里山悠々録

里山の家と暮らし、田んぼや畑、そして水墨画のことなどを記録していきます

修復終えた庚申碑や念仏句供養碑の記録

2021年12月13日 | 暮らし

修復を終えた古碑群について、改めて記録に留めます。
ここは集落の中心からは外れ、幹線道路からも遠い場所にあります。
そのため、今では住民が目にすることは殆どないのが現状です。
昔、と言っても小生が生まれる遙か昔、百年以上前の話しになります。
ここは主な街を結ぶ主要道路になっていたのです。いわゆる古道です。
しかし、その後、幹線道路が変わってしまったため、今では廃道同然。
せいぜい軽トラックが辛うじて通れる程度となっています。
僅かの農地があるので2、3の関係者のみが通る機会がある程度です。
この古道沿いには当集落以外にも多数の古碑、お堂、地蔵、一里塚などが残されています。
これらは郷土愛好の有志によって史跡本として纏められています。
当集落の古碑群はこの古道側の小さな丘状になっているところにあります。


ここを昔から地元では「おかねさん」と呼んでいます。
意味は不明ですが、観音や寛(文)年が語源という話しがあるようです。
まず、路傍にあるこの小さな石仏。地蔵菩薩と思われます。


これも傷んでいたので補修してもらいました。
▢文ではっきりしませんが、寛文年間(1660年代)のようにも見えます。
持ち物がよく分りません。巻物と扇に見えなくもないですが。
そして、小高い丘に8基が並んでいます。


最も古いと思われるのがこの庚申碑(庚申供養塔)。
正徳元年(1711年)とあります。


次いで最も大きな庚申碑(青面金剛碑)。


元文四年(1739年)と確認できます。
青面金剛について少々調べてみると「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されるが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。」とあります。
この碑は中央に青面金剛明王、両脇に二童子。
三眼の中央の眼はよく分らなくなっています。
腕が6本で、2本の腕で合掌し、他の3本の腕で武器などを、1本の腕で人間を持っているようです。
剣と人間は確認できますが、他ははっきりとしません。


頭髪に蛇がとぐろを巻いたりすることもあるらしいですが、確認できません。
足元も形ははっきりしませんが、おそらく邪鬼を踏みつけているのでしょう。
その下には三猿(申)「見ざる、言わざる、聞かざる」が刻まれています。
これは庚申碑によくある形だと言います。


もう1基の庚申碑(庚申塔)


年号が全く確認できません。
碑の配置からして前者に近い年代だと思われます。
他は南無阿弥陀仏と刻まれた供養碑。
念仏句供養碑、名号碑(六字名号碑)などと呼ばれます。
最も古いと思われるのがこの供養碑。
天明2年(1782年)と確認できます。


次いでこの供養碑。
▢化4年でよく確認できません。この並びから見ると文化4年(1807年)か。


あとは何れも明治年間のものです。
明治29年(1896年)銘。


明治30年(1897年)銘。


明治30年(1897年)銘。


明治年間のものには何れも供養の対象者と建立者名が刻まれています。
氏名がはっきりと確認できるのは一部です。
近隣には先祖のようだと言う方はいますが、今、確証をもって言える方は存在しません。
父は亡くなって27年になりますが、ある程度のことは知っていたかもしれません。
しかし、当時、残念ながら聞く機会も余裕もありませんでした。
ところで、改めて「庚申」とは。
十干(甲乙丙・・・)十二支(子丑寅・・・)の組み合わせによる庚申です。
60の組み合わせで順序を作り、年や日が示されます。60で一巡し元に戻ります。
つまり60歳で還暦とするのはそのためです。
因みに庚申(かのえさる)は57番目。
庚申信仰について少々調べてみると、元々中国の道教思想に由来する禁忌信仰で、庚申の夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身を慎めば災難から逃れられるとされます。
人間の腹中には大害をなす三尸(さんし)というものがいて、庚申の夜に人が眠ると体内から抜け出し天帝に日頃の罪過を告げに行く。すると天帝は人を早死にさせてしまうので、長生きを願うなら眠らずに起きていよと教える。
この信仰は既に平安時代には貴族間で行事化されていたと言います。
東北地方の庶民の間に広がったのは江戸時代の庚申講。
庚申の日に講員が集い、庚申を祀って御神酒、餅、小豆飯、精進料理などを供え、飲食を共にして夜を明かしたと言います。
本来庚申の日に守らねばならぬとされる事柄は多いが、実際には信仰の名のもとに娯楽交流の場となっていったようです。
当地の庚申碑が庚申供養塔となっていることからすると、庚申講は先祖を供養する場でもあったと思われます。
当集落では相当前に庚申講はなくなっており、父の時代にも庚申講があったとは聞いていません。
せいぜい明治大正期までと言ったところではないでしょうか。
ただ、近隣集落で、庚申さんと称し館に集い飲食するごく少数のグループがあると聞いています。
一方で、当集落では念仏講が形式的ではありながら続いています。
仏事の互助組織としての契約講があり、その流れで念仏講があったと思われます。
契約講、念仏講何れが先なのかは分りませんが、契約講の帳簿は明治時代のものが残っています。
現在は仏事も葬祭場で完結するため、実質形骸化しています。
小生が知っている念仏講は春彼岸の入りに集落住民が集い、皆が大きな数珠を回し南無阿弥陀仏と唱えるものです。
今は3月の第3日曜日に行われているものの欠席者も多い。
昔は、念仏講の時に契約講の取り決めごとの相談が行われていました。
現在は自治会が集落のほぼ全てを取り仕切っているため、講の解消は時間の問題と言えるでしょう。
かつての庚申碑や念仏句供養碑も、全てが講と直結していたとは言えないかもしれません。
先祖を供養し、住民の長寿と幸福を願う象徴として建立したようにも見えます。