旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街-1

2014年12月22日 14時03分09秒 | トルコ紀行
     目次

トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

・旅の始まり
・カッパドキア
・地下都市
・陶器工場と絨毯屋
・洞窟住居

○ イスタンブール編

・モスク(ジャーミィ)巡り
・アヤ・ソフィア
・ブルー・モスク
・スュレイマニエ・ジャーミィ、リュステム・パシャ・ジャーミィ、その他
・ジャーミィ秘話
1.第一話:ダチョウの卵 2.第二話:音響効果 3.第三話:スス、炭、カリグラフィー 4.第四話:スィナンの残した修復マニュアル
・地下宮殿
・コンスタンチノープルの陥落
・トプカプ宮殿 *ハレムのこと

○ トルコ編

・セリミエ・ジャーミィ
・トルコ料理
①豆のスープ ②ケバブ ③ヨーグルトのサラダ ④胡麻パン ⑤ お菓子
・トルコの国旗
・お終いに


トルコ紀行~イスタンブールは猫の街

○ カッパドキア編

旅の始まり

 皆さんご機嫌よう。お構いねぐ。初めての方も、前回(ラオス、仏のいとし児の住まう国)前々回(アンコール・ワットとメコン・デルタ紀行)の読者の皆さんもメルハバ(今日は)。
 以前の旅も観光旅行で、今回はそれに輪をかけた観光の旅、行き先も辺境シリーズから外れたメジャーなトルコ共和国です。食い足りない面はあるかもしれないね。でも苦手なプレゼンを克服してオリンピック招致に成功した日本が、六回連続して落選した気の毒なトルコちゃんに、余裕を持ってエールを送るのにはちょーどよい。
 それにトルコを訪れる観光客は多い順に1位ドイツ、2位ロシア、3位イギリス、4位フランス、5位アメリカで、日本はなーんだ、三十三位。ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブールの旧市街を歩くと、日本人はずいぶん目に入るが、郊外に行くバスターミナルやエディルネの町では一人も見なかった。2位のロシアは、黒海を渡って地続きみたいなものだから、今日はドライブがてらテーブルクロスでも買いに行こうかしらの、がてらかしら族が多いと思われる。ドイツとトルコの仲は、第一次世界大戦の同盟国。自分が自動車部品の仕事をしていた時にドイツの工場に行ったら、トルコ人の労働者が男女共に多いこと。ここはトルコの工場ですか?あとパリでもロンドンでもイスタンブールは近いもんね。東京から札幌に行くようなもんさ。
 今回の旅の相棒はMyカミさん。彼女は体は小さいが山登り、マラソン、ジムで鍛えている上に、こちらの弱点は百も承知だから手強い。おマケにここは男女逆転して超方向音痴の自分と違い、一度歩いた道を忘れない。歩くガイドブックか、と突っ込みを入れたくなるほど、「地球の歩き方」を頭に入れていて、適当なスケジュールを許さない。おかげでずいぶん真面目な観光をさせられました。トホホ。

 カッパドキア













 カッパドキアの中心都市はギョレメで、ギョレメは最近までマッチャンと呼ばれていた。トルコ語って変ですか?水はsuス、お茶はÇaiチャイ、良いがYiイイ、かまいません(気にしていません)がオネムリデーイル。
 気をつけなくてはいけないのは母音でiはイだが、Iは「イ」の口をして「ウ」と発音する。従って有名なTOPUKAPI宮殿はトプカプ宮殿です。自分はてっきりトプカピ宮殿だと半世紀も間違っていた。トルコ語の発音は難しくはない。ガイドブックのトルコ語の表示を見せてネレデ(どこ)?と聞けば道を教えてくれる。スーパーで雑貨コーナーに行き、コロンヤ(香水おしぼり)ネレデと言えば、店員のきれいだが無愛想なお姉さんが面倒くさそうに棚を指さす。ちなみに一般のトルコの人は英語が分からない人が多い。日本と同じだね。ただ特に男性は異常なほど親切な人が多くて、駅などで立ち止まって回りを見渡すと、何?道が分からないの?俺に聞いて、聞いて、教えてあげたいったらありゃしない、といった顔をして2-3人が立ち止まって待っています。こんな国も珍しい。

  カッパドキアはアナトリア高原の中央部に広がる奇岩地帯。数億年前にエルジエス山(3,916m)が噴火し、火山灰と溶岩が数百mずつ積み重なり、凝灰岩と溶岩層になった。その後気が遠くなるような歳月をかけて風雨による浸食が進み、固い部分だけが残されて不思議な形の岩となりました。
 カッパドキアのガイドは超真面目で笑顔の無いビル(三十代、二人の子持ち)と、いつもニコニコ若いのに腹の出てきたドライバー、その名もオスマン。お客は初日は我々二人だけで、次の日は大阪から来たお姉さん(と言うにはギリだが)が加わり三人。この人とはイスタンブールでも一日一緒になった。
 見学はギョレメの洞窟教会群から始まった。暑い。そして乾燥している。
 さて、ここに着くまでにトルコ航空で成田~イスタンブール、十二時間。ヨーロッパよりは二時間短い。イスタンブールで国内線に乗り換えたら、空港で空き時間が二時間あったので、ファストフードのハンバーガー屋へ行きました。空港では何でも高い。パン一ヶで三百円も四百円もします。ファストフードも高いので、ポテトの小とドリンク(自分で選んで入れる)だけを頼んだが七百円もしました。量は多かったけど日本の三倍じゃん。時間は十九時過ぎで夕陽が赤く燃えて地平線に沈んでゆく。カウンターの兄ちゃんは何だかえらく楽しそう。ポテトを取りに行く時、勢いをつけて床を滑って遊んでいるし、鼻歌なんぞフンフンやっている。それはまあよろしいのだが、あんた要領悪すぎ。ビジネスマンが、自分の前に頼んだハンバーガーセット3-4ケを出すのに優に五分はかかっているが、急ぐ気配は全くない。散々待たされ高いポテトセットを受け取ると、カミさんが「ああ残念。たった今、夕陽が沈んじゃった。地平線にそのまま落ちていったんだよ。」
 カッパドキアにあるカイセリ空港に着いたのは二十三時頃、今回の旅を通じてトルコの空港での手続きはどこも大変スムーズでした。空港から洞窟ホテルまで行く車の中で、明日からの予定等を話しあっていると、一ヶ月前に予約を取り消したバルーン(熱気球)が予定されているので慌ててキャンセル。「何でキャンセルしたの?」と聞かれたから、「値が高い。日程がきつい。事故があった。」と答える。日本からの連絡が行っていないはずがない。全く困ったちゃんである。ところがそれで一件落着とはいかなかった。翌早朝、ホテルの部屋がノックされバルーンの兄ちゃんが迎えにきた。ええかげんにせんかい。ただみんな、キャンセルされてもちっとも怒ったりいらいらしたりはしていない。イムシャアッラー→神の御心の欲するままに。

 カッパドキアのことを初めて知ったのはいつだろう?高校生くらいかな。ローマで異端とされたキリスト教徒が逃れてきて、イメージとして核戦争後の世界で、迷路のような地下シェルターを作り蟻のように暮らしている。
 このイメージは、一部は当たっているが大半は間違っていた。世界遺産カッパドキアは、自然が造り上げた標高千mを越す高原地域で、住んでいたのはキリスト教徒、修道僧だけではなく、紀元前二千年ヒッタイトの時代から通商路の要地として栄え、四世紀前後からキリスト教の修道士が凝灰岩に洞窟を掘って住み始めた。
 彼らは洞窟内の天井や壁に見事なフレスコ画を残した。キリストの昇天、受胎告知、聖ジョージによる蛇退治等々、ギョレメ谷には三十以上の岩窟教会が、主に十二-十三世紀にかけて作られた。岩をくり貫いて作られた長テーブルのある食堂・礼拝堂の入り口付近には必ず2-6ケの墓穴が掘ってあり、そこを通らないと中へは入れない。その内のいくつかにはデモンストレーションとして人骨が横たわっている。赤ちゃん用の小さな墓穴もある。いかに乾燥地帯とは言え、これほど死と隣り合わせの生活を送っていたとは。
 フレスコ画は光の差し込む部分ほど風化が進み、目の部分を削った破壊、落書きの跡もあるが、質量ともに素晴らしい。中には画学生による稚拙な練習フレスコ画があって、ここで生活をしていた人々の息吹を感じる。カッパドキア随一の広さを持つ教会で十世紀後半に描かれたフレスコ画は、特に青の色に深みがあって美しい。

















 地下都市













 カッパドキアにいくつもある(中心部の地図だけでも六つ)地下都市の一つにもぐった。ここデリンクユの地下都市は地下七階、地上から六十m下まで掘られている。中には地下十九階まである地下都市があるそうだ。デリンクユでは四万人が暮らしていたと言うから凄いな。トイレなんかどうしていたんだろう。この地下都市の発祥や歴史は良く分かっていないが、紀元前四百年頃の記録にすでに残っているそうだ。それってイエス・キリちゃんの前じゃん。とにかくハシゴ段を降りる、降りる。登ってまた降りる。人一人で目一杯の狭い通路を抜けると広場に出て、そこは礼拝堂や学校の教室に使われていた。他に台所、倉庫、家畜小屋、岩のベット、井戸、吹き抜けの底なしの通気孔。ところどころに敵の侵入を防ぐため、2m位の輪切りのタクワンを巨大化したような形の石が、ストッパーを外すとゴロンと転がり、反対側に設けた窪みにピタっとはまって道を塞ぐ装置が用意されている。ってちゃんと止めとけよな。今でも直ぐに使えそうじゃん。電気は点いているが、広場をつなぐ通路は暗くて、背をかがめひざを折って歩く。ガイドがいなけりゃどこをどう歩いているのか分からない。前後左右、上下斜め上、下の感覚が激しく攪拌され方向音痴にはこたえる。閉所恐怖があったら死ぬね。アリの生活も楽じゃない。牛なんか子牛の時に中に入れたら、大きくなって狭い通路は通れない。一生太陽は見られないね。いやー地上に出た時はホッとしたが、この後3-4日筋肉痛で足が痛かった。それにしてもどれだけ地上は恐ろしい所だったんだろうか。抜剣した騎馬隊が走り廻っていたんだろうか。

 陶器工場と絨毯屋










 
 旅のスケジュールに陶器工場と絨毯屋が入っていた。これがね、両方とも見応えがあったんだ。まずは陶器。偶像崇拝を排除したイスラム教なので、図案は植物を抽象化し鮮やかな原色を巧みに組み合わせた、いわば色彩のカクテルとでも言おうか。ここで作られた大皿は美しい。顔料には水晶の粉を混ぜているそうだ。中にはホタル石を砕いて混ぜたものもあり、それは暗くすると発光してちょい不気味。
 一方絨毯。絨毯って不思議な漢字だよね。陶器工場にも絨毯屋にも、日本語が異常にうまいお兄さんがいて、ジョークを混ぜて熱心に見物させてくれたが、飯茶碗二個しか買わないしょーもない客でした。絨毯なんぞ買う訳がない。百年保つ貴重で高価な絨毯。日本に帰って敷く場所がないっしょ。
 広い部屋の低いソファに座って、惜しげもなく次々に広げられる絨毯を見比べていると、高価な物ほど美しい。目の保養ってこのことか。目に美人は良いが、絨毯だってなかなかだ。シルクの絨毯は日の当たる角度によって、色が次々に変わってゆく。その絨毯をぐるっと一周すると何通りにも楽しめる。本当にきれいだ。値がはるのもうなずける。普通の絨毯は、農村の娘さんがお母さんに教わって、お嫁に行く前に一枚は仕上げたといいます。
 絨毯、キルト、陶器、ガラス工芸、こういった伝統のある手工業が根付いている国はいいね。歴史と文化の重みを感じる。後は建築。夢のように美しいモスクだが、それはイスタンブールに行ってのお楽しみ。 

洞窟住居









 最後に洞窟住居を紹介しよう。現在カッパドキアは世界遺産となり、新しく洞窟を掘ったり住んだりする事は禁止されています。けれども何世代にも渡ってそこに住んできた人達は別だ。そんな家を一軒を訪ねました。皆さんの中で、風穴とか何とか洞とかに入ったことのある人がいたら分かるでしょう。洞窟の中は年間を通して温度がほぼ十四度Cに保たれていて、夏は涼しく冬は暖かい、とか案内に出ていたりするよね。そう、洞窟は意外に快適なんだ。ここカッパドキアは千mを越える高地にあり、冬はマイナス十六度、数年前には最低気温マイナス二十二度を記録しています。降水量は少ないが積雪地帯で、この洞窟住居の冬の写真が雑誌に載っているのを見せてもらったが、雪に覆われた家の中から蒸気が白い煙となってもうもうと出ていていかにも寒そうでした。
 部屋は洞窟内にいくつもあって、地下ケーブルで電気も来ている。床には暖かい絨毯が敷かれ壁にキルトが掛かっている。棚なんか掘ればいくらでも出来るのだから冬仕事にはもってこいだ。住まいが傷むこともこりゃ百年ないね。汚れたらちょっと掘っちゃえばよい。何年/何百年前から住んでいるのか聞き忘れたが、何世代にも渡って拡張してきたんだろうね。チャイをごちそうになり、一部屋でお土産を売っていたので、カミさんが布製のバックを二つ買ったが、一つ千円位でイスタンブールよりずっと安かった。ここに住むおばあさん(といっても息子が二十歳ほどだから、ひょっとすると我々より若いのかもしれない)がニコニコしてずっと付いてきたが、残念話しは通じない。何より良かったのがバルコニーで、高さ二十mほど、絶壁の下から三分の一くらいの所が堀り込まれ丸木の手すりが付いている。そこに長イスが置かれ、陽が差し込んでいる。眼下の入り口の花壇とごく小さな果樹園が箱庭のように見え、廻りは見渡す限りの奇岩群、ここを吹き抜ける風の心地よさったらたまらない。一日このバルコニーの長イスに横になって昼寝をしたり、好きな本を読んだり出来たらもう何もいらねー。

 カッパドキア観光は範囲が広大で変化に富んでいます。百mの断崖絶壁に挟まれたウフララ渓谷を下まで階段で降りて冷たい清流に沿って二キロほど歩くハイキングは、景色がきれいで途中にある洞窟教会の壁画は素晴らしかった。けれども観光客の多い割には地元の住民が少ない。主要な観光スポットは決まっているから、ガイドとドライバーは、他のガイドや土産物の人達と毎日のように顔を合わせています。僕らが休憩したり、土産を見ている時にはガイドのビルはいつも知り合いと男どうしでハグし、ほおを寄せて挨拶をして出されたチャイを飲む。一体一日で何杯飲むんだ。何でこんな屋台みたいな店なのに直ぐに熱々のチャイが出てくるんだ。
 トルコのチャイはミルクを入れない。ちょっと煮出し過ぎじゃない、といった濃い紅茶をたいてい高さ8㎝ほどのグラスに入れ、小さな受け皿に載せて提供されます。まあこれなら小さいから何杯飲んでもお腹がガバガバになることはない。チャイは香りが良いが、うちのカミさんはちょっときついと言って旅の途中からアイラン(トルコ風ヨーグルトドリンク、さっぱりして程良い酸味)に切り代えました。自分も水牛のミルクが入って甘い、印度のチャイの方が好きだな。























 
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ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国-3

2014年12月22日 13時45分36秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
 

④北ラオス編

 ④ の1.ルアンパバーン



































ルアンパバーン(旧名、ルアンプラバーン)は1995年、ユネスコによって町全体が世界遺産に登録されました。この町は、ビエンチャンに移るまでこの国の首都でした。小さな町には八十もの寺があります。一六世紀に建てられたワット・シェントーン(美しい屋根が特長)、ワット・イスナラット、ワット・マエ等には大勢のお坊さんが住んでいて、修行をしています。町の中心にルアンパバーンを一望できる高さ150m(海抜700m、階段328段)の小山(プーシーと呼ばれる。)があり、頂上にはお寺があります。そこから見ると、この町がメコン川とナムカーン川が合流する所に作られているのがよく分かる。夕暮れ時、町の家々は長い影を落とし、遠くの丘にある黄金色のパゴタが夕陽に輝くころ、夕食の支度をする白い煙があちらこちらから上がり、子供たちが遊び疲れて家路につく。そんなたそがれ時の、華やいだ人の声が風に乗って丘の上へフッと上がってきます。小山の上の狭いスペースは夕陽見物の観光客で一杯です。
さて陽も落ちて丘から降りると、あらら、街が一変しています。静かな通りだった所が、一面縁日のような路上店舗街に変わっている。このにわか市場は車道、歩道を全てふさいで2列、売り手はほとんど全員が女性で、モン族、カム族、アカ族等の山岳民族。売っている商品は衣料品、布地、バック、土産の小物類。デザインの優れた美しい布がランプの光に照らされて美しい。大胆な色使い、部族固有の伝統ある文様。売り手のモン族の少女(店長)はラーオ人と違って照れたりせず、逆にこっちが照れちゃうほどまっすぐ見つめてきて、値引きの駆け引きもなかなかに手厳しい。ラーオよりモンの方が日本人的な顔立ちで頭良さそう。で、どちらもかわいい。
夜市には、ファランがたくさん来ていてワクワクするような活気があります。僕らも土産品と防寒用の上着を買いました。さらに横丁の路地には焼き鳥、焼き魚等の屋台が並んでいた。四十センチくらいの魚は臭みがなく、タイのような味でした。焼き鳥はウメー、これは絶品。日本の鶏肉が食えなくなる。ラオスの国産ビールは2つ。ビアラオとタイガービールですが、ほとんどがビアラオ。これがまた良い。タイ、カンボジアのビールより数段上等でしかも安い。大ビンで8,000キープ(約九十円)、缶と小ビンもあります。小ビンでは、普通のビールの他に黒ビール(アルコール度6.5度)もある。なんで輸出しないんだろ。

④の2.ニンニンハウス





















ルアンパバーンからノーンキャウを経てムアンゴイ村へ行き一泊しました。ノーンキャウまでは車で3時間半、ノーンキャウからムアンゴイへは乗り合い舟で1時間。ガイドのテッさん(この人の日本語は会社の若い衆より立派)が、『山紫水明』と形容していた通り、ナムウー川(メコンの支流)の両岸は水際から木の茂った緑の山また山。ナムウー川の澄んだ水は、山と山の狭間を静かに流れています。両岸は太古からの自然がありのままに残っていて美しい。水は深い緑色で所々急流になっている。川の中に砂州や小島があり水の流れに変化を与えている。山の形は舟が進むにつれ次々にその姿を変え、空は深く蒼く澄み、様々な形をした白雲が宙に浮き、刻々とまたその形を変える。水牛が川辺で憩い、岸近くに魚を取る網が仕掛けられ、川沿いの斜面に細竹で囲われた小さな畑が見えるが、岸には人の姿が見えない。舟の中はひざを互い違いに立ててやっと腰を下ろすほど狭いが、大半はフランス人の若者で途中からギターを爪弾いて歌い始めた。
僕らの前には姉妹なのでしょう。よく似たこの土地に住む2人の女性と赤ちゃんがいて、この赤ちゃんがまた人なつっこい。でも途中でぐずり出したら、お母さんが服をまくっておっぱいをやり始めた。お母さんでない方の娘さんにとっては、この赤ちゃんは姪なのでしょう。もうかわいくてしょうがない、といった風情でチューして抱っこして、最後まで離しませんでした。
ムアンゴイの住民は山岳民族の人たちで、ニンニンハウスのニンニンはゲストハウスの長女の名前でした。最初ミンミンハウスと間違え、誰に聞いても場所が分からず困った。ちなみに次女はトーニャ。小学校4年と2年くらいの元気な姉妹で、僕らの食事時の給仕は彼女達が実に楽しそうにやるので、すっかり仲良くなりました。お母さんは美人だがきつい感じで、お父さんはやさしそう。村の舟着き場に長い石の階段があり、水際ではいつも誰かが洗濯をしている。川にひざまでつかって前かがみになり、髪を洗っている女の子もいます。石鹸はどしどし使っていますが、大きな川の流れはその程度の汚れ、ものともしません。
                           
④ の3.ムアンゴイ村散策









ムアンゴイ村にはかなり立派なお寺があり、ここにレース用の細長いボートが格納されていました。このボート三十四人乗りで村対抗のボートレースで使われます。ルアンパバーンのワット・シェントーンにもありました。これは興奮するだろうな。村の名誉、男たちの意地が懸かっているんだから。ボートレースは祭りのメインイベント。娘たちも着飾るのかな。ごちそうもたくさん出るんだろう。
ムアンゴイで漁師を雇い、釣りに行ったのですが、川の中の真っ白い砂州に上陸した。川が大きく蛇行して流れがよどんでいる。水面に岸の木々の影が差していて、いかにも釣れそうな雰囲気はあったのですが、ルアーを投げても投げても、全くアタリが無い。一時間で止めました。エンジンのない小舟で、漁師の青年は上流を目指して櫂を漕ぎ、岸近くでは長竹を川底に差して小舟を押し出し、流れの速い所ではついにパンツ一丁になり、胸まで川の中につかって歩いて舟を押す。水は割りと冷たいので、これは大変です。行く時には三十分はかかったのですが、帰りは流れに乗って十分もかかりませんでした。現在のエンジン付きのボートが出来る前は大変だったことでしょう。増水期はさかのぼれなかったと思う。
ムアンゴイには自動車道路が通じていません。川からしかこの村へは行けない。十九世紀にこの地方を探検し、アンコール・ワットを欧州に紹介したフランスの博物学者、アンリ・ムオの墓はラオスにあるのですが、象とボートを乗り継いだその旅は、さぞ苦労したことでしょう。しかしムアンゴイ村には見たことのないきれいな蝶が舞っていたから、学者にとっては宝の山なんだろうな。彼は熱病にかかりこの地で果てるのですが、案外その最期は、土地の人たちに親切に看病されたのではないでしょうか。そう思いたいですね。彼の本を読んでその人柄が好きになりました。この村には電気が来ていないので、夜だけ自家発電をしていましたが、村の明かりはほとんど無いに等しいため満天の星を期待したのですが、山霧か薄雲かに覆われて見えなかったのが残念です。

④ の4. パラボラアンテナ







   この国を車で走ると、2つの事に気がつきます。空がきれい。雲がきれい。ではなく、人工的なものですが、相当な奥地でも、山の中でも電線が通じていること。またメコン川でも他の川でも長い電線を川の上に渡しています。電線は、通過する舟にその存在を知らせるゴムボールのような目印をつけています。
それと家々の庭にあるパラボラアンテナです。風が吹けば吹っ飛びそうなボロ家でも庭には立派なアンテナが置いてある。これは中国製で一万円ほどするそうです。これを一度買えばタイのホームドラマやムエタイが楽しめる。ケーブルTV もありますが、こちらは毎月お金がかかるから、お金持ちでないと入れない。ラオスで一番人気のある仕事は公務員で、月給は最初の3年間は六十ドル、その後百ドルになり、民間の会社に勤めるガイドさんの月給は六十ドル位です。けれども百ドルはするパラボラアンテナが無数に売れている。中国人が最初にこの国で売り始めた時は、宝の山を掘り当てた気分だった事でしょう。
ちなみに外国人が始めて日本に来て驚くことは、自分の経験では二つ。最初は、空港を出て直ぐの道路沿いに立ち並ぶ異様な建物群について。エッフェル塔に自由の女神、「なんじゃい、あれは」あれはラブホというもので、と説明すると、涙を流して大笑い。日本人好きねー。さてもう一つは自動販売機の数の異常な多さ。まあそれだけ治安が良いのでしょう。ラオスも治安が良いせいか、お巡りさんと軍人を空港以外では、全く見なかった。
TVの話しですが、ラオス語とタイ語は方言くらいの差なんです。特に東北タイとラオスではさほど違わない。ラオスの放送局はドラマを作るほどの予算と実力はないので、ラオスではみんなタイのドラマを見ます。従ってタイ人はラオス語が分からなくても、ラオス人はタイ語が分かる。バーベキュー屋の娘達もドラマに夢中で注文を聞いていない。

④.の5 ボーペンニャン

 ケ・セラ・セラって知っていますか?タイ語でマイ・ペン・ライは?まあ、南国の言葉で、意味は「成るようになるさ」とか、「あせってみたってしょーがないでしょ。気楽にいこーよ。」「Take it easy! Let it be!」「明日は明日の風が吹く、ドンマイ」なんてところでしょうか。スペイン等ラテン系の国でよくマニャーナ(明日)とやられますが、マニャーナが怠惰な空気を持っているのに対し、ボーペンニャンには突き抜けた明るさがあります。許容、寛容の精神です。あと執着しない心ですね。同じ意味の言葉がカンボジアでは、「アンパニアン」ラオスでは「ボーペンニャン」です。僕らも旅行中、小さなトラブルに会う度にボーペンニャン。パクセーからルアンパバーンに行く飛行機が、理由も知らされずにビエンチャン空港に降り、飛行機を乗り換えて2時間遅れてもボーペンニャン。ホテルでお湯が出ず、仕方なく水でシャワーを浴びてもボーペンニャン。この言葉、仕事で取引先に聞かされたら腹が立つかもしれないが、自分で口癖にすると毎日が楽しくなってくる。日本語には無いね。およそ正反対の社会だもんね。二十四時間戦う競争社会では、このような言葉は害毒になる。ボーペンニャンには仏教の諦観、無常観、輪廻転生の教え、しょせんこの世は仮の宿、といった意識があるような気がする。でもそんな事、どうでもボーペンニャンかも。

④ の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!













  ルアンパバーンで僕らは見事にだまされた。この町の名物は八十もある寺からあふれ出るお坊さんの朝の托鉢。これは見過ごせないぜ、というわけで早起きし、5:20にホテルを出て、通りかかったトュクトュクに乗ってワット・シェントーンへ行った。ガイドブックに、この寺の近くが一番行列が多いと書いてあった。ところが到着すると真っ暗で誰もいやしない。トュクトュクの運転手も、いいのこんな時間に、ここで、という風情でした。たくさん着込んでいたので寒くはないが寂しいこと。お寺だってまだ寝てるじゃん。コーヒー飲みてー。けど自販機があるでなし。二十分ほど待っていたら、町の中心の方で人がチラホラしだしたので、そちらへ移動を開始。途中で親切なおばさんに会い話しをする。
そのおばさん、なんと自分たちが用意した薄敷(ゴザ)に僕らを座らせてくれた。そんな敷物一枚でも石畳の冷たさを遮断してくれる。おばさんは僕らに大きなざるを持たせ、通常よりずっと大きなもち米のバスケット、モンキーバナナ、ビスケットを山のように盛り上げ、ハスの花を持たせた。お坊さんが来たら、もち米を小さくちぎり、バナナかビスケット(小袋入り)をセットで渡すんだよ、と言っている(言葉は分からないが、大きなジェスチャーで分かる。)おばさん何て親切なんだ。自分たちが用意したお供えを外国人の僕らに渡しちゃっていいの。でもそれはとんでもない誤解だった事が、坊さんの列が動き始めた時に分かった。「ファイブダラー」「ファイブダラー」ここが勝負と、おばさん形相が変わっている。声も2オクターブ低くなりドスが入った。『金取るんかい!』托鉢の列は延々と続き、僕らは食物の供給作業に熱中した。『手洗ってないんだけど。』それどころじゃあない。しばらくして面倒くさくなり、もち米だけ、バナナだけを鉢に入れていたら、「それじゃ駄目。両方入れろ。」とうるさい。早く終えて写真を撮ろうとしたら、別の太ったおばちゃんがタタタとやってきて、ほとんど空になったザルにバナナをドサドサ入れる。止めろ。止めろ。もう終わるんじゃい。この2人のおばちゃんに金をむしり取られ(ラオスの紙幣でゴソっと根こそぎ、それこそ一枚残らず取られた。但し総額三百円ちょっとだったのを知っている。)あと1ドル札を数枚渡してやっとこさ開放。相棒は、『こいつのほうがガードが甘い。』とすかさず見て取ったオバン2人に左右から詰め寄られアップアップになっている。回りを見れば他のオバン軍団に取り込まれたファランが憮然として座っていた。うかつだった。ラオスでなかったらもっと用心していたに違いない。 
「1ドル札以外あげちゃ駄目だよ。」と言い捨て、あっさり相棒を置き去りにして走った。ガイドブックには書いてあったけど、ここははずれじゃん。お坊さんのオレンジ軍団の行進は、町の中心の方が多い。やってる。やってる。こちらでは真面目に寄進をする町の人がたくさんいて、お坊さんは鉢がもち米で一杯になっている。逆にお坊さんの列の前に大きな鉢を置いて手を合わせている子供たちがいる。するとお坊さんが自分の鉢からもち米をちぎって子供たちの鉢に次々に入れていく。かわいらしい女の子の鉢に、一番小さな小坊主がトトトっと走っていって、自分の鉢からソフトボール大のもち米をゴソッと入れた。珍念さんみたいな小坊主はあの子が好きなんだろうな。この制度はいいな。貧しい子供たちはこれを家に持ち帰って家族みんなで食べるんだな。もち米おいしいもんね。
朝の托鉢は、ムアンゴイ村でも見ましたが、この村のお坊さんは総勢でも十五名程度。差し上げている村人も七~八人で素朴なものでした。

④ の7. 野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ









 ラオスの食事はおいしかった。ニンジン、じゃが芋、ブロッコリー、青菜に蓮根といった野菜に歯ごたえがあって味が濃く、しみじみうまい。小さなダイコン、竹の子もあります。あと鶏肉、卵がまたおいしい。こっちのニワトリはえらそうに胸を張って夜でも鳴いているだけのことはある。ステーキを食いました。何せ牛、ブタ、チキンが同じ値段なので、僕らとしてはどうしてもステーキをたのんでしまうんですね。うまかったし量もでかいし、突き出しのポテトフライもおいしい。でもその後、今日は牛肉が無い、というケースが多かった。あの草の上で休んでいる年寄り牛もそうそう殺される訳にはいかないのでしょう。
 ラオスの主食はもち米です。こちらの言葉でカオ・ニャオといいます。縦長、円筒状の竹で編んだフタ付きのバスケットに入れて蒸します。お赤飯のプレーンバージョンで、手でちぎって食べる。もち米の田んぼはたくさんありましたが、時期的に収穫を終えたばかりで、脱穀作業をしていました。普通の白いお米はカオ・チャーオ、パン(フランスパン中心)はカオ・チーといいます。パンもいけますよ。
  旅行中毎日よく歩いたし、朝はたいてい食べ放題、くだものも一杯(スイカ、マンゴー、ジャックフルーツ、パパイヤ、マンゴースチン等等)あっておいしい、おいしいと食べ続けた結果、帰国して銭湯に行ったら三キロも太っていた。これはまずい。カミさんには黙っていよ。変わったところでは、ドライバーが頼んだオカズのネズミを食べてみたが、味付けが濃くてネズミの肉の味がよく分からなかった。ラオスコーヒーは、うーん今いち。

⑤番外編~ハノイの足うらマッサージ









楽しい旅行も最終日。この日は象さんツアーを申し込み、照葉樹林の中の小道や浅い川の中を象に乗って1時間半ほど散歩し、夕方ベトナム航空に乗ってハノイへたちました。ガイドさんに、急に飛行機がタイ航空に代わったりしますよ。と言われていたが何事もなく、ルアンパバーンを出てほぼ定刻十八時ごろハノイに着いた。さすがにこの空港はでかくて、土産物もラオスの百倍はあります。ですがここで日本へ出発する便(00:05)を6時間待たなければならない。ベトナム航空がくれた夕食券で食べたミートソースはひどい代物でした。ゆですぎた麺がトマトスープに浮いていた。時間つぶしをする所はフットマッサージくらいしかない。映画館でもあれば良いのに。この店朝8時から深夜2時までやっているそうです。料金は20分8ドル、30分12ドル、60分16ドルだったかな。三十分コースを申し込みました。なかなかにかわいいベトナム娘がそろっています。
  自分についた女性は(指名制ではない。)ちょいと年増のお姉さん。お湯に岩塩を入れた器に、足を入れて清めた後、お姉さんがマッサージを始めました。彼女に限らず、ここで働くお姉さん達は英語があんまりしゃべれない。そういう人と勘を働かせてコミュニケートするのは割りと得意なので、彼女と意気投合して楽しい時間が持てたけれども、いかんせん片言会話で三十分は長い。
  それよりもなーんて気持ちいいんだろう。足うらマッサージは日本で1、2回受けただけだが、その時の経験ではかなり痛いものだった。ここでは痛みはちょっとだけで、オイルを塗ってふくらはぎにまでするマッサージが実に心地よい。半分ほど時間が過ぎた頃、日本人の親父が入ってきた。五十代後半位でメガネをかけ長身痩せ型。
濃紺色のスーツにアタッシュケース。現地合弁工場に視察と打ち合わせにでも来たんだろうか。店長のような男性がシステムを説明するが、よく解っていないもよう。やおらスーツを脱ぐと、あららワイシャツまで脱いじゃった。フットマッサージだよ。さらにズボンを脱いだ(普通はめくるだけ)。この暑い国でステテコをはき、前でボタンを留めるテキ屋のおっさんみたいなシャツを着ている。店長が足を入れる器をセッティングしていると、唐突に「レディー、レディー」と叫びだした。店長がマッサージをすると思ったらしい。子供っぽい女の子がおそるおそるステテコ親父のマッサージを始めた。すると親父「Can you speak English?」を連発。女の子がビビッて小さな声で、pain?(痛くありませんか?)とか、How do you feel?(いかがですか?)とか言っているのに親父には全く通ぜず、「English English」と吠える。
   自分のところの姉御肌が助け舟を出し、「後十分したら自分が代わります。」と話しかけても全く聞いていない。どうやら親父は英語が全く聞き取れないらしい。いやーこの先どうなるのかな、と思ったが自分はステテコを残してタイムアップ。本当に丁寧で気持ちのよいマッサージでした。
 
   さて、この一文を読んでちょっとラオスに興味を持った諸君。ラオスに関連する本を3冊紹介するから、よかったら読んでみて下さい。


一、集英社文庫、椎名誠 『メコン・黄金水道をゆく』
二、幻冬舎文庫、たかのゆりこ 『モンキームーンの輝く夜に』
三、KKベストセラーズ 高野秀行 『極楽タイ暮らし』
(これはタイ人気質に関する本だが、ラオス人もほぼ同じ)

アジアの仏教徒が静かに暮らす国、ラオスは資本主義の基準からすれば最貧国なのだろうが、大らかで純粋な心を持つ人々が住まう自然の豊かな国でした。また訪れたいと思います。この国に惚れました。


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ラオス紀行~仏陀のいとし児の住まう国-2

2014年12月19日 18時15分54秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
 

③南ラオス編


③の1.ラオスヘ、ワット・プー













 朝シェムリアップを発ち、小さなジェット機で南ラオスのパクセーへ。ラオ航空のCAは独特な観音さま顔で(浅田真央ちゃんとも違う)、んっ、これは期待できるかも。ですがこの期待はおおむね裏切られました。自分は二十九年前、タイのチェンマイの北のチェンライ、さらにそこから山の中を北上してタイ・ラオス国境の難民キャンプで、自動車整備の学校の設立準備をやっていました。そのキャンプの周辺の食堂で働く娘さんたち(彼女たちは難民?それとも住民?最後迄不明)がとても可愛かった。声も高音で小鳥がさえずるようでした。でも彼女たちは低地ラーオ人ではなく、山岳民族の娘さんだったんですな。
   ともあれ、パクセーからラオス国内にあるクメールの遺跡、ワット・プーに行きました。これはまた立派な遺跡で世界遺産(2001年登録)。参道も立派。二つあるため池も立派。何しろこの池、ボートレースの会場になります。ここはヒンドュー教の寺院だが、現在地元の人々の信仰の対象となり、お祭りの時には村中の人がろうそくを持って集まるそうです。例によって相当急で幅の狭い石の階段です。頂上からはのどかな田園風景と森が見渡せます。『チャンパー』と呼ばれるラオスの国花(大きな木に白い花。ラオ航空の尾翼に描かれています。)が良い香りで、遠くでにわとりが鳴いている。空は澄み切った青空に白い雲。東京でも大風がスモッグを吹き飛ばした日の翌朝、澄んだ青空に富士山がくっきり浮かび出ることがありますが、それより2割増し青い絵の具を使っている。頂上でくつろぐと、心の底からゆったりしました。

 
③の2.大メコンの滝、四千もの川中島



























南ラオスでの2泊はメコン川の中の島、コーン(グ)島に泊まりました。この島20km x 8km。五千人も住んでいて、メコンのこのあたりの川中島の中で最大なのですが、島を歩き回らなかったので、その大きさは実感できなかった。ただコーン島(大コーン島)からコーン島(小コーン島)へ向かうメコンの舟旅の間に大小様々な島が次々に現れ、小さな島は無人で畑を耕しに昼だけ上陸するそうで、なるほどこれなら島が数千あっても不思議ではない、と思った。小コーン島は植民地時代(1910~1945,1946~1955年、途中の一年は日本軍の仏印進駐)にフランスが軽便鉄道を作って、ゴムやコーヒーの積み出しを行っていました。当時の橋はそのまま使われていますが、その一つは日本軍の空爆で破壊されています。この島をレンタル自転車で回り、リーピー(ソムパミットの滝)と呼ばれる滝を見物。その圧倒的な迫力に驚きました。見物している人は二十人に満たない。サギだろうか、真っ白い大きな鳥が滝の上をゆうゆうと飛んでいたのが印象に残ります。ここでは一日中網を構えて、滝から落ちてくる魚を狙う漁師がいると聞いていたのですが、「やな」はありましたが、残念ながらその漁は見られませんでした。またこの島の南端、カンボジア国境近くでは、ピンクの川イルカが生息しているのですが、今回はそこへは行きませんでした。
島から岸に移って今度はコーンパペンの滝に行きました。またしても、オーっという大パノラマ。その規模、高さ15m、幅300m。何故か坊さんたちと若い娘が遊んでいました。

③ の3.いかだみたいなフェリーボート 









ところで岸から島へ渡るのは、小さなフェリーボートです。車が6台乗ったら一杯ですが、大型バスも乗っけちゃう。人の渡し賃はめっちゃ安いのですが、車は一回3ドルくらいと高めです。しかし近いうちに岸から(大)コーン島へ、中国が援助して橋をかけるそうです。ちなみに日本はすでにラオスで橋を一本かけていて、小学校などもたくさん寄贈しています。さてこのフェリー、ちょうどタイミングが合うと待たずに渡れますが、それは運しだい。
一度二十分ほど待ちました。渡し場に何軒か屋台のような店があって、雑貨や軽食を売っています。日曜日だったので、小学校5年生くらいの女の子が店を手伝っていました。彼女チェッという名前ですが、恥ずかしがり屋で写真を撮ろうとするとすっと隠れます。何度も撮りそこない、ひょっと顔を上げた所を相棒がキャッチしました。隣にいるポッチャリした娘さんはもっと内気なのか、最初からこっちを見ようともしません。チェッが僕らにお菓子をくれたり、僕らがデジカメの画面を見せたりして仲良くなりました。ちょうど出発の時チェッはお客さんの相手をしていて、内気な方(はずかしがり)のポッチャリちゃんが超はずかしそうに、腰の辺りで小さく手を振ってくれました。その後も何度かここを通ったのですが、学校に行っているのでしょう。二人とは会いませんでした。

 ③ の4.ラオスのファランたち

 

   さてラオスでは十一月は冬ですが、日中の日差しは強く、30℃を軽く超えているが、空気はカラッとして心地よい。そして日が落ちるとぐんぐん冷えてくる。ラオスのホテルはどこも禁煙が徹底していて、タバコはバルコニーで吸ったが、その寒いこと寒いこと。セーターを着て上着をつけて、それでも風が吹くと寒い。ラオスを旅行する外国人はお隣のタイ人は別にして、ラオス語でファランと呼ばれるフランス人が圧倒的に多い。しかし本当にみんなフランス人なのかな。自転車で旅行していたひげ面の若い2人組は、話してみたらスペイン人だったが、自分たちをファランと言っていた。フランス人旅行者は2組に分かれる。バスで団体行動をする、ほとんどが夫婦の老人達。彼らは象のようにゆっくり動き、食事のときもおとなしい。もう一組は若いバックパッカーたち。いかにも金がなさそうな連中だが、舟の中で歌い出したりして元気が良い。女の子も多い。この連中はホテルではなく安いゲストハウスに泊まる。一泊2ドルが最低で普通は4~5ドルします。
   メコン川は多摩川の三十倍はでかい。水はゆったりとうとうと流れ、両岸は緑の木々がうっそうと茂り、土手の上には道が通り、家や畑や小さなお寺があり、川辺には魚を取る網が仕掛けられ、夕陽や朝日で川に光の道が出来ると、うっとりするほど美しい。そこには静かな人間の営みがあります。漁師のお父さんは男の子を乗せた小舟で漁に出ます。メコンにはゴミひとつ浮いていないし、両岸には看板ひとつない。家も余りありません。

  ③ の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫





   さて、この南ラオスの旅行中のガイドが面白かった。カンボジアのガイドさんは皆さん真面目で一生懸命だったし、遺跡の知識もハンパじゃなかったが、彼は相当いいかげんでした。第一言っていることがよく分からない。あと博物館で展示品をペタペタ触って説明するの、止めてくれる。
「ラオス人、(顔は)きれいでない。でもこれ(顔を撫で回すしぐさ)何ですか。スマイル。これがきれい。」→これは分かる。でもきれいな人だっているだろ。
「昔はね。フランスの軍人、xxxx→意味不明、これ、ここ、ココナッツの木多い。これは本当ですよ。」→フランス人がココナッツの木を植民地時代にたくさん植林した。
「私の友達、飛行機に住んでますよ。」→私の友達が航空会社に勤めています。
「明日モケーの村行きます。いいですか。」→木彫りの装飾品を作っている村でした。
  彼は日本語こそへたでしたが、超愛想の良い青年で、ファランでも村人でも、特に女の子にはめちゃくちゃ話しかけ世話を焼いていました。小コーン島の食堂の娘さん、ノッさんは日本語を勉強したいという、しっかりしたお嬢ちゃんで外国人を相手に物怖じせず、英語も少し話します。高校1年くらいかな、と思いガイド君に「ノッさんはいくつ位かな?」と聞いたら、ンーと考え「十一歳?」と言いやがった。もういい。お前には聞かない。そんな彼がビックリした事がある。「日本では年間3万人は自殺しているよ。」彼は絶句してしまった。「なぜ?なんで?なんで?」「まあ心の病気、借金、人間関係、ラオスではどうなの?」「ウーン、そういえば何年か前に大学に落ちて自殺した青年がいました。」
この国の人はお金が無くても心は豊かです。ゆったりした微笑みを浮かべ、ちょっとしたことでも両手を合わせ会釈しながらひざを折り、コープチャイ(ありがとう)。枕に小銭をはさんでおいても(ベットメーキングの人へ)受け取らない。犬や猫も元気です。タイの犬のように皮膚病にかかってベチャッとしていないで、胸を張って歩いています。猫がまた実によい。コオロギを狙ってすり足で近づいていた時、ちょっと声をかけたら、その姿勢のまま「何ですか?」と顔を真横に向けてきた。下の川で漁師が杭を打っていると、「何んだろう」とテラスから顔を出してのぞく。仕草が堂々としていて、姑息なところが無い。またやたらと人なつこくて撫でてもらいにすり寄ってくる。人の荷物の上で寝る。朝食堂に、口から小鳥の脚が出ているのを自慢げに見せにくる。相棒は大きなカエルをくわえているのを見ました。あァまだ亜細亜にこんな素朴な国が残っていたんだ。五十年前のタイやマレーシアもこうだったんだろうな。それより明治の頃の日本の農村は?
 
  ③ の6.モン族の悲劇

けれども良いことばかりとは言えない。解放前のこの国の内戦(王党派=親米派、対 パテート・ラーオ=共産勢力・現政権)は激しく、アメリカ軍は、当時の北ベトナムから南の解放区への補給路(通称ホーチミンルート)がラオス、カンボジアのジャングル地帯を通っている(ルートの9割はラオスの山野を走る。)のを遮断するため、猛烈な空爆を行いました。その量たるや実に二百万トン。第二次世界大戦で、アメリカ空軍が欧州と太平洋戦線に落とした爆弾の量と同じで、しかも空中で無数の子爆弾に分裂するクラスター爆弾が使用されている。ベトナム戦争当時、この子爆弾にお菓子に似た包装をつけていたりした。戦争はいやなものです。カンボジアでは地雷ですが、ここでは不発弾が無数に埋まっていて、今でも多数の人が犠牲になっています。
ラオスの山岳民族の中で最大のモン族は頭がよくて勇敢、忠誠心の強さからフランス軍が積極的に兵士として教育し、特殊任務に採用した。その部隊のディエンビエンフーでの生き残りはアメリカ軍に引き継がれた。その結果パテート・ラーオ政権の元で国にいられず難民となってアメリカ等へ渡りました。しかし物事はそう単純ではない。モン族の中でも部族間の対立があり、パテート・ラーオ軍(政府軍)の一翼もモン族の兵士が占めていた。何しろ勇敢な連中なのです。その結果、当時のモン族の若者の半分は死んだと言われる。
1968年のサイト85の戦いでは、数十人のアメリカ人を守り脱出させる為、北ベトナム正規師団の重包囲の中、千人のモン族兵士が捨て石となり、共に脱出した数十人を残して全滅し、八人のアメリカ兵を生還させました。「サイト85」はモンの聖山のひとつ、プー・ファティ(『岩山』の意)にレーダーサイトを設置したもので、GPSがなかった時代にアメリカ空軍の戦闘爆撃機をレーダー誘導していたのですが、「テト攻勢」に呼応して越境した北ベトナム軍部隊によって攻め落とされた。この戦いはアメリカにもベトナムにも正式な記録はありません。ベトナム側は戦時下とはいえ、主権を侵して正規部隊を進入させた事実を敢えて公表したくはないし、アメリカ側はそもそもラオスに米兵は一人もいないことになっていたからです。戦闘の終了後、アメリカ軍はB52による爆撃で証拠を消し去りました。
クリント・イーストウッド主演・監督のしぶい映画『グラン・トリノ』はその亡命したモン族の人たちとアイリッシュの頑固ジイさんの話しですね。良い映画ですよ。映画で思い出しましたが、『もののけ姫』の中で、アシタカがタタラの村に着いた時に言うセリフ、「良い村は女が元気だと聞きました。」モン族でもラーオ人でも、この国では女が元気です。良い国の証拠ですね。


























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ラオス紀行~仏陀のいとし児の住まう国-1

2014年12月19日 18時11分45秒 | ラオス紀行
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国



目次

①旅の始まり

②カンボジア編
2.の1.カンプチア・アゲイン
2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)
2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)
2.の4.トンレサップ湖
2.の5.ガイド列伝

③南ラオス編
3.の1.ラオスへ、ワット・プー
3.の2.大メコンの滝、四千もの川中島
3.の3.いかだみたいなフェリーボート
3.の4.ラオスのファランたち
3.の5.南ラオスのガイド君、自然体の猫
3.の6.モン族の悲劇

④北ラオス編
4.の1.ルアンパバーン
4.の2.ムアンゴイのニンニンハウス
4.の3.ムアンゴイ村散策
4.の4.パラボラアンテナ
4.の5.ボーペンニャン
4.の6.オー・マイ・ブッダ、だまされた!
4.の7.野菜、ステーキ、そしてカオ・ニャオ

⑤番外編 
番外編~ハノイの足うらマッサージ
 
ラオス紀行 ~ 仏陀のいとし子の住まう国

①旅の始まり

 アジアの片田舎シリーズの第二段。今回の主役はラオス。え、「らおす」って何?それって国の名前ですか?7~8人の若い衆に聞いてみたが、正確に分かった者はいなかった。「ベトナムのラオスですね。」惜しい!でも何かい。それじゃあ、日本は中国の日本なのかいな。「国旗が日本に似ている国。でもどこにあるのか分からない。」「アフリカ?あっヨーロッパ」「何?キャバクラですか?」一番傑作だったのは、「小○君、ラオス行こうぜ。」「❘❘❘❘北海道ですか?」「ウハ、お土産は昆布ね。」自分が理解出来ない言葉に遭遇して相手の発音のせいにし、❘❘❘❘秒の間に強引に「羅臼」に置き換えた小○君の根性に脱帽。
 ラオスは、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに囲まれた海無しの国。面積は日本の本州位で(カンボジアより大きい)人口は約六百万人だから、横浜市程度か。十四世紀のラーンサーン王国(『百万頭の象』の意)から、十九世紀末にフランスの植民地となり大戦中一時日本軍が占領したが、終戦と共にフランスが戻った。そのフランスがベトナムでホーチミン率いる解放軍に敗戦、撤退。アメリカの介入、アメリカのベトナムでの敗戦、撤退。共産勢力(パテート・ラーオ)による首都、ビエンチャンの無血解放、今日に至る。ラオスは社会主義国です。一時は仏教を禁止して僧侶を還俗させたりしたが、今は観光に力を入れ欧米では旅行の隠れた人気スポットになっています。とはいえベトナム、タイ、そしてアンコール・ワットのあるカンボジアに比べれば、観光客は五十分の一か百分の一じゃなかろうか。ラオスでは相棒(前回と同じ親父)を除いて、日本人には一人も会わなかった。一度街で日本語を聞いたのみ。さて、微笑みの国ラオスに旅立つ前に、カンボジアに立ち寄ったので少々お付き合いを、よろしく。

②カンボジア編













2.の1.カンプチア アゲイン

 僕らは再びシェムリアップ空港に着いた。出迎えてくれたのは、かわいらしいガイドのルームちゃん。彼女が送り迎えを入れて4日間ずっとついてくれたから、おじさん達幸せ一杯のカンプチア(現地発音)旅行になった。ドライバーは耳が立派につっ立った、背の高い実直そうな中年男性でしたが、彼はなかなかの曲者でかなりの飛ばしや。運転には相当ヒヤヒヤさせられました。彼の名前は、最初にルームちゃんに聞いたら、「えーと、何だっけ」という事でそのままになった。
 さて前回は2008年3月に来てアンコール・ワットを訪れ、その美しさに感動したのですが、当時はリーマンショック、株価暴落の兆しはなく、シェムリアップの街は大型ホテルとアパートの建設ラッシュで忙しく、泊まったホテルのロビーはお迎えを待つ観光客で座る所がない盛況振りでした。今回は様変わりしていて、同じホテルのロビーはガラガラ。遺跡ではなくゴルフに行く親父がチラホラしているだけで、その為アンコール・トムの第一回廊がたっぷり楽しめました。その浮き彫りですが、いくつか紹介したいと思います。


a. 闘鶏。現在でも盛ん。男たちを熱くする。闘犬も。





b. 出産のシーン



c. 将棋に興じる人



d. 行軍。



e. 湖上を進撃してきたチャンパー軍。歩兵は半そでジャケット、半ズボン。頭巾を垂らした兜をかぶり、手に楯と槍を持つ。





f. クメール軍に雇われた中国人外人部隊の行進。



g. 調理のシーン。ブタを茹で、バナナを焼く。



h. 対チャンパー戦争に勝利し、アンコール・トムを作った大王、ジャヤヴァルマン七世は后が逝去したときに、その姉を次の后とした。二人とも大変聡明な女性でした。写真のどちらが姉か妹か忘れた。



i. 観世音菩薩の四面塔














2.の2.クバール・スピアン(『川の源流』の意)















 この遺跡は山の上を流れる清流の中にあります。遺跡までの小登山は結構きつかった。朝早くから登山を始めたので、この遺跡も貸切り状態なのかと思ったのですが、九時十時と時間がたつうちにフランス人の団体等が次々に登ってきて、下りはかなり待たされました。むき出しの硬い大きな岩が地面からたくさん出ていて、場所によっては両手を使って登る所もある。乾季の今は川の水量は少なく水は澄みきっていて、川底の千本リンガがよく見えます。ルームちゃんは何度も来ているが、落ち葉が水面を覆っていたり、水量が多くて濁っている時もあるそうです。山の頂に滝があり、川の中の岩にヴィシュヌ神が掘られています。千年近く昔に彫られたのに、鮮やかに残っています。
この山からの眺望は素晴らしく、濃淡のある、滴るような緑一色の熱帯雨林が眼下一面に広がっています。山の木々も珍しいものが多い。それにしてもルームちゃんは、長そで、マフラーをして汗ひとつかかない。「私汗かかないんです。汗をかかないのは体によくないのではないでしょうか?」どうなんだろ。汗だく親父には分からない。
 ふもとの駐車場にやっとたどり着き、三人で拍手。休憩、そして昼食。ここに来た時にTシャツを売っていた娘たちが、山から下りてきた我々を見てワッと集まってきた。日本語で、「お兄さん、カッコいいね。」「私のこと、覚えてる?ネーお兄さん」買わずに振り切ると、「今日は仕事にならないヨー」よく見るとかわいらしい少女達です。昼食の弁当に入っていたクッキーをあげると、遠慮したりして初々しいじゃありませんか。新しい外国人がやって来るとワッと走り出す。様々な国の言葉をかける。英語、フランス語、韓国語。けれども昼食が終わるまでにTシャツは一枚も売れませんでした。

 2.の3.ベン・メリア(『花束の池』の意)











 ガイドのルームちゃんは、仕事で来日し東京の三鷹で一年間暮らしたそうです。「日本の人、カンボジアを知らない。でもアンコール・ワットは分かる。」とちょっと悲しそうに話していました。けれどもクメールの遺跡は、アンコール・ワットだけではない。隣にあるアンコール・トムは別にして、熱帯雨林の中に、アンコール・ワット級の遺跡があと5つあり、辺鄙な場所では補修がなされずに朽ち果てるままに放置されています。

a.ソンボール・プレイ・クック(コンポン・トム州)
   ここは前回訪問。7世紀からの古い、前アンコール時代の遺跡。

b.ベン・メリア(『東のアンコール・ワット』)今回訪問。
   ベン・メリアは、アンコール・ワットのミニチュア版といえる仏教寺院で、碑文が発見されていない謎めいた遺跡。

 c.  断崖寺院、プリア・ヴィヘアとピマイ寺院(『タイのアンコール・ワット』)
ここはタイから行ったほうが便利。現在はタイVSカンボジア軍の紛争があり危険。
ピマイ寺院はタイ国内、ピマイ市の中心部にある。

d. パンテアイ・チュマール(密林に消えた巨大遺跡)
アンコール・ワットの北西150キロ、タイとの国境まで二ニキロ。ジャヤヴァルマン七世により建立された平面展開の仏教寺院。放置されて数十年、何ら保護活動がなされていない。行けないこともないが、地雷と強盗団にはご用心。


e.コンポン・スヴァイの大プリア・カーン(王道に沿ってベン・メリアの北60km)
ここに行くのは観光の範疇から外れる。ガイドさんも行ったことがない。雨季には道が無くなる。アンコール時代最大の寺院。(広さはアンコール・ワットの四・七倍)

   さて、『東のアンコール・ワット』と呼ばれるベン・メリアを訪れました。アンコール・ワットから昔の『王道』に沿って東へ40km。意外とちゃんとした道路で、耳の立派なドライバーがビュンビュン飛ばして一時間弱で到着。観光客はぐんと少ないが、ここは割と簡単に行けます。お堀の石橋を渡り、ナーガの立派な彫像で始まる参道を抜け、境内に入る。この遺跡は相当崩壊していて、タ・プロムのような巨木ではないが、細かい枝が石に食い込み、鉱物と植物が融合した世界を築いている。前回の旅行記で木が石を侵食しているように書いたが、逆に崩れるのを食い止めているケースもあります。タ・プロムには今回も行きました。 
ベン・メリアの浮き彫りには見るべきほどの物はないが、遺跡の周囲の大木が日陰を作り、また遺跡も陰影を持っていて美しい。陽だまりの石の上に細長いヘビがとぐろを巻いていました。死んでいるのかな、と思い近づきましたが、ルームちゃんから注意されました。「気をつけて下さい。ここにいるヘビは、ほとんどが毒を持っています。」

 2.の4.トンレサップ湖









   この湖を訪れるのも2度目ですが、今回は十一月中旬、前回の三月末が渇水期なのに比べ、九月末迄に降った雨季の水がまだ大量に残っているはずです。前回とは違い、車で船着場まで行く道路が舗装されていて快適です。この国のインフラはみるみる内に整っていく。ありました。水量が多いため、森が丸ごと水没しています。木々の先端だけが水上に出ていて、ボートが湖に広く点在しているらしく、混み合った感じがしません。湖上生活者の船群は遠くにいるのでしょう、ほとんど見えませんでした。
今は琵琶湖の十五倍ほどの大きさがあるはずで、まるで海かノアの洪水の跡。前回と同じ水上レストランに行ったのですが、僕らが船に上がる時に、ちょうど子供3人が乗った手漕ぎボートがやってきました。みすぼらしい服を着た小学校4年生位のおとなしそうなお姉ちゃんと、パンツ一丁の弟、幼稚園くらいのちびちゃん(妹)の3人です。自分が船に乗り移ったら後ろでボコっという音がして、振り返ると弟が両手を頭に当て目を見張り、顔中で痛いよーと訴え、ビエーと泣き出しました。ん、なんだ。どうしたん。ちょうど後から上がってきた相棒が一部始終を見ていたのですが、弟がお姉ちゃんに何か言い、怒ったお姉ちゃんがオールをサっと弟の頭上十五センチの所に構え、また弟が憎たれ口をたたき、お姉ちゃんがオールを持った手を本当に離し、オールは弟の頭直撃、ボコっ、ビエー、という構図なわけ。この兄弟は後でタライ舟に乗って「ワンダラー」「ワンダラー」とやっていました。

 2.の5.ガイド列伝



   前回の旅行でお世話になった2人のガイドさんを今回指名したのですが、2人とも退職していました。今回は会えないものと思っていたところ、生まれてから一度もビールを飲んだことのないソッキさんは、3ヶ月前に第一子の男の子が生まれていた。彼女は別のガイドの会社に移っていたが、かなり年下と思われるダンナさんが、元の会社(我々が使った、ルームちゃんのいる会社)でやはり日本語のガイドをやっていたので、持参したお土産をたくしました。
   先生との恋に悩む青年、ソトム君はやはり別の会社に移りガイドを続けていました。たまたまホテルのロビーで会いました。先生の彼女とはうまくいっているようで、その事はみんなが知っていた。良かったね。もう悩んでないのね。皆さんたくましく暮らしています。ルームちゃんは若いお嬢さんだから、ビールも飲むし、今回はポル・ポト時代の話はほとんど出なかった。景気は悪くても、ホテルのフロントのお兄さんはたくましく、小遣いかせぎでトュクトュク(バイタクシー)を呼び、ホテルにマッサージルームが出来たのにもかかわらず、宿泊客に外のマッサージを斡旋し、ホテルのそばには二十四時間営業のコンビニもどきが出来ていた。
  この国の子供たちは毎日元気に登校している。雨季で水が溜まった時、ルームちゃんのお父さんは、家からボートを出して子供たちを学校に送ったそうです。自分は世話になったガイドさんにチップはあげないが、日本から菓子折りを持っていく。しかしたいがいこの国の人のありがとう(オークン)は素っ気ないものだ。でもルームちゃんに百円ショップで買った万華鏡をあげた時は面白かった。興味津々でしばらく上の空でした。アジアで女の子と子供と仲良くなりたかったら、百円ショップに行くべし。
最後に夕飯の時、ルームちゃんが相棒の顔(頭)を見て言いました。「お客さん、帽子を取ると本当にお坊さんみたい。」「ん?これってほめられてるの?」ルームちゃん、それ日本では言わないほうがいいかも。









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アンコール・ワットとメコンデルタ紀行ー2

2014年12月19日 16時57分03秒 | アンコール・ワット
(目次)
1.26年越しの宿題

2.相棒のこと

3.アンコール遺跡群
3-1.アンコール・トム
3-2.アンコール・ワット
-3.タ・プロム
3-4.パンテアスレイ
3-5.サンボール・プレイ・クック
3-6.ジャヤヴァルマン7世の石橋
3-7.トンレサップ湖

4.旅のエピソード
 4-1.カンボジア編
・ガソリンのビン売り
・ビールとガイドさん
・とっけーの話し
・慈母観音の微笑み
・ホテルのこと ╴ シャワールームの惨劇
・沙羅双樹の花のいろ
・学校・田植え・スカーフ・ガイド君の恋

 4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
・食べ物のはなし
・バスのなか、1コマ

5.メコン・デルタの舟旅

6.禁断の5時間エステ







4-2.ベトナム編
・恐るべし、ベトナムコーヒー
 この国は高地でコーヒーの収穫があります。町にはコーヒーショップがよくあり、ホットコーヒーは金属製のドリップ、アイスコーヒーは決まって25cm程のやけに細長いコップに入ってくるので、飲みにくいったらありゃしない。おまけに底の5cmくらいは濃い砂糖の溶液になっていて、なんぼなんでも甘すぎ。
 ベトナムの缶コーヒーをスーパーで買いました。一缶30円ほどでした。朝起きた時に飲もうと思い、冷蔵庫で冷やしておいたのですが、一口飲んでいっぺんに目が覚めた。恐るべし、ベトナム缶コーヒー。砂糖が飽和状態にまで溶かし込んである。もうコーヒーなんてもんじゃない。「なんだ、こりゃ!」残りは捨てようかと思ったが、生来の貧乏性が待ったをかけ、我慢して全部飲んだ。口の中の虫歯菌共が歓喜の雄たけびをあげ、歯ぐきはうずき、胃は朝から砂糖汁で満たされた。









・食べ物のはなし
 外国を旅するとよく「食べ物はどうだった」、と聞かれるのですが、この旅では実際のところどうだったんだろう。ホテルの朝食はどこもバイキング方式で、カンボジアで食べたものは中華が多かった。野菜はニンジンもカリフラワーも、空芯草も歯ごたえがあって味が濃くうまかったし、特にチキンが肉のうま味が出ていて好かった。卵は意外と日本と変わらなかった、ように思う。
 カンボジアでもベトナムでも他のアジア諸国と違って、あまり辛いものは食べない。日本人には親しみやすいと思う。最も自分は辛いもの好きですが。
 ベトナム料理はいろいろ食べましたよ。メコン川で取れた大きなドジョウ、バイ貝くらいある、でかタニシ、象の耳の形をしたエレファントフィッシュは、から揚げの身をほぐして香草と併せて生春巻にし、ニョクマムのたれにつけて食べました。メコンの魚は淡白でした。ベトナム名物フォー(米粉ウドン)は、それだけでは味がなく、一緒に入れる調味料で味つけする。その加減が分からず、ウドンをお湯で食べているような感じで残念でした。
 果物は、この時期スイカがおいしかった。大きな丸型で黒いのですが、薄く緑のスイカ模様が入っているような外見です。龍眼が旬でしたが、これは小さい実の方が甘くておいしい。直径15cmくらいのザボンを買って、ホテルの部屋で一人で食ったのですが、ナイフが無かったため、指で皮をむくのにザボンと格闘しました。これはおいしかった。
 最後にカンボジア名物、カボチャプリン。これは絶品。写真の通り、本物のカボチャの中にプディングが挟まれているのですが、中身より周りのカボチャの実がホクホクと甘くて、皮まで食べちゃいたい代物でした。カンボジアのカボチャはうまいぜ。

・バスのなか、1コマ
 ベトナム航空の帰国便は、東京も大阪も真夜中発、朝一に日本到着です。帰りは現地の旅行会社が、大きなバスでホテルを次々に回り、日本人客をピックアップして空港に送り届けます。ホーチミン市の日本人旅行者は、学生のような若い人達が多かった。その中の一組の、女の子とガイドのやり取り。
 「みなさん、お疲れさまでした。忘れ物はありませんね。」
「ハーイ、今ではないのですが、来た時に飛行機の中にマフラーを忘れてしまいました。」
「来たときというと4日、5日前ですネ。難しいですネ。」
「でも空港なんだから、お忘れ物センターとかあるでしょう。そこに問い合わせてもらえば。」
「お忘れ物、何?お忘れ物を集めるところ、お忘れ物センター、あー、ベトナムにはありません。」
「えー、そうなの。」
「来たときのガイドに言ってもらえれば、見つけられたかもしれませんが、今はねー、ベトナムではありませんヨ。」
「––––––––」















5.メコン・デルタの舟旅
メコン川はヒマラヤの雪どけ水を水源とし、中国、ラオス、カンボジアを経てベトナムでたくさんの支流に分かれ、南シナ海に流れ出ます。そのため、ここでは九龍川と呼ばれています。
メコン・デルタは豊穣の大地でした。植物の量も種類も、人も車も家も、カンボジアよりはるかに多く、牛までが肥えていた。自転車をこぐ女学生のアオザイの白さが目にしみる。太陽の光もふんだんで、女の人は何もそこまで、という程に日除け(長手袋、大きな帽子、目だけ出したギャングスタイル)をしていた。
このデルタの中の町、カントーに行きました。車でホーチミン市から6時間くらい、途中橋のない川はフェリー(乗っているのはバイクの大群)で渡ります。カントーに泊まった翌日は、夜明け前から半日舟に乗っていました。川の水は、お汁粉を薄めたような感じで、透明度は全くない。乾季でも水量は実に豊かで、ゴミとかは全然浮いていないが、机くらいの大きな金魚藻がプカプカ漂っています。水上マーケットに行きました。川の上に大きな船が2-30艘と、それを取り囲んで小さな舟が行ったり来たりしています。大きな船はたいてい家族で暮らしていて、果物や野菜の倉庫のようになっています。小舟はそれらを仕入れて小売に行くわけですが、売り物が何であるかを知らせるために、竹ざおを立てて、そこに本日の売り物を縛りつけています。川舟はどれも同じ形をしていて、先端に赤く、魚の眼の図柄が描かれています。動力は車の中古エンジンを積み、長い木の棒の先端にスクリューを取り付けた大変やかましい代物です。回転したスクリューを水に突っ込み、けたたましく暴走します。
カントーの水上マーケットには観光客がいず、川べりの家も含めてむき出しの生活が舟に座って見えます。物干し竿にさした、となりの奥さんの下着まで丸見え、といった生の舞台が川沿いに続きます。本流からそれて支流に入ると、流れもゆるやかになり、草木が生い茂り、水浴びをする子供たちが手を振り、ちょっとしたジャングル・クルーズといった趣きになって楽しいものです。無数の島々(中州)があり、教会があったり、市場や学校、田んぼや、あぜ道を通る人々を舟の中で、ちょっと低い位置から見上げる格好になります。動いているので、川面を渡る風も涼しい。その島の中の一つに果樹園があり、ジャックフルーツやパパイヤが実っていました。
ここで会ったホー・チ・ミンひげをはやした78歳の老人は、至って元気で片言の日本語を話します。ベトナムの三菱重工に数年勤めていたそうです。78歳なら、日本軍の仏印侵攻のときは何をしていたのかというと、ベトコン(抗日ゲリラ)だったそうです。タフネス。

6.禁断の5時間エステ
    ベトナム航空の帰国便は、関空も成田も深夜0時ごろ出発です。ホテルをチェックアウトした後、21時まで部屋を借りた場合は、交渉したのですが1日分の料金が掛かってしまう。まあ無理もないか。ホーチミン市は町中バイクだらけで、歩道は駐輪場となり、ロッテリアに入ったらバイク屋か、お前は、と思うぐらい店内一杯にとまっていて、カウンターにたどりつくのにバイクをかき分けかき分け。市場へも行ったし、博物館も見たし、国営デパートは2時間で飽きた。ブランドショップは向こうからお呼びでないよ。甘いコーヒーを飲んでも9時間はつぶれない。以前なら映画でも見たところですが、今はDVDの普及で映画館がすっかり寂れていて、国産の化け物映画くらいしかやっていません。
    そこで思いついたのがエステ、それも思いっきり時間の長いコースで、出発までの午後を楽に過ごそう、と考えたのですが、いったいエステって何するの?男でもいいの? ガイドブックを見て日本人のあまり行かなそうなところに、ドキドキしながら電話しました。おじさんは禁断の道に踏み出した。
    「あのー、そちらはスパ&エステ?」「ハイ、ソーデス」「あの、そちらはやっぱり、Lady Onlyとか?」「そんな事はありません。」とSusanはやけに明るい声でキッパリ。コースとか料金とかをテキパキと説明してくれ、あっという間に明日の予約とお迎えを約束させられました。「あの、でも本当に男でもOKなんでしょうか?」「ノープロブレム」翌日、相棒も二つ返事でOKしたので、おじさん達はエステの受付でSusan(結構年いってました。)から日本語のパンフを受け取り、まさかネイルケア、マニキュアは外してもらって、後はお任せの5時間、130ドル、禁断コースにいきなり突入しました。
    この殴りこみの前に、相棒と愚息に、「いいな、これはエステなんだからな。感違いするなよ。絶~対に勃つなよ。」と言い聞かせたのは言うまでもありません。
    白衣のお嬢さんに案内され、こぎれいな個室に入り、パンツ一丁になった。体にタオルケットを乗せられ、頭をタオルできつく縛るのですが、生来のでか頭のせいで、最後にぎゅっと折りこむところで、タオルがパッと開いてします。お嬢さんあわてず、もう一回縛りなおし、ぎゅっと折りこみパッと開く。4回やり直したところで、お嬢さんもさすがに意地になり、思いっきり締め付けて頭の皮がよじれてギューギュー言い出したところで、やっととまった。おじさん心底ホッとした。一時はどうなることかと、身も心も細る思いで、体を一寸法師のように縮めたのに、頭蓋骨がいうことを聞かず、こら、こら、もちろんその後は、頭をそよとも動かしませんでした。
    最初はざらざらするものを、顔を除く全身にゆっくりゆっくり塗りこめられ、顔にはパックをされました。部屋は薄暗くヒーリングミュージックがゆったりと流れ、何やらよい香りがします。半分まどろみながらもう終わっちゃうの、と思っている内に2時間近くたっているじゃあ、ありませんか。アラー不思議、お風呂につかって甘いレモンティーを飲み、今度は全身オイルマッサージです。気色えーなー。温かい小石を2つ、背中でゆっくりと滑らし、それが曲線を描いて触れ合う度に、カチッ、カチッと鳴ります。
    そこまで終わって服を着て休憩。硬いフランスパンにはさんだチキンのサンドイッチを食べました。チキンは香草を入れニョクマムをまぶしてあり、ベトナムの味がしました。最後は首から肩にかけてのマッサージと、髪の毛のケアでした。最初のマッサージをやってくれたお嬢さん達は、私服になって帰宅していきました。チップを要求することもなく。
    相棒は、クリリン、天津飯系統の髪型なので、ここはアッという間に終わってしまって手持ち無沙汰。自分も首のマッサージがかなり痛かったので、最後はもういいや、という感じで5時間のエステは終わったのですが、やれやれと言って首を撫でたらビックリ、つるつるしているじゃあありませんか。手の甲もつるつる。スネ毛も無くなっちゃってる。最初のザラザラは脱毛だったんですね。まっ、脱毛はともかく、2人ともおじさん大満足の5時間でした。

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