黄色い拍子木

たまのをよたえなばたえねながらへば しのぶることのよわりもぞする

総ては軈て「かつて」の海に還る

2009-09-19 12:29:27 | Weblog
数年ぶりに他人と暮らしています。語弊の無いように申しますと、
他人というのは自分でない存在、という意味です。良き人も悪き人も、
その全てを含む、自分でない存在の事です、物質的な。そして
精神的な。

他人と暮らすのはなかなか我慢の必要となる事で、頑固で幼い部分を
持つ私には結構骨が折れる事です(言い返せば、相手の方もそれ以上に
苛立ちや不満、疲れを感じさせているのでしょうけれど)。

些細な事での言い争い。小さな行動への大きな感情の波。

でも、数ヶ月を経て、もう一度取り戻したのです、或る感情を。感情、
というよりはコツのようなものでしょうか。

なにもかも、やがて「かつて」となるのです。記憶の奥底の、あの箱に
全て吸い込まれて行くのです。開けるも開けないも自由。むしろ厭な
感覚を有すものでも時に取り出し、緩い痛みに感傷を感じる事で
流れていた時間の手触りや温度を感じ、その時の困難を少しでも
緩やかな物にするのです。そんな「かつて」。それを感じて、意識する
事を思い出したのです(どこかでは分かっていても、感じられない
位薄い物になっていたのかもしれません)。

他人と暮らさなかった2年間は、私にとってはかつて無いほどの自由を
もたらしました。でも、出来る事はそんなに変わりませんでしたし、
変えようとする意識を挫くくらいの何か(安定や恐怖、そういった
ものがない交ぜとなった意識)がそうはさせませんでした。自由すぎて、
何ももうしなくなっただけかも知れません。

と最早、既に「かつて」の箱へ流れていった2年間を取り出して、今の思いと
対比させているのです。あのときも私がいて、今も私がいて。多少は変わった
かもしれませんが、そこには他の誰でもない私がいた(いる)のです。所々で
区切られているかもしれませんが、糸程度の細さであっても、あのときの私と
今の私は繋がっているのです。

悩んで変えようとした日々がありました。変えてみて、後悔した事も
満たされた事もありました。それらは既に「かつて」に飲まれて行きました。
今、私はささやかながらも積層した「かつて」の上にいます。偶然が
重なって出来たウエハーの上に、「かつて」と変わらないまま、不安定
ながらも立っています。

これからもウエハーは積み重なっていくのでしょう、生きている限り。
その不安定さと脆さに挫けそうにながらも、どんどん積み重ねて、
積み重ねられて行きながら。自然と積まれるのです、色や形は様々で
あっても。積まれた物に一喜一憂しながら。でも、その時に思った事、
した事は変えられません。ただ、この瞬間しかないのです。

今日も、良い日をお過ごし下さい。
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