黄色い拍子木

たまのをよたえなばたえねながらへば しのぶることのよわりもぞする

誤り

2009-09-22 22:19:40 | Weblog
GIGAZINEの記事に、盗まれたフロッピードライブを
探している張り紙があるという記事がありました。
張り紙には「MISSING Floppy Disk Drive」と。

写真を見る限りはIBM製です。
つまり、これはFloppy Disk Driveではないのです。これは
Diskette Driveなのです。IBM製である限り、Floppy Disk Drive
という事はありえません。

と思ったのですが、IBMも一般向けには「フロッピー」、
企業向けには「ディスケット」と使い分けているのですね、最近は。
(とは言え、最近セットアップしたIBMサーバにはドライブそのものが
ありませんでした。あとPS/2端子も。時代ですね。)

3.5インチ、5インチ…なつかしい。5インチは私の席で、
コースターとして余生を送っています。やがて、USBメモリや
BDディスクも何らかの余生を送らされるハメになるのでしょうか。
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電波の国からグサッグサ

2009-09-19 15:01:53 | Weblog
ウィルコムが返済延長要請 1千億円の債務(共同通信) - goo ニュース

松本伊代「TVの国からキラキラ」


最近、ネットブックを買いました。iPhoneを初めとするスマートフォンと
悩んでいたのですが、主な使用目的が自宅の布団専用機だったので、
画面が大きく、汎用性もあり、操作のし易いネットブックにしました。

それでも、たまに持ち出したりもしてますが、やはりネットに繋げら
ればいいなとは思い、ウィルコムのデータ通信アダプタに加入しようか
等と考えておりました。速度は遅くても、使い放題で980円税込みと言う
のは魅力的です。

ところがその矢先のこのニュースです。残念。殆どが外国産の無線技術
ですが、PHSは我が国が開発した技術で、アジアを中心に多数利用されて
います。それなのに、本丸が体たらく。

・スマートフォンでアドバンテージがあったのに、無碍にしてしまった。
・得意のデータ通信ですら、携帯電話技術に追い抜かれてしまった。

この2つが大きいのでしょうか。昨日の成功体験は、明日の失敗体験に
なる恐れがあります。殿様になったあと、胡座をかいていてはいけない
のです。

合掌。魅惑的な端末も出せない、強力なサービスも提供できないなら、
消えて行くのも仕方のない事かと。それにしてもauのスマートフォンは
まだでしょうか…。
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other side

2009-09-19 14:10:07 | Weblog
黄色い拍子木
ブログの開設から 1948 日
記事数 1292

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ここ暫くは、記事を投稿していませんでした。
特に理由は無く、何となく。引っ越しをして、環境が急激に変わった
所為かも知れません。色々変わると、日々の事ばかりが気になって
駄目なのです、余分の時間を作り出す事が。正確に言うと、自由な
時間は沢山あるのです(最近は殆ど残業もありませんし)。でも、
余分としてマウントする事が出来ずに、ただの空き領域として無碍に
消費してしまうのです。

とは言え、世界が三次元である以上、横と縦と高さは交互に入れ替わる
事が可能な要素ですので、私自身にもそれが言えるのです。要は、ここで
見せていない姿や形があるのです、私にも。

飯日記

好意を抱くかもしれませんし、嫌悪感を抱くかもしれません。
でも、それはただ一つの要素にすぎません、私の。その要素を明かさ
なくても、好意や嫌悪感は存在するのです。

この要素に、多くの人は悩んだり、考えたりしますが、それはどうでも
良い事だと思うのです。もちろん、要素に付随する事での悩みはあるかも
しれませんが、その要素そのものが原因であるとか誤りであるとかを
考えるなんて。それだけで、生きる事は困難では無いでしょうか。

考え方一つで生き方を縛る足かせにもなりますし、楽しみに至る扉にも
なります。要素は要素に過ぎません。それ自体は意味を持ちません。
意味を見いだすのは人であり、他ならぬ自分だと思うのです。

私は足かせなど要りません。扉はいくつも欲しいです。だから、そのままで
有ろうと思ったのです。足かせにせず、重い意味も付与せず、そのままの
ただの事実にと。誰でも恋に傷つき、明日に夢を探します、誰でも。
特別な事は何も無いと思うのですよ。

特別な事は何も、何もありません。
自分の要素で自分を追い込んだって、楽しい事は何も無いよ。
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総ては軈て「かつて」の海に還る

2009-09-19 12:29:27 | Weblog
数年ぶりに他人と暮らしています。語弊の無いように申しますと、
他人というのは自分でない存在、という意味です。良き人も悪き人も、
その全てを含む、自分でない存在の事です、物質的な。そして
精神的な。

他人と暮らすのはなかなか我慢の必要となる事で、頑固で幼い部分を
持つ私には結構骨が折れる事です(言い返せば、相手の方もそれ以上に
苛立ちや不満、疲れを感じさせているのでしょうけれど)。

些細な事での言い争い。小さな行動への大きな感情の波。

でも、数ヶ月を経て、もう一度取り戻したのです、或る感情を。感情、
というよりはコツのようなものでしょうか。

なにもかも、やがて「かつて」となるのです。記憶の奥底の、あの箱に
全て吸い込まれて行くのです。開けるも開けないも自由。むしろ厭な
感覚を有すものでも時に取り出し、緩い痛みに感傷を感じる事で
流れていた時間の手触りや温度を感じ、その時の困難を少しでも
緩やかな物にするのです。そんな「かつて」。それを感じて、意識する
事を思い出したのです(どこかでは分かっていても、感じられない
位薄い物になっていたのかもしれません)。

他人と暮らさなかった2年間は、私にとってはかつて無いほどの自由を
もたらしました。でも、出来る事はそんなに変わりませんでしたし、
変えようとする意識を挫くくらいの何か(安定や恐怖、そういった
ものがない交ぜとなった意識)がそうはさせませんでした。自由すぎて、
何ももうしなくなっただけかも知れません。

と最早、既に「かつて」の箱へ流れていった2年間を取り出して、今の思いと
対比させているのです。あのときも私がいて、今も私がいて。多少は変わった
かもしれませんが、そこには他の誰でもない私がいた(いる)のです。所々で
区切られているかもしれませんが、糸程度の細さであっても、あのときの私と
今の私は繋がっているのです。

悩んで変えようとした日々がありました。変えてみて、後悔した事も
満たされた事もありました。それらは既に「かつて」に飲まれて行きました。
今、私はささやかながらも積層した「かつて」の上にいます。偶然が
重なって出来たウエハーの上に、「かつて」と変わらないまま、不安定
ながらも立っています。

これからもウエハーは積み重なっていくのでしょう、生きている限り。
その不安定さと脆さに挫けそうにながらも、どんどん積み重ねて、
積み重ねられて行きながら。自然と積まれるのです、色や形は様々で
あっても。積まれた物に一喜一憂しながら。でも、その時に思った事、
した事は変えられません。ただ、この瞬間しかないのです。

今日も、良い日をお過ごし下さい。
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