じゅりさんからご質問をいただきました。
憲法優位説に立った場合、国際法上集団的自衛権が認められていたとしても、国際法よりも憲法の効力が優先するので、集団的自衛権の行使は認められないという結論になることは分かります。
一方、国際法優位説にたった場合はどうなるのでしょうか。
国際法上、集団的自衛権の行使が義務づけられているのであれば、憲法上集団的自衛権の行使が禁止されていても、憲法よりも国際法の効力が優先するので、集団的自衛権の行使は認められることになると思います。
一方、国際法上、集団的自衛権の行使が許容されているに留まる(行使は認められているが義務付けられてはいない)場合に、憲法で集団的自衛権の行使を制約することは可能なのでしょうか??
というご質問。
まず、国際法と憲法のどちらが優位するか、という論点は、
授権関係の話である場合
(憲法は国際法の部分秩序なのか、各国憲法が承認したので国際法ができたのか?)と、
効力関係の話である場合
(両者が矛盾したときに、「国内法として」どちらが優先するか?)があり、
授権関係では国際法が優位するが、効力においては各国の内部では憲法が優位する
といった議論もありえます(私は、この立場を支持する傾向を持っていますが)。
ただ、集団的自衛権については、
国連憲章で行使が義務付けられるわけではないので、
各国が、政策判断や条約や憲法や法律で、行使を制限することは、国際法上は各国の判断に委ねられます。
法律ではバイクに乗れても(国際法ではバイクに乗れても)
うちの大学の規則ではバイク通学は禁止(その国の憲法ではバイクは禁止)という話と一緒ですね。
この場合、バイクに乗る法律上の権利はあっても大学の規則で行使できなくなっている。
この場合、バイク通学をすると
法律には違反しないが、大学規則違反になる
(国際法違反にはならんが、憲法違反になる)ということになるでしょう。
なお、日本の憲法98条では国に国際法遵守義務を課しているので
政府が国際法違反をすると、
まず、国際法違反になり、かつ、憲法98条(国際法を守る憲法上の義務)違反にもなるということになります。
いずれにせよ、日本に集団的自衛権の行使を義務付けた国際法はなく、
今回の違憲、合憲論争に、国際法は決定打にならないでしょう。
憲法優位説に立った場合、国際法上集団的自衛権が認められていたとしても、国際法よりも憲法の効力が優先するので、集団的自衛権の行使は認められないという結論になることは分かります。
一方、国際法優位説にたった場合はどうなるのでしょうか。
国際法上、集団的自衛権の行使が義務づけられているのであれば、憲法上集団的自衛権の行使が禁止されていても、憲法よりも国際法の効力が優先するので、集団的自衛権の行使は認められることになると思います。
一方、国際法上、集団的自衛権の行使が許容されているに留まる(行使は認められているが義務付けられてはいない)場合に、憲法で集団的自衛権の行使を制約することは可能なのでしょうか??
というご質問。
まず、国際法と憲法のどちらが優位するか、という論点は、
授権関係の話である場合
(憲法は国際法の部分秩序なのか、各国憲法が承認したので国際法ができたのか?)と、
効力関係の話である場合
(両者が矛盾したときに、「国内法として」どちらが優先するか?)があり、
授権関係では国際法が優位するが、効力においては各国の内部では憲法が優位する
といった議論もありえます(私は、この立場を支持する傾向を持っていますが)。
ただ、集団的自衛権については、
国連憲章で行使が義務付けられるわけではないので、
各国が、政策判断や条約や憲法や法律で、行使を制限することは、国際法上は各国の判断に委ねられます。
法律ではバイクに乗れても(国際法ではバイクに乗れても)
うちの大学の規則ではバイク通学は禁止(その国の憲法ではバイクは禁止)という話と一緒ですね。
この場合、バイクに乗る法律上の権利はあっても大学の規則で行使できなくなっている。
この場合、バイク通学をすると
法律には違反しないが、大学規則違反になる
(国際法違反にはならんが、憲法違反になる)ということになるでしょう。
なお、日本の憲法98条では国に国際法遵守義務を課しているので
政府が国際法違反をすると、
まず、国際法違反になり、かつ、憲法98条(国際法を守る憲法上の義務)違反にもなるということになります。
いずれにせよ、日本に集団的自衛権の行使を義務付けた国際法はなく、
今回の違憲、合憲論争に、国際法は決定打にならないでしょう。
皮肉と思ってはいただきたくないですし、GHQも侮れないと思います。ただ、ほかに憲法に関して気になる点があり、参議院議員が首班指名を受ける可能性があることです。衆参どちらの議員が首相に任命され、その人物が内閣を総辞職しても、参院議員の議席は任期まで満了できるとことになっているようですが、そもそも衆議院と参議院が質的に同等になってきているいまの日本の政治状況についてどう思われますか?
玉野 和志教授の著書を拝読しています。
公教育・私学・塾・民間企業を問わず
組織の求める目的の所在について
考えさせられています。
私の疑問も首都圏いかんを問わず、
日本・海外の大学でも、意見を求める
必要がありそうです。残念ながら
主人に言わせると「欲が深い」と言う
解釈になるようですが。
宗教は、欲を禁じます。しかし、欲が無ければ
学ぶ意欲も得られない。どちらにしろ万人の悩みは
「生きる為の葛藤」ですので、
あまり大差は無いのでしょう。
よろしくお願いします。
似通った点です。
他人の生命に関わる事態でなら
出来る事なら救う事を優先したい。
しかし、自分の子供の未来・将来と引き換えなら
母親達は、どちらを選ぶでしょうか。
対組織となると巨大組織の存続と、
一人の子供の未来・将来と
どちらが優先されるのでしょうか。
video news2014年7月19日のニュースコメンタリー
「国会質問で見えてきた集団的自衛権論争の核心部分」
という永久保存版と言える回でも木村先生がおっしゃっていた、
それは個別的自衛権で出来る、緊急避難で出来る、在外自国民保護で出来る。
新しい解釈は必要ない、という事ではないでしょうか。
番組ではそのような、
「現状でも出来る事が、新しい解釈が必用な例として持ち出されてる」
という事の解説もされています。
この回は必見です。
ただ、私は人間というものはそういういわゆる法治主義だけは単純に束ねられないと思っています。
目の前で、だれかが殺された(or傷害を受けた)。でも自分は、その一連のできごとを自分の自衛のために(法律的に裁かれたくない)黙殺した。
これは、あきらかに法律面による解釈と倫理的解釈に分かれると思いますが、諸外国とこれまでも接触せざるを得ない自衛隊員は、「法律」と「倫理」のどちらを守るべきだと思いますか?
学ばせて頂いています。
法律家の方々、法律を学ばれている方
自分を含め・いわゆる職業人としての倫理性について
様々な専門職の方々か悩まれる事かと思います。
疑問に思う事もしばしばあったのですが
中坊公平さんの書かれた「徳と正義」に出てくる
「権力は腐敗する」下りを考えて、
改めて、別な視点を持つ事が出来ました。
自分の疑問にも、
解決の光がかすかに見えた気がします。
感謝、申し上げます。
▼【メモ】憲法学者の中では「自衛隊自体が違憲」が今も多数派なことをどう考えるか(~朝日新聞アンケート) - Togetterまとめ http://togetter.com/li/851500
<まとめ>
・憲法学者のアンケートあった。
・安保法制は違憲派が圧倒的多数
・しかし同法案だけでなく、自衛隊の存在自体を「違憲」とする人が、意外にも?なお多数派。
・それをどう考えるべきか。▲
恐らく、朝日新聞の質問票が「現在の自衛隊の存在」への違憲合憲を問うたものであったのに対し、まとめ主のgryphonjapan氏はこれを「自衛隊の存在自体」の違憲合憲を問うたもの、と混同してらっしゃるので、これによって憲法学者らの回答がまるで非論理や不誠実であるかの如く映っているのかな、と思うのですが。
確認したところ当該アンケートで「現在の自衛隊の存在」について違憲かその疑いがあると回答された方々の中では、志田陽子氏、石埼学氏、宮井清暢氏、實原隆志氏が、やはり外部からの攻撃への暫定的な対抗措置の為の実力組織の保持自体は禁止されていないが、こと「現在の自衛隊」の在り方については違憲かその疑いがある、といった主旨のコメントを添えていました。宮井清暢氏に至ってはわざわざ『「現在の」自衛隊の存在は』と括弧付きで留意されてますし。
しかし上記まとめのコメント欄やブックマークを見るに、この差異を混同した非難を真に受けている人々も多く、憲法学自体の信頼性が毀損されているような危うさを感じましたので、お知らせさせて頂きました。
ただ、このたびの安保法制案が最高裁で合憲とされるのなら、当面は私も憲法9条を護持すべきと考えます。集団的自衛権行使容認といっても、今回のは限定的行使容認なんで。一主権者として。
法教育というのが大事なのはわかりますが、日本は法教育をするためにいくつもの補助線が必要だと思います。その内容に食らいつこうとしていますが、実感としては、わけわからん・・・。
どんな仕事も辛いのかもしれませんが、とにかく私も頑張っていきます。応援しています。
g
憲法9条で、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とありますが、
「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはあるのでしょうか?戦争にはどういうもの種類のものがあり、集団的自衛権によってアメリカと参戦するならば、それはどういう種類の戦争になるのでしょうか?
なぜなら「砂川判決」で、「日米安全保障条約の違憲性」について最高裁が審理していますので、「憲法を基準にして条約(国際法)を評価」しているからです。
他方、国際法の世界では「条約(国際法)が憲法より優位する」という立場を取ります。なぜなら、条約を締結するかどうかは各国の自由であり、自国の憲法と矛盾しないか確認してから条約を締結すべき事が当然だからであり、条約を締結しておきながら後になって「この条約は自国の憲法違反だ」等としてその義務を履行しない等という行為は、国家間の約束を反故にする行為であり、許されないからです。
ただ、「国連憲章」の「集団的自衛権の行使」を含む「集団的安全保障の概念」が「日本国憲法第9条に盛り込まれているか」については、現在まで長く議論が続いているというのが実情のようです。
従って、この「国連憲章の集団的安全保障の概念」が「憲法9条に盛り込まれている」と考えれば、「集団的自衛権の行使容認」は「合憲」と解する事になり、「盛り込まれていない」と考えれば、「違憲ではあるがその事を対外的には主張出来ない」と解する事になり、どちらにせよ「集団的自衛権の行使容認」は、「認めざるを得ない」という解釈になると考えます。
つまり、国際法たる国連憲章で主権国家には当然に認められている「集団的自衛権の保有及びその行使」については、国連に日本が加盟している以上、国連憲章は遵守されるべきであり、それと憲法との矛盾性は国連加盟時(昭和31年)に確認済のはずなのだから、当然に認められなければならないという事です。
日本政府は、昭和47年の政府見解で「集団的自衛権を保有はしているが憲法9条の趣旨から行使出来ない」としてきました。
それを今回安倍内閣が「行使も出来る」と政府見解を変更した訳ですが、これは先に述べたように「違憲かどうか」の結論は出ていません。
ところで、もし「安全保障法案」が成立後に「違憲である」として裁判所に提訴され、もし「違憲である」いう判決になったとすると、それは今回の「安全保障法案」だけではなく、「国連憲章」の「集団安全保障の概念」も「違憲である」と言っている事になるため、当然ながら日本は「国連憲章を認めた上で国連加盟した」はずですから、そもそも「日本の国連加盟自体」が「違憲で無効である」という事になってしまい、このような結論は日本の安全保障政策上あり得ない事から、結局裁判所は、「国連憲章の集団安全保障の概念」が「例え概念的に9条に抵触するとしても違憲とはしない」、あるいは「(※)行為統治論」によって「憲法判断を避ける」という結論を取るものと考えます。
なお、日本国憲法は「国際法遵守義務(98条2項)」を国に課していますが、今回のような「憲法に抵触する国連憲章(国際法)の遵守義務をも憲法自身が課しているのか」という矛盾となり得る疑問があります。
まとめると、仮に「安全保障法案が概念的に9条に抵触し違憲」であったとしても、対外的には「国際法が憲法より優位する」以上、「安全保障法案が違憲である事を主張出来ない」という事であり、国内的には「日本の国連加盟自体が違憲で無効である」という結論を避ける意味から、結局裁判所は「安全保障法案を違憲とする事はしない」と考えます。
(※)「行為統治論」:「高度な政治判断に基づくものであり、司法判断になじまない」という理由により「違憲審査の対象外」として、司法として憲法判断を避ける事。
「砂川判決の上告審」における「日米安全保障条約の合憲性」についての憲法判断において、日本で初めて「行為統治論により違憲審査の対象外とした」という経緯がある。
間違いの原因は、「集団的自衛権」はあくまで権利であって義務ではないため、その権利行使自体は当事国に委ねられている、という事であるにもかかわらず、私はそれを「義務である」と勝手に解釈した事により生じたものです。
従って、今回の安全保障関連法案は、憲法9条の予定する自衛権の範囲を逸脱して「違憲である」という方向に、私の考えは大きく傾いております。
木村様のブログを汚してしまい、申し訳ございませんでした。
▼緊急提言 憲法学者たちはいつまでごまかしを続けるのか憲法から九条を削除せよ | 文藝春秋SPECIAL - 文藝春秋WEB http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1387▲
ああ、やっぱりか、という感じです。
『自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります』という吉田茂答弁に含まれる「自衛権」自体と、それを実現する具体的手段としての「戦争、交戦権」の区別を理解できない人々も多いのでしょうね。
両者が非専門家にとっては混同されやすいからこそ、後者に含まれる集団的自衛権を違憲とする見解に対しても「修正派は既に解釈改憲を認めているくせに」といった批判も繰り返し出されるし、憲法学者らが不誠実や非論理であるかのような疑念も生じせしめてしまう。
まあ件の発言部分は、単体で取り出して素朴に日常言語表現として解せば、自衛権自体を完全否定している、と感じられても無理からぬところかもしれません。でも議事録全体をちゃんと読み込んで欲しいですよね。同答弁内では『自衛権ノ存在マデモ抹殺スルモノデナイ』とも述べられていますし、他にも『軍備ナクシテ自衛権ノ行使ハ問題トナル余地ハナイ』とか面白い表現がいっぱいあるのに。
ただ、こうした形で此度の違憲論への疑念が具体化されてくるに連れて、割と単純な誤解に起因している、ということが明確になってきたんじゃないでしょうか。
例えば、この吉田発言をめぐる混同は、以前紹介させて頂いたまとめ記事のように、「自衛権」自体と、その具体的手段としての「自衛隊」を混同してしまう、というよくありがちな誤解ともパラレルだと思います。両者が混同されているからこそ、しばしば「個別自衛権は認めつつ、自衛隊という形での行使は認めない」とか「自衛隊の存在自体は認めつつ、「現在の」自衛隊の在り方を問題視する」といった態度までもが矛盾であるかのように受け取られてしまう。
つまりキャッチーに引用されがちな吉田茂答弁への誤解を解くことは、此度の憲法学者らの見解に疑念を感じている人々に対しても、結構な部分で納得を得られることに繋がるのかな、と思うのですけれど。
▼誰もが憲法9条に対してクリーンハンドではない、ということ ~今後の熟議のために(上)(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20150922-00049685/▲
▼誰もが憲法9条に対してクリーンハンドではない、ということ ~今後の熟議のために(中)(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20150923-00049770/▲
やはり井上達夫氏の論に依拠しており、やはり野坂参三質問に対する吉田茂答弁が引用されています。
ちょっと無視できない広がり方をしていますね。
また、木村さんがVIDEO NEWSで「現在ほとんど支持者がいない」とおっしゃっていた大石眞氏のジュリスト論文も引用されています。
たとえ憲法学では常識でも非専門家へは上手く伝わっておらず、故に彼らにとって憲法学者とは素人が気付くような論点に気付かない間抜け揃いの集団であるかの如く映っているのかなあと。
正確なところが広まるのも時間の問題だ、と思いたいのですけれど。
素人目に憲法9条を読むと、自衛隊が違憲にしか思えません。そして中学校のときに先生から、自衛隊と9条の関係を聞かされても正直よくわかりませんでした。レトリックはたくさんあるが、それでも自衛隊はある。私は防衛大学校志願者だったので、なおのこと憲法とのからみはずっと気になっていました。
現時点の日本には、憲法9条と自衛隊と国際環境の推移をどうするかという総合的な議論があるように思われません。
ここが気になります。
テクニカルな内容をテクニカルな説明をするだけで安住できなくなる専門家がでてくるのが「民主主義」ではありませんか?
憲法学者にとって自衛隊が違憲なのかどうかというコンセンサスがあれば、次のステップあるいは議論の土台あるいは国民的コンセンサスの得られる安全保障の話が盤石になると思いますが。
なんか、そのへんが法律をめぐる話でよくわからないんです。
ご質問したいことがあるのですが、日本は朝鮮戦争以来、在日米軍基地を置き、兵站や資金提供を行っており、国際法上は中立国とはいえない。
これらの関与が、
・集団的自衛権の行使
・国連決議に基づく集団安全保障の責任を果たした
・単なる違法な、あるいは国際法的根拠不明な武力行使または関与
のどれかにあたるのではないか?
という意見を見かけました。
そして、池田内閣までは、集団的自衛権を米軍と共同行動をする手前「当然保持しているし行使する」というのが政府公式見解であり、それを、佐藤内閣の高辻法制局長官が解釈改憲により禁じた、のだと。
在日米軍が、米国の集団的自衛権の行使ではなく、我が国が行っている集団的自衛権の行使なら、現状でも集団的自衛権は行使されていることになります。
このあたりの詳細や真偽をお答え頂けないでしょうか。
しかし、実際に行使された場合も、おそらく統治行為であるとして裁判所は逃げを打って判断しないだろう。
集団的自衛権が実際に行使された時に確実に裁判所に判断させるように、法律で裁判所の逃げ道を封じておかないといかんよね。