旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

ラオス紀行~仏陀のいとし児の住まう国-2

2014年12月19日 18時15分54秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
 

③南ラオス編


③の1.ラオスヘ、ワット・プー













 朝シェムリアップを発ち、小さなジェット機で南ラオスのパクセーへ。ラオ航空のCAは独特な観音さま顔で(浅田真央ちゃんとも違う)、んっ、これは期待できるかも。ですがこの期待はおおむね裏切られました。自分は二十九年前、タイのチェンマイの北のチェンライ、さらにそこから山の中を北上してタイ・ラオス国境の難民キャンプで、自動車整備の学校の設立準備をやっていました。そのキャンプの周辺の食堂で働く娘さんたち(彼女たちは難民?それとも住民?最後迄不明)がとても可愛かった。声も高音で小鳥がさえずるようでした。でも彼女たちは低地ラーオ人ではなく、山岳民族の娘さんだったんですな。
   ともあれ、パクセーからラオス国内にあるクメールの遺跡、ワット・プーに行きました。これはまた立派な遺跡で世界遺産(2001年登録)。参道も立派。二つあるため池も立派。何しろこの池、ボートレースの会場になります。ここはヒンドュー教の寺院だが、現在地元の人々の信仰の対象となり、お祭りの時には村中の人がろうそくを持って集まるそうです。例によって相当急で幅の狭い石の階段です。頂上からはのどかな田園風景と森が見渡せます。『チャンパー』と呼ばれるラオスの国花(大きな木に白い花。ラオ航空の尾翼に描かれています。)が良い香りで、遠くでにわとりが鳴いている。空は澄み切った青空に白い雲。東京でも大風がスモッグを吹き飛ばした日の翌朝、澄んだ青空に富士山がくっきり浮かび出ることがありますが、それより2割増し青い絵の具を使っている。頂上でくつろぐと、心の底からゆったりしました。

 
③の2.大メコンの滝、四千もの川中島



























南ラオスでの2泊はメコン川の中の島、コーン(グ)島に泊まりました。この島20km x 8km。五千人も住んでいて、メコンのこのあたりの川中島の中で最大なのですが、島を歩き回らなかったので、その大きさは実感できなかった。ただコーン島(大コーン島)からコーン島(小コーン島)へ向かうメコンの舟旅の間に大小様々な島が次々に現れ、小さな島は無人で畑を耕しに昼だけ上陸するそうで、なるほどこれなら島が数千あっても不思議ではない、と思った。小コーン島は植民地時代(1910~1945,1946~1955年、途中の一年は日本軍の仏印進駐)にフランスが軽便鉄道を作って、ゴムやコーヒーの積み出しを行っていました。当時の橋はそのまま使われていますが、その一つは日本軍の空爆で破壊されています。この島をレンタル自転車で回り、リーピー(ソムパミットの滝)と呼ばれる滝を見物。その圧倒的な迫力に驚きました。見物している人は二十人に満たない。サギだろうか、真っ白い大きな鳥が滝の上をゆうゆうと飛んでいたのが印象に残ります。ここでは一日中網を構えて、滝から落ちてくる魚を狙う漁師がいると聞いていたのですが、「やな」はありましたが、残念ながらその漁は見られませんでした。またこの島の南端、カンボジア国境近くでは、ピンクの川イルカが生息しているのですが、今回はそこへは行きませんでした。
島から岸に移って今度はコーンパペンの滝に行きました。またしても、オーっという大パノラマ。その規模、高さ15m、幅300m。何故か坊さんたちと若い娘が遊んでいました。

③ の3.いかだみたいなフェリーボート 









ところで岸から島へ渡るのは、小さなフェリーボートです。車が6台乗ったら一杯ですが、大型バスも乗っけちゃう。人の渡し賃はめっちゃ安いのですが、車は一回3ドルくらいと高めです。しかし近いうちに岸から(大)コーン島へ、中国が援助して橋をかけるそうです。ちなみに日本はすでにラオスで橋を一本かけていて、小学校などもたくさん寄贈しています。さてこのフェリー、ちょうどタイミングが合うと待たずに渡れますが、それは運しだい。
一度二十分ほど待ちました。渡し場に何軒か屋台のような店があって、雑貨や軽食を売っています。日曜日だったので、小学校5年生くらいの女の子が店を手伝っていました。彼女チェッという名前ですが、恥ずかしがり屋で写真を撮ろうとするとすっと隠れます。何度も撮りそこない、ひょっと顔を上げた所を相棒がキャッチしました。隣にいるポッチャリした娘さんはもっと内気なのか、最初からこっちを見ようともしません。チェッが僕らにお菓子をくれたり、僕らがデジカメの画面を見せたりして仲良くなりました。ちょうど出発の時チェッはお客さんの相手をしていて、内気な方(はずかしがり)のポッチャリちゃんが超はずかしそうに、腰の辺りで小さく手を振ってくれました。その後も何度かここを通ったのですが、学校に行っているのでしょう。二人とは会いませんでした。

 ③ の4.ラオスのファランたち

 

   さてラオスでは十一月は冬ですが、日中の日差しは強く、30℃を軽く超えているが、空気はカラッとして心地よい。そして日が落ちるとぐんぐん冷えてくる。ラオスのホテルはどこも禁煙が徹底していて、タバコはバルコニーで吸ったが、その寒いこと寒いこと。セーターを着て上着をつけて、それでも風が吹くと寒い。ラオスを旅行する外国人はお隣のタイ人は別にして、ラオス語でファランと呼ばれるフランス人が圧倒的に多い。しかし本当にみんなフランス人なのかな。自転車で旅行していたひげ面の若い2人組は、話してみたらスペイン人だったが、自分たちをファランと言っていた。フランス人旅行者は2組に分かれる。バスで団体行動をする、ほとんどが夫婦の老人達。彼らは象のようにゆっくり動き、食事のときもおとなしい。もう一組は若いバックパッカーたち。いかにも金がなさそうな連中だが、舟の中で歌い出したりして元気が良い。女の子も多い。この連中はホテルではなく安いゲストハウスに泊まる。一泊2ドルが最低で普通は4~5ドルします。
   メコン川は多摩川の三十倍はでかい。水はゆったりとうとうと流れ、両岸は緑の木々がうっそうと茂り、土手の上には道が通り、家や畑や小さなお寺があり、川辺には魚を取る網が仕掛けられ、夕陽や朝日で川に光の道が出来ると、うっとりするほど美しい。そこには静かな人間の営みがあります。漁師のお父さんは男の子を乗せた小舟で漁に出ます。メコンにはゴミひとつ浮いていないし、両岸には看板ひとつない。家も余りありません。

  ③ の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫





   さて、この南ラオスの旅行中のガイドが面白かった。カンボジアのガイドさんは皆さん真面目で一生懸命だったし、遺跡の知識もハンパじゃなかったが、彼は相当いいかげんでした。第一言っていることがよく分からない。あと博物館で展示品をペタペタ触って説明するの、止めてくれる。
「ラオス人、(顔は)きれいでない。でもこれ(顔を撫で回すしぐさ)何ですか。スマイル。これがきれい。」→これは分かる。でもきれいな人だっているだろ。
「昔はね。フランスの軍人、xxxx→意味不明、これ、ここ、ココナッツの木多い。これは本当ですよ。」→フランス人がココナッツの木を植民地時代にたくさん植林した。
「私の友達、飛行機に住んでますよ。」→私の友達が航空会社に勤めています。
「明日モケーの村行きます。いいですか。」→木彫りの装飾品を作っている村でした。
  彼は日本語こそへたでしたが、超愛想の良い青年で、ファランでも村人でも、特に女の子にはめちゃくちゃ話しかけ世話を焼いていました。小コーン島の食堂の娘さん、ノッさんは日本語を勉強したいという、しっかりしたお嬢ちゃんで外国人を相手に物怖じせず、英語も少し話します。高校1年くらいかな、と思いガイド君に「ノッさんはいくつ位かな?」と聞いたら、ンーと考え「十一歳?」と言いやがった。もういい。お前には聞かない。そんな彼がビックリした事がある。「日本では年間3万人は自殺しているよ。」彼は絶句してしまった。「なぜ?なんで?なんで?」「まあ心の病気、借金、人間関係、ラオスではどうなの?」「ウーン、そういえば何年か前に大学に落ちて自殺した青年がいました。」
この国の人はお金が無くても心は豊かです。ゆったりした微笑みを浮かべ、ちょっとしたことでも両手を合わせ会釈しながらひざを折り、コープチャイ(ありがとう)。枕に小銭をはさんでおいても(ベットメーキングの人へ)受け取らない。犬や猫も元気です。タイの犬のように皮膚病にかかってベチャッとしていないで、胸を張って歩いています。猫がまた実によい。コオロギを狙ってすり足で近づいていた時、ちょっと声をかけたら、その姿勢のまま「何ですか?」と顔を真横に向けてきた。下の川で漁師が杭を打っていると、「何んだろう」とテラスから顔を出してのぞく。仕草が堂々としていて、姑息なところが無い。またやたらと人なつこくて撫でてもらいにすり寄ってくる。人の荷物の上で寝る。朝食堂に、口から小鳥の脚が出ているのを自慢げに見せにくる。相棒は大きなカエルをくわえているのを見ました。あァまだ亜細亜にこんな素朴な国が残っていたんだ。五十年前のタイやマレーシアもこうだったんだろうな。それより明治の頃の日本の農村は?
 
  ③ の6.モン族の悲劇

けれども良いことばかりとは言えない。解放前のこの国の内戦(王党派=親米派、対 パテート・ラーオ=共産勢力・現政権)は激しく、アメリカ軍は、当時の北ベトナムから南の解放区への補給路(通称ホーチミンルート)がラオス、カンボジアのジャングル地帯を通っている(ルートの9割はラオスの山野を走る。)のを遮断するため、猛烈な空爆を行いました。その量たるや実に二百万トン。第二次世界大戦で、アメリカ空軍が欧州と太平洋戦線に落とした爆弾の量と同じで、しかも空中で無数の子爆弾に分裂するクラスター爆弾が使用されている。ベトナム戦争当時、この子爆弾にお菓子に似た包装をつけていたりした。戦争はいやなものです。カンボジアでは地雷ですが、ここでは不発弾が無数に埋まっていて、今でも多数の人が犠牲になっています。
ラオスの山岳民族の中で最大のモン族は頭がよくて勇敢、忠誠心の強さからフランス軍が積極的に兵士として教育し、特殊任務に採用した。その部隊のディエンビエンフーでの生き残りはアメリカ軍に引き継がれた。その結果パテート・ラーオ政権の元で国にいられず難民となってアメリカ等へ渡りました。しかし物事はそう単純ではない。モン族の中でも部族間の対立があり、パテート・ラーオ軍(政府軍)の一翼もモン族の兵士が占めていた。何しろ勇敢な連中なのです。その結果、当時のモン族の若者の半分は死んだと言われる。
1968年のサイト85の戦いでは、数十人のアメリカ人を守り脱出させる為、北ベトナム正規師団の重包囲の中、千人のモン族兵士が捨て石となり、共に脱出した数十人を残して全滅し、八人のアメリカ兵を生還させました。「サイト85」はモンの聖山のひとつ、プー・ファティ(『岩山』の意)にレーダーサイトを設置したもので、GPSがなかった時代にアメリカ空軍の戦闘爆撃機をレーダー誘導していたのですが、「テト攻勢」に呼応して越境した北ベトナム軍部隊によって攻め落とされた。この戦いはアメリカにもベトナムにも正式な記録はありません。ベトナム側は戦時下とはいえ、主権を侵して正規部隊を進入させた事実を敢えて公表したくはないし、アメリカ側はそもそもラオスに米兵は一人もいないことになっていたからです。戦闘の終了後、アメリカ軍はB52による爆撃で証拠を消し去りました。
クリント・イーストウッド主演・監督のしぶい映画『グラン・トリノ』はその亡命したモン族の人たちとアイリッシュの頑固ジイさんの話しですね。良い映画ですよ。映画で思い出しましたが、『もののけ姫』の中で、アシタカがタタラの村に着いた時に言うセリフ、「良い村は女が元気だと聞きました。」モン族でもラーオ人でも、この国では女が元気です。良い国の証拠ですね。


























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ラオス紀行~仏陀のいとし児の住まう国-1

2014年12月19日 18時11分45秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国



目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

①旅の始まり

 アジアの片田舎シリーズの第二段。今回の主役はラオス。え、「らおす」って何?それって国の名前ですか?7~8人の若い衆に聞いてみたが、正確に分かった者はいなかった。「ベトナムのラオスですね。」惜しい!でも何かい。それじゃあ、日本は中国の日本なのかいな。「国旗が日本に似ている国。でもどこにあるのか分からない。」「アフリカ?あっヨーロッパ」「何?キャバクラですか?」一番傑作だったのは、「小○君、ラオス行こうぜ。」「❘❘❘❘北海道ですか?」「ウハ、お土産は昆布ね。」自分が理解出来ない言葉に遭遇して相手の発音のせいにし、❘❘❘❘秒の間に強引に「羅臼」に置き換えた小○君の根性に脱帽。
 ラオスは、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに囲まれた海無しの国。面積は日本の本州位で(カンボジアより大きい)人口は約六百万人だから、横浜市程度か。十四世紀のラーンサーン王国(『百万頭の象』の意)から、十九世紀末にフランスの植民地となり大戦中一時日本軍が占領したが、終戦と共にフランスが戻った。そのフランスがベトナムでホーチミン率いる解放軍に敗戦、撤退。アメリカの介入、アメリカのベトナムでの敗戦、撤退。共産勢力(パテート・ラーオ)による首都、ビエンチャンの無血解放、今日に至る。ラオスは社会主義国です。一時は仏教を禁止して僧侶を還俗させたりしたが、今は観光に力を入れ欧米では旅行の隠れた人気スポットになっています。とはいえベトナム、タイ、そしてアンコール・ワットのあるカンボジアに比べれば、観光客は五十分の一か百分の一じゃなかろうか。ラオスでは相棒(前回と同じ親父)を除いて、日本人には一人も会わなかった。一度街で日本語を聞いたのみ。さて、微笑みの国ラオスに旅立つ前に、カンボジアに立ち寄ったので少々お付き合いを、よろしく。

②カンボジア編













2.の1.カンプチア アゲイン

 僕らは再びシェムリアップ空港に着いた。出迎えてくれたのは、かわいらしいガイドのルームちゃん。彼女が送り迎えを入れて4日間ずっとついてくれたから、おじさん達幸せ一杯のカンプチア(現地発音)旅行になった。ドライバーは耳が立派につっ立った、背の高い実直そうな中年男性でしたが、彼はなかなかの曲者でかなりの飛ばしや。運転には相当ヒヤヒヤさせられました。彼の名前は、最初にルームちゃんに聞いたら、「えーと、何だっけ」という事でそのままになった。
 さて前回は2008年3月に来てアンコール・ワットを訪れ、その美しさに感動したのですが、当時はリーマンショック、株価暴落の兆しはなく、シェムリアップの街は大型ホテルとアパートの建設ラッシュで忙しく、泊まったホテルのロビーはお迎えを待つ観光客で座る所がない盛況振りでした。今回は様変わりしていて、同じホテルのロビーはガラガラ。遺跡ではなくゴルフに行く親父がチラホラしているだけで、その為アンコール・トムの第一回廊がたっぷり楽しめました。その浮き彫りですが、いくつか紹介したいと思います。


a. 闘鶏。現在でも盛ん。男たちを熱くする。闘犬も。





b. 出産のシーン



c. 将棋に興じる人



d. 行軍。



e. 湖上を進撃してきたチャンパー軍。歩兵は半そでジャケット、半ズボン。頭巾を垂らした兜をかぶり、手に楯と槍を持つ。





f. クメール軍に雇われた中国人外人部隊の行進。



g. 調理のシーン。ブタを茹で、バナナを焼く。



h. 対チャンパー戦争に勝利し、アンコール・トムを作った大王、ジャヤヴァルマン七世は后が逝去したときに、その姉を次の后とした。二人とも大変聡明な女性でした。写真のどちらが姉か妹か忘れた。



i. 観世音菩薩の四面塔














2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)















 この遺跡は山の上を流れる清流の中にあります。遺跡までの小登山は結構きつかった。朝早くから登山を始めたので、この遺跡も貸切り状態なのかと思ったのですが、九時十時と時間がたつうちにフランス人の団体等が次々に登ってきて、下りはかなり待たされました。むき出しの硬い大きな岩が地面からたくさん出ていて、場所によっては両手を使って登る所もある。乾季の今は川の水量は少なく水は澄みきっていて、川底の千本リンガがよく見えます。ルームちゃんは何度も来ているが、落ち葉が水面を覆っていたり、水量が多くて濁っている時もあるそうです。山の頂に滝があり、川の中の岩にヴィシュヌ神が掘られています。千年近く昔に彫られたのに、鮮やかに残っています。
この山からの眺望は素晴らしく、濃淡のある、滴るような緑一色の熱帯雨林が眼下一面に広がっています。山の木々も珍しいものが多い。それにしてもルームちゃんは、長そで、マフラーをして汗ひとつかかない。「私汗かかないんです。汗をかかないのは体によくないのではないでしょうか?」どうなんだろ。汗だく親父には分からない。
 ふもとの駐車場にやっとたどり着き、三人で拍手。休憩、そして昼食。ここに来た時にTシャツを売っていた娘たちが、山から下りてきた我々を見てワッと集まってきた。日本語で、「お兄さん、カッコいいね。」「私のこと、覚えてる?ネーお兄さん」買わずに振り切ると、「今日は仕事にならないヨー」よく見るとかわいらしい少女達です。昼食の弁当に入っていたクッキーをあげると、遠慮したりして初々しいじゃありませんか。新しい外国人がやって来るとワッと走り出す。様々な国の言葉をかける。英語、フランス語、韓国語。けれども昼食が終わるまでにTシャツは一枚も売れませんでした。

 2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)











 ガイドのルームちゃんは、仕事で来日し東京の三鷹で一年間暮らしたそうです。「日本の人、カンボジアを知らない。でもアンコール・ワットは分かる。」とちょっと悲しそうに話していました。けれどもクメールの遺跡は、アンコール・ワットだけではない。隣にあるアンコール・トムは別にして、熱帯雨林の中に、アンコール・ワット級の遺跡があと5つあり、辺鄙な場所では補修がなされずに朽ち果てるままに放置されています。

a.ソンボール・プレイ・クック(コンポン・トム州)
   ここは前回訪問。7世紀からの古い、前アンコール時代の遺跡。

b.ベン・メリア(『東のアンコール・ワット』)今回訪問。
   ベン・メリアは、アンコール・ワットのミニチュア版といえる仏教寺院で、碑文が発見されていない謎めいた遺跡。

 c.  断崖寺院、プリア・ヴィヘアとピマイ寺院(『タイのアンコール・ワット』)
ここはタイから行ったほうが便利。現在はタイVSカンボジア軍の紛争があり危険。
ピマイ寺院はタイ国内、ピマイ市の中心部にある。

d. パンテアイ・チュマール(密林に消えた巨大遺跡)
アンコール・ワットの北西150キロ、タイとの国境まで二ニキロ。ジャヤヴァルマン七世により建立された平面展開の仏教寺院。放置されて数十年、何ら保護活動がなされていない。行けないこともないが、地雷と強盗団にはご用心。


e.コンポン・スヴァイの大プリア・カーン(王道に沿ってベン・メリアの北60km)
ここに行くのは観光の範疇から外れる。ガイドさんも行ったことがない。雨季には道が無くなる。アンコール時代最大の寺院。(広さはアンコール・ワットの四・七倍)

   さて、『東のアンコール・ワット』と呼ばれるベン・メリアを訪れました。アンコール・ワットから昔の『王道』に沿って東へ40km。意外とちゃんとした道路で、耳の立派なドライバーがビュンビュン飛ばして一時間弱で到着。観光客はぐんと少ないが、ここは割と簡単に行けます。お堀の石橋を渡り、ナーガの立派な彫像で始まる参道を抜け、境内に入る。この遺跡は相当崩壊していて、タ・プロムのような巨木ではないが、細かい枝が石に食い込み、鉱物と植物が融合した世界を築いている。前回の旅行記で木が石を侵食しているように書いたが、逆に崩れるのを食い止めているケースもあります。タ・プロムには今回も行きました。 
ベン・メリアの浮き彫りには見るべきほどの物はないが、遺跡の周囲の大木が日陰を作り、また遺跡も陰影を持っていて美しい。陽だまりの石の上に細長いヘビがとぐろを巻いていました。死んでいるのかな、と思い近づきましたが、ルームちゃんから注意されました。「気をつけて下さい。ここにいるヘビは、ほとんどが毒を持っています。」

 2.の4.トンレサップ湖









   この湖を訪れるのも2度目ですが、今回は十一月中旬、前回の三月末が渇水期なのに比べ、九月末迄に降った雨季の水がまだ大量に残っているはずです。前回とは違い、車で船着場まで行く道路が舗装されていて快適です。この国のインフラはみるみる内に整っていく。ありました。水量が多いため、森が丸ごと水没しています。木々の先端だけが水上に出ていて、ボートが湖に広く点在しているらしく、混み合った感じがしません。湖上生活者の船群は遠くにいるのでしょう、ほとんど見えませんでした。
今は琵琶湖の十五倍ほどの大きさがあるはずで、まるで海かノアの洪水の跡。前回と同じ水上レストランに行ったのですが、僕らが船に上がる時に、ちょうど子供3人が乗った手漕ぎボートがやってきました。みすぼらしい服を着た小学校4年生位のおとなしそうなお姉ちゃんと、パンツ一丁の弟、幼稚園くらいのちびちゃん(妹)の3人です。自分が船に乗り移ったら後ろでボコっという音がして、振り返ると弟が両手を頭に当て目を見張り、顔中で痛いよーと訴え、ビエーと泣き出しました。ん、なんだ。どうしたん。ちょうど後から上がってきた相棒が一部始終を見ていたのですが、弟がお姉ちゃんに何か言い、怒ったお姉ちゃんがオールをサっと弟の頭上十五センチの所に構え、また弟が憎たれ口をたたき、お姉ちゃんがオールを持った手を本当に離し、オールは弟の頭直撃、ボコっ、ビエー、という構図なわけ。この兄弟は後でタライ舟に乗って「ワンダラー」「ワンダラー」とやっていました。

 2.の5.ガイド列伝



   前回の旅行でお世話になった2人のガイドさんを今回指名したのですが、2人とも退職していました。今回は会えないものと思っていたところ、生まれてから一度もビールを飲んだことのないソッキさんは、3ヶ月前に第一子の男の子が生まれていた。彼女は別のガイドの会社に移っていたが、かなり年下と思われるダンナさんが、元の会社(我々が使った、ルームちゃんのいる会社)でやはり日本語のガイドをやっていたので、持参したお土産をたくしました。
   先生との恋に悩む青年、ソトム君はやはり別の会社に移りガイドを続けていました。たまたまホテルのロビーで会いました。先生の彼女とはうまくいっているようで、その事はみんなが知っていた。良かったね。もう悩んでないのね。皆さんたくましく暮らしています。ルームちゃんは若いお嬢さんだから、ビールも飲むし、今回はポル・ポト時代の話はほとんど出なかった。景気は悪くても、ホテルのフロントのお兄さんはたくましく、小遣いかせぎでトュクトュク(バイタクシー)を呼び、ホテルにマッサージルームが出来たのにもかかわらず、宿泊客に外のマッサージを斡旋し、ホテルのそばには二十四時間営業のコンビニもどきが出来ていた。
  この国の子供たちは毎日元気に登校している。雨季で水が溜まった時、ルームちゃんのお父さんは、家からボートを出して子供たちを学校に送ったそうです。自分は世話になったガイドさんにチップはあげないが、日本から菓子折りを持っていく。しかしたいがいこの国の人のありがとう(オークン)は素っ気ないものだ。でもルームちゃんに百円ショップで買った万華鏡をあげた時は面白かった。興味津々でしばらく上の空でした。アジアで女の子と子供と仲良くなりたかったら、百円ショップに行くべし。
最後に夕飯の時、ルームちゃんが相棒の顔(頭)を見て言いました。「お客さん、帽子を取ると本当にお坊さんみたい。」「ん?これってほめられてるの?」ルームちゃん、それ日本では言わないほうがいいかも。









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アンコール・ワットとメコンデルタ紀行ー2

2014年12月19日 16時57分03秒 | アンコール・ワット
(目次)
1.26年越しの宿題

2.相棒のこと

3.アンコール遺跡群
3-1.アンコール・トム
3-2.アンコール・ワット
-3.タ・プロム
3-4.パンテアスレイ
3-5.サンボール・プレイ・クック
3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
3-7.トンレサップ湖

4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
・ビールとガイドさん
・とっけーの話し
・慈母観音の微笑み
・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
・沙羅双樹の花のいろ
・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋

 4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
・食べ物のはなし
・バスのなか、1コマ

5.メコン・デルタの舟旅

6.禁断の5時間エステ







4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
 この国は高地でコーヒーの収穫があります。町にはコーヒーショップがよくあり、ホットコーヒーは金属製のドリップ、アイスコーヒーは決まって25cm程のやけに細長いコップに入ってくるので、飲みにくいったらありゃしない。おまけに底の5cmくらいは濃い砂糖の溶液になっていて、なんぼなんでも甘すぎ。
 ベトナムの缶コーヒーをスーパーで買いました。一缶30円ほどでした。朝起きた時に飲もうと思い、冷蔵庫で冷やしておいたのですが、一口飲んでいっぺんに目が覚めた。恐るべし、ベトナム缶コーヒー。砂糖が飽和状態にまで溶かし込んである。もうコーヒーなんてもんじゃない。「なんだ、こりゃ!」残りは捨てようかと思ったが、生来の貧乏性が待ったをかけ、我慢して全部飲んだ。口の中の虫歯菌共が歓喜の雄たけびをあげ、歯ぐきはうずき、胃は朝から砂糖汁で満たされた。









・食べ物のはなし
 外国を旅するとよく「食べ物はどうだった」、と聞かれるのですが、この旅では実際のところどうだったんだろう。ホテルの朝食はどこもバイキング方式で、カンボジアで食べたものは中華が多かった。野菜はニンジンもカリフラワーも、空芯草も歯ごたえがあって味が濃くうまかったし、特にチキンが肉のうま味が出ていて好かった。卵は意外と日本と変わらなかった、ように思う。
 カンボジアでもベトナムでも他のアジア諸国と違って、あまり辛いものは食べない。日本人には親しみやすいと思う。最も自分は辛いもの好きですが。
 ベトナム料理はいろいろ食べましたよ。メコン川で取れた大きなドジョウ、バイ貝くらいある、でかタニシ、象の耳の形をしたエレファントフィッシュは、から揚げの身をほぐして香草と併せて生春巻にし、ニョクマムのたれにつけて食べました。メコンの魚は淡白でした。ベトナム名物フォー(米粉ウドン)は、それだけでは味がなく、一緒に入れる調味料で味つけする。その加減が分からず、ウドンをお湯で食べているような感じで残念でした。
 果物は、この時期スイカがおいしかった。大きな丸型で黒いのですが、薄く緑のスイカ模様が入っているような外見です。龍眼が旬でしたが、これは小さい実の方が甘くておいしい。直径15cmくらいのザボンを買って、ホテルの部屋で一人で食ったのですが、ナイフが無かったため、指で皮をむくのにザボンと格闘しました。これはおいしかった。
 最後にカンボジア名物、カボチャプリン。これは絶品。写真の通り、本物のカボチャの中にプディングが挟まれているのですが、中身より周りのカボチャの実がホクホクと甘くて、皮まで食べちゃいたい代物でした。カンボジアのカボチャはうまいぜ。

・バスのなか、1コマ
 ベトナム航空の帰国便は、東京も大阪も真夜中発、朝一に日本到着です。帰りは現地の旅行会社が、大きなバスでホテルを次々に回り、日本人客をピックアップして空港に送り届けます。ホーチミン市の日本人旅行者は、学生のような若い人達が多かった。その中の一組の、女の子とガイドのやり取り。
 「みなさん、お疲れさまでした。忘れ物はありませんね。」
「ハーイ、今ではないのですが、来た時に飛行機の中にマフラーを忘れてしまいました。」
「来たときというと4日、5日前ですネ。難しいですネ。」
「でも空港なんだから、お忘れ物センターとかあるでしょう。そこに問い合わせてもらえば。」
「お忘れ物、何?お忘れ物を集めるところ、お忘れ物センター、あー、ベトナムにはありません。」
「えー、そうなの。」
「来たときのガイドに言ってもらえれば、見つけられたかもしれませんが、今はねー、ベトナムではありませんヨ。」
「––––––––」















5.メコン・デルタの舟旅
メコン川はヒマラヤの雪どけ水を水源とし、中国、ラオス、カンボジアを経てベトナムでたくさんの支流に分かれ、南シナ海に流れ出ます。そのため、ここでは九龍川と呼ばれています。
メコン・デルタは豊穣の大地でした。植物の量も種類も、人も車も家も、カンボジアよりはるかに多く、牛までが肥えていた。自転車をこぐ女学生のアオザイの白さが目にしみる。太陽の光もふんだんで、女の人は何もそこまで、という程に日除け(長手袋、大きな帽子、目だけ出したギャングスタイル)をしていた。
このデルタの中の町、カントーに行きました。車でホーチミン市から6時間くらい、途中橋のない川はフェリー(乗っているのはバイクの大群)で渡ります。カントーに泊まった翌日は、夜明け前から半日舟に乗っていました。川の水は、お汁粉を薄めたような感じで、透明度は全くない。乾季でも水量は実に豊かで、ゴミとかは全然浮いていないが、机くらいの大きな金魚藻がプカプカ漂っています。水上マーケットに行きました。川の上に大きな船が2-30艘と、それを取り囲んで小さな舟が行ったり来たりしています。大きな船はたいてい家族で暮らしていて、果物や野菜の倉庫のようになっています。小舟はそれらを仕入れて小売に行くわけですが、売り物が何であるかを知らせるために、竹ざおを立てて、そこに本日の売り物を縛りつけています。川舟はどれも同じ形をしていて、先端に赤く、魚の眼の図柄が描かれています。動力は車の中古エンジンを積み、長い木の棒の先端にスクリューを取り付けた大変やかましい代物です。回転したスクリューを水に突っ込み、けたたましく暴走します。
カントーの水上マーケットには観光客がいず、川べりの家も含めてむき出しの生活が舟に座って見えます。物干し竿にさした、となりの奥さんの下着まで丸見え、といった生の舞台が川沿いに続きます。本流からそれて支流に入ると、流れもゆるやかになり、草木が生い茂り、水浴びをする子供たちが手を振り、ちょっとしたジャングル・クルーズといった趣きになって楽しいものです。無数の島々(中州)があり、教会があったり、市場や学校、田んぼや、あぜ道を通る人々を舟の中で、ちょっと低い位置から見上げる格好になります。動いているので、川面を渡る風も涼しい。その島の中の一つに果樹園があり、ジャックフルーツやパパイヤが実っていました。
ここで会ったホー・チ・ミンひげをはやした78歳の老人は、至って元気で片言の日本語を話します。ベトナムの三菱重工に数年勤めていたそうです。78歳なら、日本軍の仏印侵攻のときは何をしていたのかというと、ベトコン(抗日ゲリラ)だったそうです。タフネス。

6.禁断の5時間エステ
    ベトナム航空の帰国便は、関空も成田も深夜0時ごろ出発です。ホテルをチェックアウトした後、21時まで部屋を借りた場合は、交渉したのですが1日分の料金が掛かってしまう。まあ無理もないか。ホーチミン市は町中バイクだらけで、歩道は駐輪場となり、ロッテリアに入ったらバイク屋か、お前は、と思うぐらい店内一杯にとまっていて、カウンターにたどりつくのにバイクをかき分けかき分け。市場へも行ったし、博物館も見たし、国営デパートは2時間で飽きた。ブランドショップは向こうからお呼びでないよ。甘いコーヒーを飲んでも9時間はつぶれない。以前なら映画でも見たところですが、今はDVDの普及で映画館がすっかり寂れていて、国産の化け物映画くらいしかやっていません。
    そこで思いついたのがエステ、それも思いっきり時間の長いコースで、出発までの午後を楽に過ごそう、と考えたのですが、いったいエステって何するの?男でもいいの? ガイドブックを見て日本人のあまり行かなそうなところに、ドキドキしながら電話しました。おじさんは禁断の道に踏み出した。
    「あのー、そちらはスパ&エステ?」「ハイ、ソーデス」「あの、そちらはやっぱり、Lady Onlyとか?」「そんな事はありません。」とSusanはやけに明るい声でキッパリ。コースとか料金とかをテキパキと説明してくれ、あっという間に明日の予約とお迎えを約束させられました。「あの、でも本当に男でもOKなんでしょうか?」「ノープロブレム」翌日、相棒も二つ返事でOKしたので、おじさん達はエステの受付でSusan(結構年いってました。)から日本語のパンフを受け取り、まさかネイルケア、マニキュアは外してもらって、後はお任せの5時間、130ドル、禁断コースにいきなり突入しました。
    この殴りこみの前に、相棒と愚息に、「いいな、これはエステなんだからな。感違いするなよ。絶~対に勃つなよ。」と言い聞かせたのは言うまでもありません。
    白衣のお嬢さんに案内され、こぎれいな個室に入り、パンツ一丁になった。体にタオルケットを乗せられ、頭をタオルできつく縛るのですが、生来のでか頭のせいで、最後にぎゅっと折りこむところで、タオルがパッと開いてします。お嬢さんあわてず、もう一回縛りなおし、ぎゅっと折りこみパッと開く。4回やり直したところで、お嬢さんもさすがに意地になり、思いっきり締め付けて頭の皮がよじれてギューギュー言い出したところで、やっととまった。おじさん心底ホッとした。一時はどうなることかと、身も心も細る思いで、体を一寸法師のように縮めたのに、頭蓋骨がいうことを聞かず、こら、こら、もちろんその後は、頭をそよとも動かしませんでした。
    最初はざらざらするものを、顔を除く全身にゆっくりゆっくり塗りこめられ、顔にはパックをされました。部屋は薄暗くヒーリングミュージックがゆったりと流れ、何やらよい香りがします。半分まどろみながらもう終わっちゃうの、と思っている内に2時間近くたっているじゃあ、ありませんか。アラー不思議、お風呂につかって甘いレモンティーを飲み、今度は全身オイルマッサージです。気色えーなー。温かい小石を2つ、背中でゆっくりと滑らし、それが曲線を描いて触れ合う度に、カチッ、カチッと鳴ります。
    そこまで終わって服を着て休憩。硬いフランスパンにはさんだチキンのサンドイッチを食べました。チキンは香草を入れニョクマムをまぶしてあり、ベトナムの味がしました。最後は首から肩にかけてのマッサージと、髪の毛のケアでした。最初のマッサージをやってくれたお嬢さん達は、私服になって帰宅していきました。チップを要求することもなく。
    相棒は、クリリン、天津飯系統の髪型なので、ここはアッという間に終わってしまって手持ち無沙汰。自分も首のマッサージがかなり痛かったので、最後はもういいや、という感じで5時間のエステは終わったのですが、やれやれと言って首を撫でたらビックリ、つるつるしているじゃあありませんか。手の甲もつるつる。スネ毛も無くなっちゃってる。最初のザラザラは脱毛だったんですね。まっ、脱毛はともかく、2人ともおじさん大満足の5時間でした。

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