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木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

ご質問について

これまでに、たくさんのご質問、コメントを頂きました。まことにありがとうございます。 最近忙しく、なかなかお返事ができませんが、頂いたコメントは全て目を通しております。みなさまからいただくお便りのおかげで、楽しくブログライフさせて頂いております。これからもよろしくお願い致します。

砂川政教分離訴訟(8)

2011-08-15 21:06:04 | 憲法学 砂川政教分離訴訟調査
神社の鳥居周辺の土地に、
ロープがはられ、かこまれている。



これはいったいなんなのだろうか?
最高裁の判決文には、このような物体についてコメントはなかった。

実は、この空知太神社・会館の
大部分はホールになっており、
その奥に、明治期に作られた祠を納める
スペースがある。

この建物を前から見ると、
そのことはよくわからないのだが、
後ろに回ってみると、このようにでっぱりがある。



・・・。
やはり、写真ではよくわからないかもしれない。

このでっぱりの箇所に、
祠がおさめられているらしいのである。


砂川市は、最高裁の違憲判決を受け、
このでっぱりを、鳥居付近に持ち出し、
土地の一部、つまりロープで囲まれた部分の
賃貸で、問題を解決しようと提案したのであった。

砂川政教分離訴訟(7)

2011-08-04 13:56:53 | 憲法学 砂川政教分離訴訟調査
こうして私は、空知太神社についた。

この神社のある土地は、まことに複雑な経緯を経て、
現在、砂川市の土地になっている。

そこで、まことに複雑な経緯を説明しておこう。

昔々、町内会の人々は、開拓の心を胸に神社を建立した。
その土地に、小学校ができることになり、
神社は、近隣住民Aさんの土地に移設されることになった。

以下、次のような経緯をたどる。

1953年
 Aさん「あー、神社は町内会の施設なのに、なんで、
     私一人が固定資産税負担せにゃならんのだ」

  そこに砂川市やってくる。

 砂川市「どもども。Aさん、今度、小学校を拡張することになりまして、
     小学校の隣に広い土地をお持ちのAさんに、ちょいと
     ご相談したいことが・・・。」

 Aさん「あー、小学校の隣に土地がほしいと。分かりました。
     協力しましょ。その1200㎡ばかりの土地、差し上げます。」

 砂川市「ほんとですか?ありがとございます。」

 Aさん「あのですな、ついでにお願いがあるんですが、
     この神社のある土地、もらってくれませんか?」

  ・・・というわけで、神社用地は、砂川市の所有地になった。

1975年
 町内会「うーん、ちと集会場ほしいなぁ。」

  ・・・というわけで、町内会は、神社用地に加え、
  砂川市・土地改良区(という公益法人)から、
  隣地を借り受ける。

そして、町内会館と神社を併設した次のような建物ができあがる。




建物の左側が町内会館の入り口になっており、
中に入ると、台所やホールがある。

他方、右側には鳥居があり、その奥に神社入り口、
さらに奥に祠がある。

ただし、会館、神社は一つ屋根の下。

・・・なんちゅう複雑な事案じゃ。


1994年
 土地改良区から、砂川市が用地を取得し、結果、
 空知太会館・神社の用地は、全て砂川市のものになる。

さて、この神社をみわたすと、さっそく気になることがあった。

砂川政教分離訴訟(6)

2011-07-21 13:18:32 | 憲法学 砂川政教分離訴訟調査
10月の北海道はさわやかである。

砂川市に入り、はや1時間50分。

ようやく空知太神社に到着した。

空知太神社の敷地に行くとまず、目に付くのは

敷地内にある巨大な石碑である。



高くそびえたっている。

なにか、私に強く伝えたいことがありそうだ。

そこで、私は、神社の分析に入る前に、

その石碑を見ることにした。

石碑の表には

「上川道路開鑿記念碑 
      北海道知事 町村金五書 」

 とある。

どうやら、知事自らお書きになったようだ。

私の勤め先の大学にも、当時の東京都知事の書からなる石碑があり、
私がよく通っていた横浜市立中央図書館にも横浜市長の書からなる石碑がある。

私は、字が汚いので、知事や市長には向かないだろう。

 (ちなみに、私の通っていた高校の生徒会室の看板は、私が書いた。

  当時の生徒会では、生徒会の権威を強調するため、新しい看板を・・・。

  この話は長くなるので、やめておこう。)


この石碑は、どうも道路が開通した時の記念らしい。

なるほど、では、これは、どのような道路なのであろうか。

裏に回ると次のように書いてある。

「 国道十二号線は明治十九年に樺戸及び空知集
  治監の囚人を使役して空知太に集治監出張所
  を設置南北二工区に分けて悪条件の下に工事
  を進め九十粁の上川仮道路を完成したのがこ
  の始まりであるこの難工事に苦役された幾多
  の無名の犠牲者の霊を慰め輝く未来建設の為
  に開道百年を記念してこの碑を建立する
   昭和四十四年九月
        砂川市長 山口正直     」


囚人を使役・・・。悪条件の下の過酷な工事・・・。

とにかく大変な工事だったようだ。

私が訪れたのは10月でさわやかもいいところだったが、
確かに厳冬の北海道での道路工事は非常に困難だっただろう。


さて、この石碑を見て、私の中に二つの疑問がわいた。

表書きに北海道知事、裏書に砂川市長。
そうした石碑と同じ敷地に、神社の鳥居がある。



これは、政教分離の観点から見たとき、確実に好ましいものではない。


それと、石碑の「霊を慰め」の文言。

いいのか、これ。







砂川政教分離訴訟の調査(5)

2011-07-11 15:41:34 | 憲法学 砂川政教分離訴訟調査
富平神社の探索が終わった。
のんびりしたいところであるが、
午後には札幌高裁に戻り、訴訟資料の調査をしなくてはならない。

というわけで、私は、空知大橋に向かった。
橋が、富平神社と空知太神社の分岐点なのである。

人類普遍の原理として、移動方法が同じ場合、
坂がなけれべ、行きも帰りも、ほぼ同じ時間がかかる。
今回もそうであった。

再び、長い時間、誰と話すともなく歩き続ける。
今回も草木が話しかけてくるようだ。
(もっとも、何が言いたいのかは、今一つよく、わからない。)


さて、空知大橋に戻ると、私は、空知太小学校の方向に歩を向けた。

空知太神社は、空知太小学校に隣接しており、
小学校への標識を頼りに歩けばよい。

空知太地区は、富平地区とは違い、住宅街である。



私は、スーパーや、自動車販売店などがならぶ大通りを歩いた。


今回は、それほど時間がかからず、目的地に到着した。

目的地について、私はほっとした気分になった。
そこには、バス停があったのである。
帰りはバスに乗れる。



そう思ったのもつかの間、私は、バス停の奥にある
よくわからない建造物に目を奪われることになった。

砂川政教分離訴訟の調査(4)

2011-07-07 15:17:15 | 憲法学 砂川政教分離訴訟調査
メルロ・ポンティが、昔、森の中をあるいていると
木々がはなしかけてきているような気がする、と述べていた。

それを読んでいた時は、そんな馬鹿な、と思ったのだが、
誰と出会うこともなく、北海道の道を歩いているうちに、
彼の言いたいことがわかった。



確かに、草や風がはなしかけてきているような気がするのである。

草や風と会話する貴重な50分の後、私は神社らしきものが見えてきた。

最寄駅より徒歩50分。

私の知人は、北海道に来て、ウニの概念がかわったと言っていたが、
私も、北海道に来て、最寄駅という概念がかわった。


ここが富平神社である。



周囲には畑が広がり、神社の隣地には、
富平小学校の跡地がある。



判決の認定した通りだ。

富平神社は、こじんまりとした
いかにも地元の神社、という感じの神社である。

しかし、確かに神社である。



この神社を宗教施設でないとするのは無理であろう。
単なる地元のレクリエーション施設と看做すのは、
富平神社に失礼というものだ。

このことを確認し、私は、空知太神社に向かうことにした。