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圭子の音楽室

圭子の音楽レッスン日記&出来事

沖縄回想録:おまけ

2006-12-02 00:08:06 | 沖縄回想録
沖縄県以外の人を内地の人やヤマトの人・・・という。
おじー・おばーとは、おじいちゃん・おばあちゃんのこと。
お兄さん・お姉さんをニーニ・ネーネという。ちゅらむんとはきれいとか、かわいいとかいう意味らしい。・・・後でわかって嬉しかった
三線とは、三味線と形はほぼ同じだけど少し小さくて錦蛇の皮が張られてあるもの、人工のものが多い。三味線はしゃもじのようなバチで弾くが三線は、獣の爪のようなものを人差し指に差し込んで弾く。弦を押さえる左手は、薬指は使わない。ほとんど琉歌に音楽をつけ弾き歌いをするけど、和歌が五七五七七に対して琉歌は八八八六で出来ている。
三線の譜面は工工四(クンクンシー)と呼ばれ弦を押さえる位置を表すのに漢字が使われている。何か作文用紙に漢字が並んでるのを見ながら弾くのです。一点C~H=合・乙・老・四・上・中・尺。二点C~G=工・五・六・七・八と表してある。弦は名前の通り3本しかなく、合・四・工が開放弦になる。それぞれの弦に呼び方があり、ヴァイオリンとは逆で低い方から一絃~三絃になり、男絃・中絃・女絃(ヲゥ-ジル・ナカジル・ミ-ジル)と音の高さのイメージで呼び名があるらしい。弦も絃という字で表す。調絃のことはチンダミと言う。拍はあまり種類がなく一マスが四分音符分にあたり、八分音符はマスとマスの間の線の上に書き表す。四分休符は一マスの中に小さな丸を一つ書く事で表し、ヴァイオリンにPizzやフラジオがあるようにそういった奏法もいくつかある。

一人で出勤

2006-12-02 00:07:27 | 沖縄回想録
私が暮らし始めたのは、沖縄県名護市(なごし)という場所。そこから、運天港(うんてんこう)まで車を走らせ港前の適当な場所に駐車し船に乗る。沖縄の日差しはスゴイのでサングラスは欠かせない他の先生方は船に乗るのは当たり前のようだったけど、私は毎日ワクワクして乗っていた。新任式の時は、体育館で紹介され中学生が全部で20人いなかった。小学校や幼稚園も同じ敷地内にあるので、みんな集まって、照れくさそうにこちらを見ていた。みんなとっても素直そうな子ばかりだ職員室でデスクに案内され、私は中学生全員と小学生の3年生以上を受け持つ事になった。生徒達が職員室の窓に集まってこっちを見ている。笑いかけると照れくさそうに隠れたりしていた。積極的な女の子が一人私に話しかけてきて、先生は内地の人でしょう?と聞く。私は内地という意味がわからなかった。熊本県からきたのよ!というと沖縄県以外の事を内地というらしい・・・。いきなり腕を撫でられた何?と言うと・・内地の人は色が白くて毛深くないし肌がキレイさ~と言う。14歳の女の子は、そういう事に関心があるらしい・・・色が黒い事にコンプレックスを持っているようだった。でも私から見ればとても健康的でエキゾティックな魅力があると思ったけれど・・・。小学5年の元気な男の子が先生!手を出して!というので何?と言って手を出すと・・・何か動いた。見るとピンクがかったヤモリだった。こんな色のがいるんだ~としっぽを持ってながめてしまったら、その子は、先生はコワくないのか?と聞く。全然平気よ!と言うとびっくりしていたびっくりさせたかったみたいで残念そうにしていた。子供達はすぐになついてくれ、授業じゃない時も職員室や音楽室に集まってくる。私の居場所の音楽室は2階にあったが、ベランダからは、エメラルドグリーンや天気によって深い藍色になる海を見下ろせる。なんて素敵なんだろう!と・・・こんなきれいなとこがあったんだ~と感動した。子供達が先生!これ弾いてあれ弾いて!といろいろ譜面を持ってくる。そのうち自分でも弾けるようになりたいといい始め、授業以外の休み時間や放課後の船の出る時間まで、ピアノを一人ずつわずかな時間だけどみるようにした。島の子供達は、都会の子のように、習い事など出来ない。だから学校が大好きで本当に熱心でがんばり屋さんが多い。スゴイ上達ぶりだった。島の子供達はみんな三線(サンシン)が弾ける。島のおばーやおじーと言われる人達に習うのだ。「ピアノを教えてもらう代わりに私は先生に三線を教えてあげるさ~」と言い、持ち方からすべて教えてくれた。島の子供達は、何かとても人間味に溢れ、あったかいみんな音楽が大好きな子ばかりだった。特に合奏をやりたがっていた。こんな小さな学校でも楽器はいろいろ揃っている。今までは音楽専任がいなかったので、使いきれずにいたようだ。沖縄は小さな島が沢山あるため、音楽・美術・家庭科の専任がすべてに配置されないようなのだ。ちょっとわかる他教科の先生が兼任することも多いらしい。だったらもっと採用すればいいのに!と単純に思うが・・・予算の関係らしい・・・。いつも芸術教科は最初にカットされるからムカつく!悲しい現実だけど、今自分がここにいる間だけでも、私が出来るすべてをこの島の子供達に伝えたいと思った。続く・・今日のおまけは沖縄の言葉と三線(サンシン)の事!

沖縄回想録:おまけ

2006-11-25 00:23:18 | 沖縄回想録
沖縄そば・・・豚骨とかつお節でとったダシに塩としょうゆで味を調えたつゆ・麺はうどんのようなきしめんのような少し縮れた麺です。トッピングには、豚のバラ肉の塊を甘辛く煮て味付けし2~3センチの厚さに切った物と沖縄かまぼこ・ねぎがのっかっています。好みで紅しょうがやこーれーぐすという島唐辛子の泡盛漬けの香辛料を入れます。*泡盛とは、沖縄を代表するお酒です。

ついに着きました

2006-11-25 00:21:17 | 沖縄回想録
車と共に乗ったフェリーで一夜を過ごし、朝9時に那覇港に着くと、港に「ようこそ沖縄へ」とか書いた幕のようなものが見えなんか賑やかだ!よーく見ると圭子先生!とか書いてある。えっ私のこと?と思いながら船から下りると教育事務所の先生と一緒に赴任先の男の先生方が引っ越しの手伝いをしてくれるとのことで出迎えてくれた。何かとっても嬉かったお疲れでしょうと私の車を代わりに運転してくれ、私は事務所の先生の車に乗せてもらい港を後にした。途中少し早目の昼食を沖縄そばのおいしいお店でとり、初対面だったけどこれから一緒に仕事する先生方といろんなおしゃべりもした。「やっぱり内地の人は違うさ~」とか「ちゅらむんな先生が来て生徒たちも喜ぶさ~」とか話していたけど沖縄の方言がわからない私には何か中国語のように聞こえた。新しい新居に着くと重い荷物もさっさと運び上げてくれ、一番嬉かったのは、大きな窓の多い部屋でカーテンもなかったので、どうしようと思っていたら事務所の先生の奥様が取り合えずこんなんでよければ使ってちょうだい!着替えたりするのに困るし落ち着かないでしょう?とカーテンを準備してくれてたことだ夕食は近くのステーキを食べさせてくれるお店にみんなで行った。びっくりするほど安くておいしかった翌日に役所関係の手続きをすべてすませ、子供がお世話になる幼稚園と登園前に通う学童保育の先生にご挨拶に行き準備も整った1週間後に私のママが息子を連れてきてくれる。翌日から出勤だ!社会の先生が初日は車で迎えに来てくれ赴任先の学校へ渡る小さな港までの道順を案内してくれた。第八古宇利丸という小さいけれど2階建ての船で15分位の島だった。エメラルドグリーンの美しい海の色と船から出る真っ白い泡があまりにきれいで吸い込まれるように見つめてしまった。どんな子供達がいるんだろうな~なんか小説に出てきそうなこんな場所で子供達と音楽すると思うと期待に胸が膨らみ私は音楽の先生なんだ~という実感と共に責任を感じながら学校へ向かったのでした。古宇利島に着いたのはいいけれど・・・スゴイ坂の上のてっぺんに学校はあった。うわぁーこれヒールなんかじゃ痛くて歩けないと思っていたら、島の人が来て、先生!今日はこれに乗ってくといいさ~!と声をかけてくれ、何かスゴイ車が出てきた。運転席側のドアはないし、下も見えるナンバープレートもついてないえっ!これ動くの?って思ったけど荷物も持ってくれ助手席側のドアを・・こうしないと開かないさ~と1回蹴って開けてくれた。私は点目状態のまま乗り込み、5分位で学校へ着いた。明日からはヒールでない歩きやすい靴でこないと毎日の事だし続かないぞ~と思ったのでした。続く・・今回から沖縄関連のおまけがつきますからそっちも読んでね今日は食べ物です。続く・・

最終試験

2006-11-18 01:05:27 | 沖縄回想録
2次試験は、集団面接・・・。まず一人ずつの自己紹介が終わるなり、なぜ沖縄を選んだのですか?といきなりふられた現実的本音もあるけれど・・まず、一度旅行で訪れた時の印象が強く残っていた事・沖縄の独特な音楽文化への興味・今まで知ることのなかった音楽文化のある中で、音楽の専門家として広がりをもちたいということをアピールした。沖縄の人は、他県の者に対してとても好意的な人と、歴史的な面や教育環境等でコンプレックスを抱いていて中々受け入れてくれない人とに分かれるらしい・・・。ここまできたら後は縁があるかないかのどちらかしかないと思い沖縄を後にした。1週間後教育委員会から来春からの採用の電話がかかり、まず、すぐ赴任出来るかどうか聞かれた。沖縄は本島以外にたくさんの島があり、北のほうに位置する古宇利島という場所だった。住居や赴任するためにかかる移動手当はすべて出してくれるとのこと!ありがたいことだ!ヨーシいよいよ行くぞ~と決めた。父は、少し淋しそうにしていたが、やると決めたことは必ず実現させる私の頑張りを認めてくれ頑張って行ってこい!と言ってくれた。私が赴任するにあたっていろいろ連絡をして下さる教育事務所の方に一度会いに行くことにした。住居はすでに決まっていて、見せてくれた。4人家族の先生が住んでいらしたと言う事で、息子と2人で暮らすには十分すぎる広さ・・・2階だったのでテラスから美しい海に夕日も見ることが出来る。辺りがとても静かなので波の音を聞きながら眠ることができる部屋だった。いいね!いいね!って感じだった。息子の残り1年の幼稚園の事と小学校の事等も相談した。私一人で育ててると話すと、いろんな手当てのことも教えてくれ、まず赴任先の学校のある島へは、朝7時10分発の船に乗らなければいけないが、そんなに早くからやってる幼稚園はないそこで、保育園で朝早かったり帰りが遅かったりする共働きの両親のために、幼稚園や小学校の開校時間まで預かってくれ、時間になるとそれぞれの場所まで送迎してくれるシステムを紹介してくれた。そういうものがある社会背景は、沖縄はほとんどが共働き夫婦で一人親の家庭もものすごく多く、学校の先生という職業はとても沖縄では理想的な職業で恵まれていると話してくれた。又息子と二人の生活が始まるが、この時は、生活面での不安はもう全くなかった。むしろ、これまでは音楽だけに関わっていればよかったけれど、これからは教育全般になるので、勉強しなければならない事は山ほどあった。音楽の好きな子嫌いな子・・・いろんな子がいるわけだし、学校生活を共に過ごすわけだから・・・教壇に立つのも教育実習以来だし・・・・何か先生って柄じゃない私にできるかな~とドキドキしてきた。でもこうなったからには後には引けない・・・。そして、大切な楽器と取り合えず、すぐに生活できる物だけ車に詰め込み、船で九州から沖縄へ渡ったのです。続く・・

いよいよ沖縄へ

2006-11-11 08:01:25 | 沖縄回想録
沖縄に移り住もうと思ったからには、いろいろと暮らすためにリサーチを始めた。一年を通しての気候・食文化・歴史・方言等など・・・教員採用試験は、一般教養・専門教養・実技試験が一次テストだ。とにかく、ここをクリアしなければ始まらない専門教養も幅が広いので、毎日新しい事を10項目ずつは必ず覚えようとマイノートを作った。学習指導要領と呼ばれるものも中・高と学年別に書けるまで覚えた。たいした事が書かれてるわけじゃないけど、これが日本の音楽教育の現状だと思いながら・・・。実技試験はピアノと弾き歌いだったので、毎日同じ曲をさらった。問題は一般教養だ。何が出るか絞れない毎日の新聞やニュース教育関連記事等は欠かさず目を通した。とりあえず一年準備し受けてみた。沖縄ということで、受験生も独特の雰囲気だ。専門教養については9割は出来た。実技も副科ピアノのわりには、私・・上手い方じゃんって感じだった。問題は一般教養だった・・・問題をみるなり・・・なんじゃこれは?だった。すべて沖縄に関わる問題ばかり・・・うりずんとはいつの季節のことか?とか琉球王朝時代の歴代の王について・・・とかちょっとかじった位の知識では解答欄を埋めることは出来なかったもう今回は見送りだと思った試験の待ち時間の時におしゃべりし仲良くなった人が、試験の後、でっかいステーキを食べさせてくれるお店に連れて行ってくれた。その人は、大学生活を東京で過ごしたらしく、意気投合した。沖縄の人ってとても気さくで人なつこい感じを受けた。翌日の夕方の便で帰る予定だと話したら、じゃあ!・・・と、首里城やきれいな海を眺められる所に案内してくれる事になった。連絡先を教えあって、結果がどうであろうと連絡しよう!と約束して別れた。途中本屋に寄り沖縄関連の本を何冊か買って帰った。ここでしか手に入らないから・・・一次試験結果は、やはりダメだった。一般教養が痛かったはずなので、次回に向けて、とにかく沖縄に関することはすべて答えられる位になろう!と思った日本の歴史と照らし合わせながら覚えていった。沖縄の独自の音楽もたくさん聴いた。そして自信満々で2回目の試験・・・。今回は一般教養は満点の出来だ。専門も些細のミスがなければ満点だ!絶対落ちるわけがないという手ごたえだった結果は一次試験通過の知らせだった。ホントに嬉しかった。次は2次試験・・続く・・

自分への疑問

2006-11-04 00:04:59 | 沖縄回想録
衣食住の心配もなく、必要な物も自分で買えるようにはなったが、家賃にしても高熱費にしても、息子のシッターさんへのお給料もすべて父のおかげだ。休みの日は息子との時間にしていたが、それも不定期だ。1年経とうかとしていた頃、息子の喋り方の異変に気がついた。少しどもりが出てきたのだ。二人きりでよーく話すとママと二人で暮らしてた時の方がよかったと言うのだ。「どうして?ママと二人だと夜遅くまでお仕事についてこなきゃならないし、ごはんだって簡単な物になっちゃうし、欲しいものだってすぐには買えなかったし」・・・・断然今の方がいいはずなのに・・・と思った。それでも、息子は前の方がよかったと言うのだ。その時私は、はっ!と思った。結局今の私は、子供のためにと言いながら、自分での責任を果たしていないように思った。振り返れば父の反対を押し切り結婚し子供をもうけ、やっていけなくなり離婚を決めたのに、今の私は自分で何の後始末も出来てない事に気がついた。その時から、子供が学校へ上がってからも同じ生活リズムで動ける仕事・音楽・安定した収入と保障等がある仕事・・・そう考えてたどり着いたのは学校で音楽の専任として採用される事だった。熊本県内はまず考えなかった。なぜなら父との関係が根強いからだ。私は実家にいれば、院長先生のお嬢様と言われ、父がちょっと頼めばどこかの私立学校へでも教員として入れる環境だったし、県立への採用試験だって、そういうのはないと言いながら多少なりともある事は知っていた。私の事で父に頭を下げさせたくないし、そういう義理はない方がいい。そこで、私は、私だけを見て判断してくれる場所で正面から試験を受けようと思い、いろいろ考えた。都会の生活には精神的疲れを感じていたので、自然から受けるパワーを感じながら息子と生活できる場所・・・そうして選んだのが沖縄だった。一緒に音楽の仕事をしていた先生は、どうして?お父様に甘えたらいいじゃない!女一人で子供を育てていくのはホントに大変だし、熊本なら守ってもらえるのに・・・と言われた。でも先生は昔から私の性格を知っているので、そう言ってもあなたは言う事きかないもんね!いつまでも童顔でけいこちゃん!てイメージしかないけど、頑固で強いんだよね~と先生は微笑んでいた。その時から、教員採用試験の準備勉強が私の生活の中に加わる。何だか堅苦しい文章を暗記しないといけないのが苦痛だったが、日本の音楽教育がどれ位のレベルで考えられているのか、義務教育の中での音楽というものがどういうポジションなのかを知る機会になった。その内容はかなりショッキングなものだったのだ。続く・・・

毎日の生活

2006-10-28 01:12:26 | 沖縄回想録
午前中は、医院の受付の仕事を手伝った。全然違う世界・・・。お年寄りが多いので、おしゃべりの相手も大切な仕事の一つだった。入院してる方はほとんど誰も面会に訪れないような方ばかりで、淋しそうだった。何か物足りないと感じるのは何でだろう?と毎日思っていた。音楽がないのだ。そこで、全階に音楽を流してみたらどう?と提案した。どんな音楽を流すかは任されたので、季節・天気・時間等を考えながら選曲した。しばらくすると、患者さん達の表情が柔らかくなってきた。血圧が安定してきた人もいたようだ。病気と音楽との関係について、読んだ本を思い出した。当時音楽療法という言葉が聞かれ始めた頃だった。県立図書館へ行き、その関係書を読みまくった事例はほとんどが外国のものだったが、興味ある内容だった。そんな事もしながら、午後は大学オケのトレーナーの仕事や先生のお手伝い・演奏の仕事などこなした。この大学オケはとても大変な仕事だった。初めてヴァイオリンを持つ人ばかりに1年後定期演奏会が出来るレベルにして欲しいとのことだった先生がストバイパートを私がセコバイパートを担当した。基礎をじっくりやっていたら時間が足りない。かと言って、形にだけするのでは長続きせず卒業したらやめてしまうだろうと思った。どうしたらいいんだろう・・・ととても悩んだ。先生と間に合わなくてもいいから基礎をしっかり指導しよう!って事にしたが、演奏会の曲弾けるようにならなかったら先生!どうすると言ったら、その時は私達で頑張るそれでいいよ!いい加減な事はしたくないからね!とおっしゃった。でも、みんなとても頑張って、トラにも入ってもらい旗揚げは成功し、大学側は大喜びだった。息子の方は、幼稚園から帰ると幼稚園の先生を退職したおばさまのシッターさんと買い物に行ったり、公園で遊んだり、お勉強したりして私の帰りを待っていた。私もその間安心して仕事に専念できた。バレエ公演やオペラ公演・美術館コンサート等の企画が豊富で仕事はたくさんあった。音楽での仕事が増えて医院の受付ははずしてもらった。いい経験になったが私の本来の仕事ではないから・・・。そんな恵まれた毎日を送る中で、息子の変化と、自分への疑問が生まれた。続く・・・

卒業後・・・

2006-10-21 00:20:53 | 沖縄回想録
卒業後は、午前中は普通の仕事・午後は音楽教室の講師・音楽事務所に登録して、不定期のレストランやイベント・オケのトラなどやって生活をつないだ。事務所の仕事はほとんどが夕方~夜なので、お弁当を作って子連れで行き、楽屋で待っているよう言っていた。とても人なつこい子供だったので、マネージャーやオケに連れて行けば、舞台スタッフのお兄さん達が相手して遊んでくれた。最初は子連れかーとか言われて嫌な事もあったが、そんな事・・・生活を考えればなんて事なかった。そんな・・その日暮らしのような事をしてる私に父が実家に戻って、生活したらどうか?と言ってきた。何より父は孫の事が心配なのだ。自分が父親の代わりになって、山や海等にも連れて行き男の子らしくなってほしいようだった。父は開業医だったので、従業員の人達もたくさんいたので、保育園ではなく、幼稚園にも通えるし、学校行くようになってもカギっ子になることもない。・・・とにかく息子の事を一番に考えるべきだと言われた。そうすることが子供の生活リズムにいい事は十分わかっていた。とても悩んだが2~3ヶ月考えて、そうしようと決めた。私も自分の責任だと気を張って頑張ってはいたが、かなり疲れ、正直心細くなっていたのは確かだった。久しぶりの実家での生活・・・私は音楽の勉強のために中学から上京し、1年間の親戚の家での下宿後、年子の妹と二人で親戚の家の近所で二人で暮らし始めたので実家には小学生までしかいなかった。自分の部屋は時間が止まったようでなんか変な感じだった。掃除をし、息子と二人の部屋を作った。幼稚園や役所関係の手続きがすむと、息子の幼稚園生活が始まった。息子は保育園じゃなく幼稚園なんだと得意気だった。子供って面白いもので、保育園は預けられるとこ!幼稚園はお勉強に行くとこ!と感じていたようだ私も昔お世話になった先生のお宅へご挨拶まわりをし、音楽でのつながりを求めた。帰郷したことをとても喜んで下さり、仕事も紹介してくれたり、地元のオケにも団費なしの特別待遇で入れてもらえた。そのかわりセコバイのトップをし、鍛えられた。団に演奏依頼がくればコンミスである先生と共に動いた。先生がウィーンに1年間いらしてお留守だった時は先生の生徒さんを30人お預かりして、指導の経験もさせて頂きとても勉強になった。私は周りの人に本当に助けられてばかりだった。続く・・・

なぜ沖縄だったのか・・・:20代

2006-10-14 09:39:09 | 沖縄回想録
今日は私の41歳の誕生日。39から40になる時はとうとうか・・・って感じだったけれど、ブログも始めた事だし、沖縄回想録というテーマで、これまでいろんな事があった事を何となく振り返って思い出してみようと思った。沖縄の事に話を移す前に、20歳あたりの自分から振り返ってみます。この20年はホントにいろんな事があった。私は親の反対を押し切って、音大時代に結婚・離婚を経験している。長男を産み、普通プラス2年がかりで卒業した。こんな頑固娘に父はとにかく卒業するための費用だけは出すからという思いやりをくれた。わざわざそんな苦労する事ないのにとさんざん言われたが、自分自身で選んだ事だったので後悔など全くなかった。子供を保育園に預けバイトと大学との往復だった。保育園は少しでも子供が熱を出すと預かってくれない。そんな中で、当時40歳位の保母さんで、とてもよくして頂いた方がいて、少し位の熱なら私が見るから、本当に休まないといけない時もあるから、いってらっしゃい!そして、頑張って卒業なさい!と言ってくれた。本当にありがたかった。今思えばままごとのような夫婦生活・・・。好きで結婚したものの、安定した仕事でない役者だった当時の夫は、生活のために何の仕事でもよいから稼ぐ事はついにしなかった。私は、そんな様子を見て、好きとか嫌いとか、一緒にいたくないとか、淋しいとかそんな感情ではなく、とにかくこの子を育てるために離婚を決めた。養育費などもらうつもりもなかったけど、離婚は、すんなりとはいかなかった。以外に未練がましいのに嫌気がした。そんな姿は見たくなかったから。。。早く普通にミルクが買える生活をしなきゃ!と必死だった。そこから、子供と二人の生活の場所とさらに時給のいいバイトに変わった。残す2年の大学生活・・・同級生を見送り、一つ下の後輩を見送り・・・ホントに長い時を感じた。何が何でも卒業するぞという気持ちで・・・今思えば睡眠時間も平均3時間・・・。子供を寝かせてからの楽器の練習・・・よく体がもったな~と思う。そんな生活を送りながらもやっと卒業の日を迎えた時はホントに嬉かった。息子も3歳になろうかとしていた。卒業式の朝息子も一緒に行った。入り口に何も言わず立っていた父には驚いた。来るなんて全然聞いてなかったので・・・。おめでとう!よかったな!と言ってくれた。最後まで在学できたのも父のおかげ・・・。面倒かけてごめんなさい。ありがとう!と照れくさかったけど、何とか言えた。続く・・・