。その先はシルクロードを通って長安へと続く。
 主な見所は旧市街地区に固まっていて歩いても廻れるし、トラムは3-5分置きに来るからそれに数駅乗れば楽が出来る。プリペイドの交通カードをキオスクで買うと、バスを含めて市内のどの交通にも使えて便利だ。カードは料金を追加入金でき、最終日にキオスクに渡すとデポジットの五リラ(三百円)が戻ってくる。一枚あれば二人で使える。つまりタッチしてカミさんを入れ、もう一回押して自分が入る。だけど十年前に買ったトルコのガイドブックには載っていない路線がたくさんあり、また2013年の十月末には旧市街とアジア側を繋ぐ海底トンネルが、日本の会社の手で開通し地下鉄が通ってさらに便利になる。インフラ整備はオリンピックの開催を予定していたんだろうね。イスタンブールっ子は心底残念がっていましたが、地方のカッパドキアの人達は意外とクールでその温度差が面白かった。東北や大阪の人が手放しでは喜べない、みたいな。
 
*モスク(ジャーミィ)巡り









 今は無きオリエント急行に乗って終点のスィルケジ駅に到着する。街に出るとまず目につくのは、幻想的なフォルムのモスク。海が眼下に開け、空にはカモメ、無数の船が海峡を行き交う。アヤ・ソフィアとそれに対抗するようにブルー・モスクが天に突き出たミナレット(尖塔)に囲まれ、千年の歳月を感じさせない優雅な姿で目に迫る。
 街には焼き栗、とうもろこし、胡麻パン等の屋台が並び、良い香りを漂わせている。トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、アラブ人、原色の服をまとったアフリカの人達が歩き廻っている。遠くからバザールの雑踏の音が届き、お祈りの時間になると、モスクのミナレットからアザーム(お祈りの呼びかけ)の声が朗々と流れる。
 スレイマン大帝時代のイスタンブールの人口は約四十万人。同時代のパリは二十万、ローマ十万人でした。ルネサンス以前では、世界で最も豊かで文化の進んだ都市だと言えるでしょう。中国が怒るかな。

  *イスラム教の礼拝堂をモスクと呼びます。そうです。タマネギ屋根の建物ですね。モスクの大きなものをトルコ語でジャーミィと呼んでいます。

 アヤ・ソフィア













 東ローマ帝国、ユスティニアヌス帝の時代、西暦五三七年、キリスト教会として建設された。この時日本ではまだ聖徳太子も生まれていない。
 間に柱を入れずに高さ五十六m。直径三十一~二m(多少ゆがんでいる。当初からか、地震のせいか)という奇跡のような大ドームを持つ。建築には二人の数学者がたずさわり、屋根にはロードス島で造られた軽いレンガを使っている。1453年、オスマン帝国軍によりコンスタンチノープルは陥落し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は滅びる訳だが、帝国最後の日、逃げ場を失った市民の多くは、イスラム兵士の半月刀に追われここアヤ・ソフイアに逃げ込んだ。最後の瞬間に大天使ミカエルが天から降臨し、キリストの敵を滅ぼすという言い伝えがあったが、イスラム兵が殺到しても、天使は現れなかった。
 ここを占領したメフメット二世は、アヤ・ソフィアの周囲に四本のミナレットを建て回教寺院とした。この美しい建物は教会からモスクに代わっても、調和のとれたその姿に違和感はない。内部の壁面をおおうフレスコ画は、1930年代に再発見されるまで、偶像を嫌うイスラム教徒によって漆喰で塗り込められた。現在は博物館として解放されています。壁画の規模とフレスコ画の鮮やかさは見事で、ビザンティン帝国に大金を寄進した大商人の夫婦がキリストの左右に立つ図柄などは微笑ましい。城壁の代金を寄進した商人は手に模型のような城壁を抱えている。日本の神社で町内の寄進者の名前を石の柱に堀るのと発想は同じだね。
 アヤ・ソフィアは、二階まで上がることが出来る。他のジャーミィではそれが出来ない。皇帝は馬に乗ったままスロープを通って二階に行けた。下から見上げても、上から見下ろしてもステンドグラスごしに大ドームの空間の広さが感じられる。

ブルー・モスク









 正式な名称はスルタンアフメト・ジャーミィ。内部の壁に鮮やかな青いタイルが多く使われてることから、愛称としてブルーモスクと呼ばれている。オスマン帝国の最盛期に、大建築家スィナンの弟子によって作られたモスクである。ここは人気があり、朝から大変な人出で並ばないと入れない。イスラムの建築は外光を出来るだけ取り入れて、明るく開放的でシンプルだ。彫刻や絵画が一切なく、窓には美しい色を組み合わせたステンドグラス、壁面は大てい鮮やかなタイルで覆われ、祈りをする床には一面絨毯が敷かれている。ブルーモスクは中に入れば息をのむほど美しいが、外から見ても六本ものミナレットを持ち、大きな丸ドームをたくさんのより小さな丸ドームで囲んだ姿が良い。何しろホテルから徒歩二分。毎朝五時半~六時(日によってずれていった)ブルーモスクのアザーンによって目を覚まされるが、ここの声は他のモスクのものに比べてピカ一でした。

 スュレイマニエ・ジャーミィ/リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他







  タイトルの二つのジャーミィはミマール・スィナンが作ったものです。スィナンはカッパドキアの石工の家で生まれたキリスト教徒で、ギリシャ系もしくはアルメニア系白人です。オスマン帝国は宗教には大変寛容で、特にユダヤ教とキリスト教は共に啓典の民(旧約聖書はイスラム教を併せて3宗教共通)として尊重されていた。ナザレのイエスは預言者の一人として尊敬されコーラン(クルアーン)の中に何回も登場します。ただ神の子とか復活とかは認めていません。
 デヴシルメというオスマン英国の制度があり、キリスト教徒の少年を一定数、半ば強制的に五年に一度徴用してイスラム教に改宗させ教育する。少数の賢い少年は宮廷に残し官僚とする。帝国の歴代の宰相の多くは元キリスト教徒や奴隷出身であった。残りの大半の少年はイェニチェリになる。
 ヨーロッパを震え上がらせたオスマン帝国軍の中でもイェニチェリ軍団はスルタン直属の精鋭近衛師団の歩兵隊である。全員元キリスト教徒で妻帯は出来ない。世俗の欲を断ち切り、仲間とスルタン個人への忠誠心のみで繋がっている。仲間への友情のあかしとして大ナベやスプーンを旗印とし、軍楽隊を先頭に華麗な装備で進軍し、激戦の中ここぞという所で投入され命を捨てて戦う。帝国がうまくいっている時には有効に機能したが、末期は腐敗して反乱をおこし、国防軍によって鎮圧された。
 スィナンは二十歳を過ぎてからイェニチェリの工兵隊に所属し、四十五歳のころ遠征先の戦場で橋を作りスルタンの目に止まった。スレイマン大帝以降、三代のスルタンに仕え百歳で没するまでに、四百七十七以上のモスク、橋、病院、ハマム(公衆浴場)等を造った天才建築家です。トルコのミケランジェロかダ・ヴィンチか、時代も重なっている。スィナンの造ったモスクの多くはバザール、神学校、図書館、施療院やハマムを含めた総合施設です。スュレイマニエ・ジャーミィは地上で味わえる最も美しい空間の一つと言えるが、残念ながらお祈りの時間が迫り、五分ほどしかいられなかった。ここの近くにひっそりとスィナン自身の墓がありました。スィナンはスュレイマニエ・ジャーミィでアヤ・ソフィアを超える大きさのドームを作ろうとしたが、わずかにおよびませんでした。
 リュステムパシャ・ジャーミィはドームの直径が十五mとスュレイマニエ・ジャーミィの半分ほどの大きさだが、カミさんはここが一番きれいだったと言います。何しろ全部の壁面で使われているイズミック地方で作られたタイルの色が鮮やかなんです。深みのある青、緑、地の白色が美しく図柄はユリ、バラ、カーネーション、チューリップといったいわば永遠に色あせない花園で、特に赤がすごい。青もいいね。イズミックタイルは十六世紀に最盛期を迎え、スィナンのモスクやトプカプ宮殿を彩るが、その後赤の技術は失われ、現在ではあのようにインパクトのある赤は再現出来ない。
 ところでリュステム・パシャ・ジャーミィの入り口はエジプシャンバザールの中にあり、え、ここなの?と言うような暗い階段を登ると陽の当たる場所にポッカリ出る。そこがジャーミィの入り口。ガイド君いわく、「入り口はトルコ人でも分からない。」
 他にもホテルの近くにあるスィナンが造った小さなモスク、ビザンティン時代の教会跡を作り直したモスク、新市街にあったキリスト教会(ギリシャ正教かアルメニア教会か不明)等を訪ねました。モスク見学は無料ですが、お祈りの時間は入れません。また女性は髪を出さないようにスカーフをつける必要があります。小さなモスクはすいていてゆっくり出来ます。絨毯の上に座り、ステンドグラスから差し込む光の中、静かなドームではスカーフをつけた地元の美女がお祈りをしていたり、イスラムの先生が少年の悩みごとを聞いていたりします。少年の悩みは聞くまでもない。「先生、僕、女の人のことで頭が一杯でーーー」知りたいのは先生の答えだよね。ドームの中は、宙に浮かんだ精神カプセルとでも言おうか。とても穏やかで落ち着いた空間です。ここで一日に何回もお祈りをするムスリムの人たちが鬱病にかかるとは思えません。

ジャーミィ秘話

 いかんいかんいかんぜよ。何だか学校の授業みたいな説明口調になってきた。これでは読者の皆さん、面倒くさいから読むの止めたってことになっちゃう。なので、ここらでガイドブックには書かれていない取っておきの秘話を披露しよう。主にガイド君たちから仕入れたものです。

1。第一話:ダチョウの卵

 ジャーミィのドームの天井近くにぶら下がった何やら不思議な球体。これダチョウの卵なんです。薬草と香辛料で煮込まれ真っ黒になっている。何?何なの?実はこれ、虫よけなんです。蜘蛛も羽虫もダチョウの卵を異常にきらうそうです。そういえば大きなジャーミィは日中、戸が明き放しなのに中で虫が飛んでいるのを見たことがない。

2。第二話:音響効果

 スィナンの傑作、スュレイマニエ・ジャーミィ。オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の絶大な信頼を得ているスィナンですが、大帝の名を冠するこの大モスクの建設予定地の丘で人を遠ざけるとイスを持ち込み、一人で水パイプをやり始めた。来る日も来る日も朝から陽が沈むまで丘の上に座り続け、やる事といったらコポコポ水パイプをふかすだけ。最初は設計の構想を練っているのだろうと、大監督で地位も高いスィナンに誰も意見をしようとはしない。
 ところがスィナン、一ヶ月たっても二ヶ月たっても動かない。他の準備もすっかり終わり、各地から集めた職人・人夫もすることが無くなった。三ヶ月、四ヶ月。スィナンは丘の上で一人でコポコポ。さすがの大帝もいらだち直ちに工事を始めるように命令を下すが、結局始めたのは六ヶ月後だった。まず耐震性を高くするため、三年間地面を6-7mも掘り下げる基礎固めに費やした。
 ジャーミィのドーム内は静かだが声がよく通る。それは銭湯の中のようにワンワンこもる音ではない。祈りの空間ふさわしく音や声が一瞬増幅され、そのとたんにどこかへ吸い込まれて消えていく印象だ。スュレイナニエ・ジャーミィには、壁の間に百三十三個の素焼きの壷が埋め込まれているという。スィナンは半年の間、水パイプの音の流れに繰り返し耳を傾け、限界まで最高の音環境を追求したわけ。ちなみに日本では、能の舞台の床下には壷が置いてあるそうです。床を踏む音がポンっと決まるんだろうね。

3。第三話 スス、炭、カリグラフィー

 モスクでは朝早くから夜になってもお祈りは続く。今では電球が天井から釣り下げられ巨大な金具の輪に取り付けられていますが、電球以前はオイルランプです。アラジンの魔法のランプね。当然ススが出て、そのままでは壁や天井が黒ずんでしまうのだが、天才スィナンがそのような事を許すはずがない。
 立ち上るスス(煙)を集めて排出する排気システムが出来ていて、天井近くにある排出口のある小部屋は永年の間の煙にいぶされて真っ黒になり、大変良質な炭が取れるそうです。その炭を用いてコーランの一句を美しく図案化して描いたカリグラファーはモスクの内外を彩ります。

4。第四話:スィナンの残した修復マニュアル

 何年か前、これもスレイマニエ・ジャーミィで大規模な修復工事が入り、日本の大手建築会社が受注したそうです。その工事の最中、天井に近い場所でスィナン自身が書いた巻物?が見つかりニュースになったそうです。
 そもそも円い巨大ドームは天頂に負荷がかかり、例えばその頂点の礎石を外したら、内側に向かって周囲の石が次々に崩れてくるのだそうです。当然その頂点は相当な圧がかかっていて痛みやすい。スィナンの書は、その礎石の交換時期・方法を詳しく書いた物であった、と言うことです。

 地下宮殿









 ここを作ったのはオスマン帝国ではなく、4-6世紀のビザンティン帝国(東ローマ帝国)です。実際には宮殿ではなくて、地下水道もしくは地下貯水池です。ですが確かに宮殿と呼びたくなる。何しろオリンポスの神々の神殿の柱を林立させているのだから。オスマン帝国もちゃっかりここを利用していたのですが、十八世紀に入り帝国が衰退してくる中でこの地下貯水池は使われなくなり、一時その存在を忘れられていたそうです。ただ床下に穴があり、そこから釣り糸をたらすと魚が釣れる家があったり、どこそこホテルは地下から無尽蔵に取水できるといった不思議がありました。
 現在は電気がついて、通路には手すりが組まれていますが、入り口は繁華街にあって、地下駐車場はここね、みたいな素っ気なさ。ここに降りた時にこれは見たことがあると思った。ジャッキーチェンの映画のロケで使われていたはずです。イスタンブールの街にはこのような地下宮殿がいくつもあるそうなので、ここかどうかは分からないけどね。1984年に大改修を行い、底に貯まった泥を二mも取り除いたところ、横向きと下向きに柱の下敷きになったメデューサの大首が現われ大変な話題になったそうです。メデューサはギリシャ神話に登場する髪の毛がヘビの怪物です。メデューサを一目見た者は石になってしまう。元々はポセイドーンの愛人で美女だったが、何やらで罰を受けおぞましい姿になった。生け贄のアンドロメダ(美しい乙女)を助けに来たペルセウスによって退治された。ペルセウスは盾に写った姿を見て戦ったといいます。メデューサはイッソスの戦いで、ペルシャのダレイオス王に迫るアレキサンダー大王の胸当てにも描かれています。
 キリスト教を国教とした東ローマ帝国が、古代の信仰を守る人々に対するみせしめとして、柱の土台にしたものです。神殿にあったメデューサの首を切り落とし、こんな事をされてばちを当てられないようでは、お前たちの神は偽物だ、と言うわけですね。品の良いやり方とは思えませんな。

コンスタンチノープルの陥落

 1453年。二十一歳、オスマン帝国第七代スルタンのメフメット二世により、三重の城壁に守られ難攻不落と言われた、東ローマ帝国の城塞都市、コンスタンチノープルは陥落した。日本では信玄・謙信の川中島の合戦が1553年だから、それに遡ること百年。兵力差は十万人対七千人でした。
 メフメット二世は開戦の数年前からハンガリー人ウルバンを重用して、五百㌔以上の石の玉を千六百m飛ばせる大砲を何門も造り、各々六十頭の牛に引かせて、当時の帝国の首都であったアドリアノープル(現エディルネ)から三日間かかって戦場に運んだ。ウルバンは最初この大砲を東ローマ(ビザンチン)側に売り込んだが、冷たく拒否され仕方なくオスマン帝国に行きメフメット二世に厚遇されている。もしビザンチン側が数門でもこの大砲を備えていたら、オスマン軍は城壁から二㎞は離れて陣を張らなければならなかったはずだ。
 また元々が遊牧民のオスマン軍は海戦が苦手で、海軍は元キリスト教徒の海賊を提督として雇っていたが、船数ではビザンチン側の数倍を保有していた。三重の城壁をめぐらせたコンスタンチノープルも海側の守りは手薄だった。七千人の兵士では陸側に配置するだけで手一杯だ。
 その代わり、金角湾の入り口を鉄鎖で封鎖し、オスマン艦隊の侵入を防いでいた。海底から引き上げられた鉄鎖を、国立歴史博物館で見たが、一つが1mもある太くて巨大な鉄の輪です。これは海の底に這わせても意味がない。たくさんのイカダを作り海上に浮かべ、その上に鉄鎖を固定して海峡の出口を封鎖した。さらに金角湾内には、少数だが海戦に習熟したヴェネチアとジェノバの艦船が巡回していたので、海側の守りは万全だと思われた。
 ここでメフメット二世は戦史に残る奇策を取った。艦隊の山越えである。今でいう新市街、中立政策を取ったジェノバ人の住む、ガラタ地区の横の小山に道を作り丸太を敷き詰める。重い装備を外して船体を軽くした木造のガレー船をそれに乗せオイルを樽から惜しげもなく丸太にかけ、人や牛を使って小山へ引っ張り上げる。小山の頂きからはやはり油をかけた丸太の道を通って、次々にオスマンのガレー船がビザンチン側の内海である金角湾にすべり下りる。一夜にして数十艘の艦船が金角湾に出現したのを見た防衛軍は、いかばかりに驚き失望したことだろう。
 コンスタンチノープルの内懐に入ったオスマン軍は、海側から艦載砲の砲撃を加える。陸側は連日に渡る巨砲の砲撃により崩れる城壁の修理が追いつかず、地下のトンネルがトルコ軍陣地から掘られ、一つつぶしても他に何本も作られ、城壁に達すると火薬を仕掛け下から城壁を破壊する。救援を呼ぶために派遣されたヴェネチアの小型ガレー船は、数日の差で救援艦隊とすれ違い、救援隊が地中海に来ていない、という絶望の報告をする為に死地へ引き返した。隣国ハンガリー王が参戦の準備を進めていたが間に合わず、間に合った法王の救援軍はわずかに傭兵二百人だった。
 ある朝、城門の一つが締め忘れられている事を発見したオスマン軍がそこからなだれ込み、ビザンチン帝国最後の皇帝コンスタンティヌス十一世は、殺到する精鋭イエニチェリ軍団に立ち向かい、ついにその遺骸すら発見されなかった程の奮戦のすえに死んだ。

トプカプ宮殿





 アヤ・ソフィアの北東、ギリシャ人がアクロポリスを作った七つの丘の一つに築かれた、面積七十万平方メートル、モナコ公国の半分の大きさを持つ宮殿。門に大砲が据えられていたため、大砲の門と呼ばれる。トプが大砲、カプは門の意味です。
 宮殿は庭園の中に点在する建物群からなり、図書館、武器庫、厨房、ハレム等が固まったり離れたりして建っている。宮殿の床や壁のタイル、窓のステンドグラスは美しいが建物自体は案外質素です。帝国が衰えを見せ始めたクリミア戦争中に作られたドルマバフチェ宮殿(1856年年落成)の方が、ずっと絢爛豪華で部屋数も多い。あちらは西欧風(バロック調、ロココ調)が加味され、階段にはクリスタルの手すり、ドアの取っ手に至るまでかわいらしく装飾された色とりどりの陶器に覆われている。中国の大きな磁器の花瓶が部屋のそこかしらに置かれ、象牙のろうそく立て、日本製の茶だんす等の調度品、部屋のタイルやカーペットの色に合わせたテーブルソファーセット。儀式の間は洋風の破風のついた高さ三十六mのドームで五トンあるイギリス製のシャンデリアが下がっている。
 一方のトプカプ宮殿は、外国の使節の謁見の間ですら、さしたる広さではない。しかもスルタンは脇の小部屋に隠れて大臣が会見する様子を盗み見している。ハーレムは広くて、下っ端の娘や女奴隷、宦官の部屋は見学出来ない。ピンク等暖色系のタイル、カーペットを使っていて落ち着く。ハレムのハマム(風呂場)はきれいだが、意外に狭くて4-5人入れば一杯になってしまう。湯船はなくスチームのサウナで汗を出し、汲み水をかける方式。カリギュラ皇帝のローマ風呂とかを想像してもらっては困る。ハレムには食堂はないので厨房から料理を運んでくるのだが、運ぶ途中で冷めないように廊下にスチームで暖め直す装置がある。
 さて厨房だが三つあり、スィナンが作ったメインの厨房は十本の煙突が出ていて、八百人の料理人が毎日四千食を作っていた。祭事の時は外から客が来るため、料理人の数は千人になった。二つ目の厨房は各種のデザートを用意し、三つ目の厨房では選りすぐりの料理人がスルタン一家の御膳を用意する。一年間に3万羽のニワトリ、2万3千頭の羊、1万4千頭の子牛が調理され、毎日膨大な量の新鮮な野菜と果実等が運びこまれた。
 だがこの厨房のすごさはそれだけではない。ここは北京と並ぶ東洋陶磁器のコレクションがあり、中国陶磁一万点以上、古伊万里を主とする日本の物が約七百点、その他朝鮮、ベトナム、トルコの釜で焼かれた皿がこれでもかと残っている。鑑賞用ではなく、毎日の食事に使用する器として残っているのだが、全く残念なことに数年前から改修工事に入り、現在厨房に入ることは出来ず、陶磁器コレクションを見ることはかなわない。
 最後にトプカプのお宝、宝物殿を紹介しよう。圧巻は世界第五位八十六カラットのダイヤモンドが回りをたくさんのダイヤで囲まれてターバンの羽飾りとなっている。このダイヤはそれを河床で見つけた職人が、その価値を知らずスプーン三本と交換して喜んだといういわれがある。次にエメラルドの短剣。直径五センチ程の緑色に透き通ったエメラルドが三個短剣の柄にはめ込まれ、その周りは金で飾られている。マフムト一世からペルシャのナディル・シャーへ贈られる途中、シャーの急死の報告を受け、引き返したものだ。映画「トプカピ」はこの短剣を盗む泥棒の話し。
 他に、宝石をちりばめ金装飾した小物入れや時計、楽器、豪華な椅子や衣装等が計四つの部屋に展示されている。武器もすごい。スルタンの親衛隊、イェニチェリ軍団が儀式の際に使うと思われるヨロイ、赤い大盾、大きな半月刀、全長二mはあろうかという銃にほどこされた装飾は圧巻で、これほどきらびやかな装備を持つ兵士が百人も並んだら宝石、金具が陽光に反射し見る者の目が眩むであろう。
 宝物殿は見物客が列をなし、特に最初の館は行列が恐ろしく長かったので割愛した。そこには預言者マホメッド(ムハンマド)の外套、剣、歯、あごひげ等が展示されている、とのこと。もっとも全て箱に納められているそうだ。「ここはいいや。」とガイド君に言うと、「そうね。日本人は大ていそう言う。」との返事が返ってきた。

* ハレムのこと








 
 オスマン帝国のハレムの美女は三百人(最盛期は千人)だから、中国のように後宮三千人まではいかない。幼い皇子、皇女の保育もハレムで行っている。女性は例外なくキリスト教徒の生まれで、アルバニア、ギリシャ、グルジア、コーカサスの出身者が多いが、イタリア人、フランス人もいた。ハレムでスルタンの子を授からなかった美女は、大商人や重臣の妻として下付される事もあった。調達は地方からの献上か、奴隷市場での購入による。ハーレムと呼びたくなるがハレムの方が語源に近い。
 ナポレオンの奥さんジョセフィーヌの従姉(エーメ・デュブック)が地中海で海賊に捕まり、ハレムに入れられました。数奇な運命に生きたエーメは、天性の気品と美貌から時のスルタンに愛され、ついには女奴隷から皇太后となり、夫と息子のスルタンを通してハレムの生活を改良し、帝国の近代化に努めました。
 一説では、ナポレオンがジョセフィーヌを離縁したことに怒りロシア遠征の際に、息子を動かしてそれまでの親仏政策を覆し、宿敵ロシアと講和を結んだという。
うわっ歴史はこんな所から動いていたのか。カミさん怖るべし。






















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