Japanese and Koreans invaded Asia. We apologize.

実践理性 2

2011年07月16日 02時17分13秒 | Weblog


 政治もどうしもないし、実践理性の続きで、おいしそうなところだけ、ちょこっと拾っていこうか。

テキストはCLIMBING THE MOUNTAIN

3章は道徳・倫理について。

まず、言葉の問題。

 Wrong 間違っている、不正である、という言葉はさまざまな意味があるが、非常に根本的な用語であり、それにてよって他の倫理的な用語が定義できる、と。


right, or morally permitted, when this act would not be wrong,
and that some act is our duty, morally required, or what we ought morally to do, when it
would be wrong for us not to act in this way.


 正しい、とか、道義的に許される、というのは、その行為が間違っていない、不正でない、ということだし、ある義務がある、道義的に要求されている、道義的にすべきことである、というのは、そうしなければ、間違っている、不正である、ということだ、と。

で、次は根本的な問い。

 道徳とか、倫理なんかに構わずにに、好き勝手やりゃああ、ええじゃないか、なんでそもそも、道徳的であるべきなのか、という問いはかなり古い時代から問われていた問いで、そりゃあ、そうだ、あまり勝手に振る舞うと、他人からの信頼損ねるし、罰せられるからそれにはみ出ない程度にやっていれば、いいのだ、という人もいるわけだ。


 こうした問いに対して、しっかり、答えられるか、という問題意識である。

 別の見方をすれば、道義に反した行為をする十分な、あるいは決定的な理由をあることがあるか、ということでもある。

 ところが、仮に、道義的行為ということで、全体として、最善になるように行為を要求されるなら、例えば、自分が死ねば、全体としても上手くいく事も多いかもしれなが、それでは、道徳の要請が強すぎる。お前が死ねば、すべてうまくいくし、それが道義にかなったことだ、、と言われても納得しないだろう。道義的行為がそのようなものであれば、道義に外れたことをする理由はおおいにあるわけである。逆に、道義的行為ということで、自分に甘くてもよい、というものであれば、道義に反するということもなくなる。私利私欲、結構結構ーーーそれが倫理的にも正しい、ということであれば、倫理に反した行為というものがかなり少なくなる・・・・というように、道義的行為とはなにか、という内容によってこの問いの答えも変わってくる。 そこで、いくつかの倫理学説を取り上げながら、倫理的行為とはいかなることか、という問題にはいっていく。

で、4章から、カントの倫理学説の吟味にはいる。
カントの最も好まれている原理、


According to Kant’s best-loved moral principle, often called

the Formula of Humanity: We must treat all rational beings, or
persons, never merely as a means, but always as ends.

すべての理性的な存在者あるいは、人間を、け単なる手段としてだけ用いずに目的として、扱わなければならない。


じゃあ、その目的として扱うというのはどういった扱いか、というと、例として、カントは、嘘の約束を出して、


he whom I want to use for my own purposes with such a promise cannot possibly agree to my way of treating him.

自分の目的のために、そのような約束をすることにその人は決して同意しないであろう

と。

 これは、インフォームドコンセント、などいうことを思い浮かべれば、現代社会でもわりに流通している観念なわけですね。


 で、もっと、具体的にはどういうことか、とすったもんだの解釈・更正があって、結局、

同意原則


E) It is wrong to treat people in any way to which, if they knew
the relevant facts, they could not rationally consent.



関連する事実を知ったならば、合理的に同意できないであろう(合意する十分な理由がないであろう)仕方で、他人を扱うのは道義的に間違っておる、と。

ここらへんから、様々な思考実験をして、だんだん面白くなってくる。

思考実験1


地震で建物が倒壊した。自分は救助隊員である。瓦礫を除去の仕方によって、太郎の命が奪われるか、次郎の足が切断されてしまう。


道義的にどうすべきか?太郎の命を救うべきのように思える。しかし、仮に太郎の命を救うような仕方で瓦礫を除去したら、次郎の足が切断される羽目になる、とすれば、次郎は、このような仕方で扱われるのに同意しないのではないか? 

 もしも、実践的理由で、欲望や目的が行為の理由である、とか、あるいは、合理的エゴイスト説をとるとすればーーーこれらは前回でてきた説ーーー太郎の命を救うことは道義的に間違っていることになってしまうが、やはり、それはとるべきではなく、2元主義をとるべきである、と。そのような説をとれば、


We ought I believe to accept some wide value-based theory. On such theories, when one possible choice would be impartially best, but some other choice would be best either for ourselves or for those to whom we have close ties, we often have sufficient reasons to make either choice


不偏的・公平には最善の道と、自分や自分に親しい人にとって最善の道がある場合、どちらを選択しても合理的である、わけである。

とすれば、次郎が、自分の足を助けてもらう理由も十分あるが、しかし、足よりも命を失うほうが損失が大きいわけだから、自分の足を犠牲にして、太郎の命を救ってあげる道を選ぶ理由も十分にある、わけである。他方、太郎にしてみても、他人の犠牲になる道を選ぶことはありえるが、本件の場合には、損失が大きすぎるからそれは合理的とはいえない。そこで、同意原則によれば、太郎の命を救ってあげるような瓦礫の除去の仕方をすべきである、ということになる。


思考実験2

同じように瓦礫が倒壊しかかって太郎の命が危ない。もっとも、本件では次郎に危険はない。ただ、次郎を盾にすれば、太郎の命を救うことはできるが、それでは、次郎の足がかなり損傷を受ける。


 さすがにこの場合、次郎の足を犠牲にして、太郎の命を救うことは道義的にまずい、ように思える。

 思考実験1との違いは、次郎が足を失うことと、太郎の命を救うことの因果関係のあり方だけである。太郎の命の損失と次郎の足の損失を比べれば、同じように太郎を救うべきだし、上記2元主義の原則によって、不偏的に最善の道を選んでも不合理とはいえない。

 しかし、やはり、こうした行為は間違っている。

 同意原則によって、すべての不正がはじき出されるわけではなく、他の原則によって不正とみなされる場合もある。

 とすれば、こうした救出の仕方をすることは道義に反して間違っているから、太郎は、こうしたことをしないで、結果的に太郎の命が救えなくてもそのことに合理的に反対はできないであろう。

従って、


The Consent Principle requires some act only when one or more people would not have sufficient reasons to consent to our failing to act in this way. 

If some act would be wrong for other reasons, this act’s wrongness would give everyone a sufficient reason to consent to our failing to act in this way.

Therefore 

The Consent Principle could never require acts that are wrong for
other reasons.


 同意原則が要請する行為というのは、その行為をしないことがある人々にとって、不条理である場合であり、他の理由で間違っていると判断されれば、その行為の不正性がその行為をしないことに同意する十分な理由になるから、同意原則は、他の理由で不正がある行為を要請することはない、と。

その行為が不正であることが、行為をしない理由になるところがポイント。で、

思考実験3

次郎ではなく、自分が救出される立場であり、自分の足を犠牲にして、太郎の命を救うか、自分の足を守って、太郎の命を救う状況にある場合。


思考実験2の場合、あのような仕方で次郎の足を犠牲にすることが不正であったから、それが理由となって、太郎は命を落とすのもやむなしという選択に同意する理由があったわけだが、今回は、自分が自分の足を犠牲にすることは不正とはいえない。確かに、自分は自分の足を犠牲にしないことも道義的に許されているが、しかし、道義的に許されているからといって、太郎にしてみれば、自分が太郎を見殺しに、自分の足を守ることに同意する合理的な理由はない。従って、同意原則によれば、自分は自分の足を犠牲にして、太郎の命を救うべきである、という結論になる。

すこし場面を変えると、例えばの話、今日、映画見に行かないで、そのお金を遠方の困っている人に寄付すれば、多くの人の命が救われたり、あるいは、病気にならなかったりするわけだ。最貧国で困っている人々に比べれば読者はたいてい金持ちで、それで救われる命、治る、防げる病気は山ほどあるだろう、と。


And, though the rich are legally entitled to all their property, they may be morally entitled to much less than that. Kant writes:


確かに、法的に所有権で守られているわけだが、道義的にはそんなそれほど資格はないかもしれん、と。
カントさんも、

one can participate in the general injustice, even if one does no injustice. . . even acts of generosity are acts of duty and indebtedness, which arise from the rights of others.

不正をしなくても、不正に手をそめてしまっていることもある。気前よくすることも義務や債務であり、それは他人が持っている権利から生じるのである、と言っておる、と。

 青春の若い日、だれもで地上の貧富の格差ーーー世界のある地域では、一方で、貧困で飢え、また病に苦しむ人がいる 他方では、のうのうとした生活をしている自分、あるいは、贅沢の極みを尽くした人々がいるのは何かおかしいのではないか、と感じたことは、あるのではないだろうか?その直観というか、良心というか、そうしたものを大人になるにつれてたいていは、どこかに置いてくるのであるが、しかし、カントさんはずっと持ち続けて、理由付けをしようとしているわけですね。

 その筋道、理論構成や程度は違っても、現代でも、世界の多くの論者が唱道し実践している、ということは、しかし、大人になっても忘れてはいけないことなのだろう、と思う。

でも、まあ、そこまで要求するのは、さすがに、行きすぎた、ということであれば、

CP3: It is wrong for us to treat people in any way to which they would not have sufficient reasons to consent, except when, to avoid such an act, we would have to bear too great a burden.


他人(ひと)が同意する十分な理由がないような仕方で、その人を扱うのは間違っているが、負担が重すぎる場合は別 というように原理を改訂するしかないが、重すぎる負担とはどの程度かについては、別に議論しなければならない、と。

 こうすると、他人が合理的に同意できなくても、正しい行為ということがあることになるが、それは、道義的に要請されていない、そうしても(しなくても)いい、許されている、という弱い意味で正しい、というだけである、と。合理的に合意できないからといって道義的に要請される、というわけではないが、しかし、だれもが原則に基づいて、合理的に合意できる行為というのは、それでも可能であろう、と。それでも、同意原則が厳しすぎるようにも思えるが、しかし、それは、仮に道義的に要請されなくてもする必要があることが沢山ある、ということを意味するにすぎず、驚くに値しない、と。

 いずれにせよ、たいていの場合は、誰かが合理的に同意できない行為をするのは間違っているし、ある行為が他人に影響を与える場合、その影響をうける関係者が合理的に同意できる選択肢が一つしかなければ、その選択肢を選んでその行為をすべき、強力な理由がある、とは言えるであろう、と。

 もっとも、すべてのひとが合理的に同意できル行為でも、間違った行為というものもありえるから、他の原理も探求しなくてはならないとして、カントの他の定式、他人を道具に使うな、他人(の尊厳を)尊重せよ、普遍的格率などを検討していくのであるが、それはまた気が向いたとき。