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日誌(2.23)コンクラーベ

2013-02-24 09:51:10 | 日記
2月23日 (日曜日)  晴れ

昨日は自治会の同班のお宅に御不幸があって
いきがい芸能祭にいけなかった。
にぎやかだったと30期の方に聞いた。
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個人にとってはどうでもいいことなのだが
ローマ法王選出の”コンクラーベ”とは?・・・
ちょうど、毎日の余録のコラムに・・説明があった!



ローマ法王を枢機卿の3分の2の多数決で選ぶ…
毎日新聞 2013年02月21日 

 ローマ法王を枢機卿(すうききょう)の
 3分の2の多数決で選ぶことになったのは12世紀である。
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 その100年足らず後には「コンクラーベ」、
 つまり「鍵をかけた部屋」に枢機卿を集める密室選挙方式
 グレゴリウス10世の回勅(かいちょく)によって公布された

▲目的は枢機卿に監禁の苦痛を与えることで選出を早めるためだった。
 というのもグレゴリウス10世選出には2年9カ月もかかり
 怒った人々が枢機卿を厳寒の野外に引き出してようやく決めさせた経緯があったからだ。
 だから回勅の定める枢機卿たちの待遇も厳しい

会場に入室後3日で決まらねば、次の10日間は1日2食、
 次はパンと水とワインだけの食事になる決まりだった。
 外部との連絡が禁じられるのは同じだが、
 夜は宿泊所で寝るなど条件は緩和された今日のコンクラーベである


今月で退位するベネディクト16世の後継を決めるコンクラーベは
 来月後半の予定を大幅に繰り上げて行われる見通しという。


 老齢を理由に異例の退位表明で世を驚かせた法王だが、
 激変する時代に全世界のカトリック教会を率いる心身の負担は余人には計り知れない

▲ベネディクト16世は退位表明後にバチカン内部の対立を戒める発言をし、
 教会改革を後継者に託したかたちだ。

 さしあたり後継候補にはここ2代法王を出していない
 イタリアの有力候補が取りざたされる一方、
 南米など初の非欧州出身の法王誕生への期待も語られる

前回コンクラーベでは2日目に法王が決まり、
 会場外に白い煙の合図で知らされた。
 またまた12億の信者が息を詰めて見守るシスティーナ礼拝堂の煙突である。


★ローマ法王の選出って大変なんだ!
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行かれた方も多いだろう・・・

システィーナ礼拝堂は、
ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂。
サン・ピエトロ大聖堂北隣に位置するその建物とともに

ミケランジェロ、ボッティチェッリ、ペルジーノ、ピントゥリッキオら、
盛期ルネサンスを代表する芸術家たちが内装に描いた
数々の装飾絵画作品で世界的に有名な礼拝堂である。

とくにローマ教皇ユリウス2世の注文で
ミケランジェロが1508年から1512年にかけて描いた天井画と、
ローマ教皇クレメンス7世が注文し、
ローマ教皇パウルス3世が完成を命じた、1535年から1541年にかけて描いた
『最後の審判』はミケランジェロの絵画作品の頂点とされている。

もともとバチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂を
1477年から1480年にかけてローマ教皇シクストゥス4世が建て直させた建物で、
その教皇名にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられた。

この建て直し時には、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ギルランダイオらの芸術家たちが、
一連の内装フレスコ壁画を手がけている。

壁画に描かれているのは『旧約聖書』からの「モーセの生涯の物語」
ならびに『新約聖書』からの「キリストの生涯の物語」と、
歴代のローマ教皇の肖像画で、
これらは1482年から1483年8月にかけて描かれた作品となっている。

落成したシスティーナ礼拝堂で最初のミサを執り行ったのはシクストゥス4世だった。
このミサは聖母被昇天に捧げられたもので、
システィーナ礼拝堂を聖母マリアに奉献することを表明する式典でもあった。

シクストゥス4世以降、
システィーナ礼拝堂は宗教的施設とローマ教皇執務室という二つの役割を果たしてきた。
現在ではローマ教皇を選出する会議であるコンクラーヴェの会場としても使用されている。
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観光で行った時は、この中は薄暗かった。しゃべったりは禁止されていたが・・・

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