そぞろ神の物につきて―日本列島徒歩の旅の記録

  (2008年 日本海側)
  (2011年 四国八十八ヶ所)
  (2014・15年 太平洋側)

2014年 徒歩の旅 第47日 大台町・JR 三瀬谷駅 へ

2016年02月17日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月26日(土) 晴 (紀北町・旅亭 美乃島~大台町・JR 三瀬谷駅
                           ~伊勢市・風見荘)




大台周辺で宿が取れず、伊勢神宮見学に都合のよい伊勢市に宿をとることにした。その結果、本数の少ない紀勢本線に拘束された日程となり、早朝出発となった。

4時、出発。ダウンを着用し、暗い中をヘッドランプで歩きはじめる。東天にトルコの国旗のような細い月。

10分で、江の浦トンネル(378m)。トンネル内には歩道なし。暗くてブレて写真撮れず。

4時30分、江の浦に沿って歩く。対岸の中ノ島の灯りが見える。月と明星が水面にも。


徐々に明るく。星は消え、今日も快晴の空。


4時40分、長嶋トンネル(401m)。


5時10分、東長嶋トンネル(250m)。


5時20分、片上湖の先は、


紀伊長島マンボウ道の駅。小休止。ここから、志摩半島の付け根を北上していく。


5時40分、荷坂峠入口。


道はジグザグを繰り返しつつ高度を上げ、山中へ。


山の朝霧も徐々にはれて、


6時20分、紀宝町も残りわずか。


ふり返ると、紀伊長嶋の海がもう遥か彼方に。




6時25分、荷坂トンネル(175m)。


民宿柴山のご主人が言っていたとおり、小坂峠に比べればやや楽に上れた。

6時30分、峠を越えると、大紀町。


6時40分、ゆるく下っていくと、路傍に、庚申さん、お地蔵さん、観音様(左から)の祠。


6時50分、熊野古道入口。


国道そばの林の中に、白いビーチボールのようなものが2つ弾んでいると見えたが、鹿の臀部で、あっという間に消えていった。

時々、霧が押し寄せて来て、寒いので、荷坂峠の上りで脱いだダウンを再び着用。










この気候が酪農に適しているのだろう。


7時20分、大内山牛乳の看板。


そういえば、熊野でも尾鷲でも、コンビニで飲んだのは大内山牛乳だった。

大内山と言えば、子供のころに活躍した大関がいた。2mを超す巨体で突っ張りが得意な力士だったが、小兵の栃錦に首投げで敗れた一戦ばかりが記憶されていて気の毒だ‥‥など思い出しつつ。

シャガの花が咲き、


水田ではカエルの大合唱。




8時30分、阿曽の集落へ。だいぶいいペースで下りてきた。コンビニにて大内山牛乳500㏄を飲む。

9時、大紀町案内図あり。暑くなってきたので半袖になる。


11時、道の駅奥伊勢木つつき館。


暑いので、売店で「たいやきアイス」というものを食べたら、記念にとストラップをくれた。


時間の余裕がありそうなので、道の駅の隣にある瀧原宮(瀧原宮のところに道の駅をつくった、が正しいか)に行く。




瀧原宮は、伊勢神宮の別宮だそうである。というか、瀧原宮というものがあることもここへきて初めて知ったという具合で、なんとも「もの知らず」である。

参道に杉の大木。


奥には社殿と、




若宮神社


土曜日だったが、参拝客も多くなく、落ち着いた雰囲気のお社だった。

その後は、暑い中を  再び大内山川に沿ってゆるく下り、


12時20分、大台町に入る。


12時30分、JR三瀬谷駅。今日はここまでで打ち切り。


1時間余り待って、紀勢本線で多気駅へ。参宮線に乗り換えて伊勢市駅へ。

15時20分、宿に着く。宿泊、素泊まり 2600円。

夕刻、徒歩にて伊勢神宮外宮(げくう)へ。駅からお宮への通りは、土曜日のためかなり人がいたが、時間が遅かったせいか、外宮にはそれほど人はいなかった。
外宮は、内宮(ないくう)に祀られている天照大御神の食事を司る豊受大御神を祀ったところ、だそうで、「げぐう」ではなく「げくう」と呼ぶのが正しい、とのこと。でも、ほとんどの人が「げぐう」と言っていたが。












正宮(豊受大御神)




多賀宮


土宮


風宮


小生、宗教心を持たぬゆえ、心が洗われる、とかいうことではないが、巨木と池などもあり、静かで落ち着いた気分にはなった。




歩数  59707歩    (累計  2420529歩)
距離  36.5㎞     (累計  1568km)
費用  4841円     (累計  256942円)

2014年 徒歩の旅 第46日  紀北町・旅亭 美乃島へ

2016年02月16日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月25日(金) 晴一時雨 (尾鷲市・民宿 柴山~紀北町・旅亭 美乃島)



8時20分、NHKの朝ドラ『花子とアン』を見て、ゆっくり出発。

尾鷲港の写真を撮って、


15分ほどで国道42号線に合流。直ちに歩道がなくなって道はジグザグの上りに。

9時5分、尾鷲トンネル(606m)。トンネル内も歩道なし。


9時15分、トンネルを抜けると紀北町。


9時30分、下りの途中に展望の良い東屋あり。小休止。銚子川を見下ろす。


9時45分、道の駅海山で小休止。




熊野古道を歩く人たちが数人集まっていた。
馬越峠への熊野古道伊勢路の上り口。前年に皇太子が来たせいか道路はとてもきれい。「皇太子殿下 行啓記念碑」というのがあった。天皇が出かけるときは「行幸」で、皇太子は「行啓」と言うのだそうだ。ふーん。






世界遺産効果か、道は整備されていて歩きやすい。


この辺には民話の種まき権兵衛にちなみ「種まき権兵衛の里」というのがあるそうだ。


壁画というかなんというか‥‥。




10時45分、相賀のスーパーで、今夜の素泊まり用食料を調達。

船津川に沿って行き、

11時30分、海山郷土資料館に立ち寄る。無料。




こちらの資料館は、熊野のそれと比較して小規模ではあるが、きれいに展示されていた。いろいろ珍しいものもあった。








天保13年のお触書の写し。


手書きの「百人一首。


旅の一座の看板。


「小学内国史」、明治発行の小学校歴史本。


「天明後米一俵價格表」は特に興味深かった。


ちなみに、
天明元年 (1732年)       17銭
明治元年 (1868年)     1円69銭
大正元年 (1912年)     8円32銭
昭和元年 (1926年 )   12円70銭
昭和20年(1945年)    60円
昭和53年(1978年) 17216円。

庭には、ツツジが満開。


また、釈迢空の歌碑もあり。大正元年(1912年)奥熊野を歩いた際の作。
「山めぐり二日人見ずあるくまの 蟻の穴にも見入りつつなく」
「波ゆたにあそべり牟婁の磯にきて たゆたふ命しばしやすらふ」
「北牟婁の奥の小村にわく水の かなしき記憶来たる午後かな」


12時30分~13時、一天にわかにかきくもり、通り雨。地下横断歩道入口の階段で30分雨宿り休憩。

13時20分、熊野古道 始神峠入口。


13時35分、三船トンネル(420m)。


14時、森の中から一気に海辺へ。


子供たちが、海辺で楽しそうに歓声を上げていた。


左が鈴島。


14時15分、道瀬トンネル。


隣に道瀬歩道トンネル(308m)。




海を見つつ歩き、


14時35分、古里トンネルにも、


歩道トンネル(208m)あり。


14時50分、古里海岸到着。時間が早いので、宿に着く前に、近くの展望台に行ってみた。
いくつもの小島が湾内に浮かび、絶景である。左、赤野島。右、丸山島。




15時15分、古里海水浴場にある宿に着く。宿泊、素泊まり 4320円。「旅亭」の名のとおり、贅沢な造りの宿だった。


歩数  34433歩  (累計  2360822歩)
距離  21㎞     (累計  1531.5km)
費用  5732円   (累計  252101円)



2014年 徒歩の旅 第45日  尾鷲市・民宿 柴山へ

2016年02月15日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月24日(木) 快晴 (熊野市・ユースホステル熊野市青年の家~尾鷲市・民宿 柴山)



6時15分、出発。海岸に出る。熊野灘青し。


まず獅子岩を見る。






今日も国道42号線(熊野街道)を辿る。

6時35分、浜担ぎで有名な木本神社。


鬼ガ城トンネルは自動車専用なので、歩行者は旧トンネル(鬼ガ城歩道トンネル)を通行するのだそうだが、そこへの道がわかりづらく、2人に聞き、民家を抜けて坂を少し上り、

6時50分、ようやく鬼ガ城歩道トンネル(509m)へ。


トンネルを抜け、


7時5分、パーキングで一休み。今日も暑く半袖になる。


42号線を辿るも、途中から高架の自動車専用道路になり、歩行者自転車通行止め。歩ける道路を探して橋梁の下を30分以上うろうろ。にっちもさっちもいかず困り果てていたところで、たまたま通りかかった車の婦人に尋ねて了解。地獄で仏ではないが、助かった。聞くところでは、自転車の旅行者もよく間違えるのだそうだ。さもありなん。

7時45分、なんとか国道へ戻り、


木材を積んだトラックなどが通行する、歩道のない山道を上っていく。


8時15分、熊野の山懐深く入っていき、




8時30分、振り返ると、ずいぶん上っている。


8時45分、ジグザグを何度も繰り返して、小阪トンネル(353m)へ。標高も300m余り。


トンネルを抜けて、少し急な下りの後は、大又川にそってのどかな山村風景の中をなだらかに下っていき、






9時50分、熊野きのくに道の駅。小休止。




売店で熊野の記念に「めはり寿司」(185円)を買って食べた。


その後、大又川をさらにたどり、

10時40分、崩壊地。台風によるもののようだ。


10時45分、「雨量通行規制」のゲート。


10時55分、矢ノ川(やのこ)峠標識。峠そのものの標高は807m。


熊野市の歩きももうすぐ終わる。


11時5分、大又トンネル(1626m)。トンネル内は、さすがに半袖ではちょっと寒かった。


11時25分、尾鷲市に入る。


山深き中を行く。


11時30分、弓山トンネル。


11時40分、「ひのきと魚のまち 尾鷲市」。


11時50分、矢ノ川トンネル(2076m)。通過に25分かかり、上着を着た。


その後は、矢ノ川に沿ってジグザグに下り続け、


市街地に入り、

14時20分、尾鷲湾を望む。


14時30分、宿に着く。宿泊、2食付き 6480円。

宿は、主に釣り人相手の民宿で、夕食は豪勢な魚料理だった。刺身や、煮たり、焼いたり、フライにしたり‥‥。
食後、女将さんとお喋り。ご主人が釣ってきて(知人や釣客がくれたりもして)、女将さんが料理するのだそうだ。尾鷲の人情や気風については、みんなのんびりしている、和歌山は貧しいので厳しい顔をしているのではないか、と。尾鷲といえば雨量が多いので有名だが、と言ったら、それは雨の粒が大きいからで(――本当かなあ?)、雨天の日が特別に多いわけではない、雨はみんな海に流れてしまうから、雨による災害はない、雪もめったに降らないし、気候はよいところだ、等々。楽しいひと時を過ごした。


歩数  50426歩  (累計  2326389歩)
距離  32㎞     (累計  1510.5km)
費用  6902円   (累計  246369円)



2014年 徒歩の旅 第44日  熊野市・ユースホステル熊野市青年の家へ

2016年02月14日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月23日(水) 快晴 (新宮市・ビジネスホテル紀州
                 ~熊野市・ユースホステル熊野市青年の家)






7時、宿を出て、国道42号線(熊野街道)に向かう。

途中、佐藤春夫成育の家跡や


丹鶴城(新宮城)跡など経由。




7時10分、熊野川に出る。大河である。


7時15分、熊野川大橋の中頃で、三重県紀宝町に入る。


橋を渡って、複雑な歩道橋などを道なりに複雑に通って、

7時30分、真新しい紀宝トンネル(679,5m)へ。


トンネル内は明るく、歩道も広く安心。2013年1月に完成。どうりで今までで一番歩きやすいトンネルのはずだ。


和歌山県は、誰かが言っていたが、「近畿地方一の貧乏県」とか。産業も、みかんの他に、林業や水産業の第一次産業がまず思いつく。あとは観光か‥‥。道路の状態もあまり良いとは言えなかった。それに対して三重県は北部が中京工業地帯だし、お伊勢さんもあるし、ということか。九州では宮崎県が「九州一の貧乏県」と言われていたのを思い出す。
それと、紀宝町では、小中学校の生徒が男女ともとてもよく挨拶をするのが印象的だった。自転車に乗ってヘルメットをかぶった生徒たちにも挨拶されながら行く。地域の財政状況は物心両面で反映されるのか、「衣食足りて礼節を知る」かな。

青空と新緑の中、国道42号線をずんずん行く。






8時5分、海に出て、ここからは海岸沿いに行く。輝く海は熊野灘。




ダンプは相変わらずかなりの数が走っているが、歩道がしっかりしているので、排気ガス以外は心配なし。

8時45分、道の駅紀宝町ウミガメ公園。今日は行程も短く、残り20㎞を切っているので、30分間大休止。大内山牛乳を飲む。






9時になったので、ウミガメプールで見学。




歩き出したら、白い藤の花あり。


9時20分、御浜町に入る。


9時40分、この辺りから、海岸線は「七里御浜」が続く。


9時55分、橋には42号線に歩道がないので、左手の細道にある「あたわばし」から。


再び海岸線。


10時30分、道の駅パーク七里御浜の歩道橋から白砂青松。






10時55分、熊野古道浜街道の「起請の水」休憩所。


手前にある「美姫漂着伝承の地」の碑。
「年若き美姫漂着し泉を汲みて化粧したと伝へられ里人呼んで化粧の水と稱した」とあり。


道祖神群。






11時5分、市木川にかかる新緑橋。


草刈りをしているお爺さんに挨拶したら、「どこまで行くのか」と聞かれ、北海道まで歩いていくと答えたら、「えらいことを考えるもんじゃのう」と言われてしまった。

11時55分、県道52号線との交差点の防風林の中にあった「巡礼の碑」。


「文化九申三月四日」とある。200年ほど前のものか。


12時、熊野市に入る。


12時20分、有馬一里塚。


12時25分、熊野市歴史民俗資料館見学(無料)。








熊野は、歴史的に、農業、林業、水産業といずれも盛んで、様々な道具類があった。鯨を捕る銛や、解体するための柄の長い大きな刃物など、珍しかった。林業では、太い幅の大鋸があった。葛飾北斎の富岳三十六景「遠江山中」で大工さんが使っているよりさらに大きなもの。農業では、脱穀機、千歯こき、箕、籠等々。興味深い資料が数多く陳列されているのだが、説明員の話では、さらに大量のものが倉庫にあるが、スペースがないので陳列できず、かなりのものが未整理のままとかでもったいない。また、古文書なども大学の研究者など以外では閲覧できないのだそうだ。民俗学の宝庫と言っても過言ではないのだから、もっと整理して多くの見学者にわかりやすく展示してもらえたらよいのにと思う。

14時、熊野灘の沖の一部が赤い。なんだろう?


14時10分、花の窟神社。
















ここの神社には本殿はなく、高さ70mの大岩壁が御神体。






「お綱掛け」という神事があるそうだ。


本居宣長の歌碑あり。
「木の国や花のいは屋に引く縄の長くたえせぬ里の神わさ」




14時50分、ちょっと時間が早いが宿到着。宿泊、素泊まり 2280円。

時間もたっぷりあったので、たまった衣類を洗濯したり(このユースは洗濯機使用が無料)、足のメンテをしたりした。
今日は天気もよく、暑いくらいだったので半袖で歩いた。2週間ほど前の寒さがウソのようだ。

歩数  35930歩  (累計  2275963歩)
距離  23㎞     (累計  1478.5km)
費用  3943円   (累計  239467円)



2014年 徒歩の旅 第43日  (休養日)那智、新宮見学

2016年02月13日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月22日(火) 曇 (新宮市・ビジネスホテル紀州に連泊)












6時35分、宿出発。新宮駅へ。

駅前に「熊野文化を彩る人たち」。


JR紀勢本線で、那智駅へ。

駅前に佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」詩碑。
「あ八禮 秋可ぜよ 情あらば傳へてよ
――男阿りて 夕餉にひとり さんまをくらひて 思いにふけると ‥‥」    


さらにバスで大門坂駐車場へ。


南方熊楠が3年間滞在したという旅館跡。


8時、神橋を渡って神域へ。


那智山案内図。


大門坂の杉並木と石畳を上り、熊野古道の写真を撮る。






多富気王子跡。




さらに。








振り返り。


実方院跡。


お土産屋が並ぶ路地を抜け、階段をあがり、


境内近し。


青岸渡寺の下を通り、


まず那智の滝(133m)を見るべく右手の三重塔の方へ。




滝を写そうとしたが、下部が樹木に隠れてしまうので、塔に上ることにした。拝観料300円。








その後、戻って青岸渡寺の方へ。振り返り1枚。










青岸渡寺。ここは西国33か所霊場の、第一番札所。






境内の大楠。


那智大社へ。






大社の隣の宝物殿では、特別展「熊野那智大社の至宝~熊野十二所権現古神像を中心に」を催しており、熊野十二所権現の古神像や那智山宮曼荼羅をはじめ多くの宝物が陳列されていた。入場料300円。


宝物殿を見に入っていたのは小生ひとりだけだったので、若い意欲的な女性の職員が丁寧に説明してくれた。古神像は、イザナミノミコトや天照大神がなぜか男神になっていた。彼女の説明では、織田信長による熊野の焼討ちの後、豊臣家による復興の際に、お抱え仏師に急いで作らせたため、とか。出来上がったのを見たら、依頼主もさぞ仰天だったろう、と。また、神々の顔が、いずれも目じりが吊り上がって怒ったような顔になっているのはなぜか、と一緒に考えたりした。
また、明治初期の廃仏毀釈の際にも災難があり、青岸渡寺の本尊は、那智山の下の村に一時隠された、とのこと。
那智権現の「権現」とは、神と仏とが一体となっているということを示していること。
西行の和歌「木のもとに住みけむ跡をみつるかな 那智の高嶺の花を尋ねて」の額があり、西行が 花山院の住まいの跡を訪ねた折の歌であること、等々。

次いで、参道を逆に下って、




那智の滝の直下(熊野那智大社別宮 飛瀧神社)にいってみた。








高浜虚子句碑。
「神にませばまことうるはし 那智の滝」


その後、バスで那智駅まで戻り、補陀落山寺へ。

浜の宮王子跡(浜の宮大神社)


ここは、『平家物語』で、平清盛の孫である中将平維盛の入水の旅立ちの地とされている。

大神社の境内の森は「渚の森」というのだそうだ。










「神武天皇頓宮跡」の碑あり。


その奥に、補陀落山寺。






補陀落船の模型が置かれていた。




補陀落渡海は、南の洋上に補陀落浄土を求めて、死を賭して漕ぎ出す信仰。碑によると、9世紀から18世紀まで25人の名が記されていた。補陀落渡海はここだけではないが、この地が最も盛んだった、とか。寿永3年(1184年)には、平維盛の名もあった。


その後、バスにて新宮へ戻り、熊野速玉神社に向かう。

新宮市案内。


神社への途中の民家の先に、明治末のでっち上げ事件である「大逆事件」に連座され処刑された12人の1人、「大石誠之助宅跡」の標石あり。


大石誠之助(1867~1911)は、社会主義者で、医者で、キリスト教徒で、偉大な人物である。2001年、新宮市議会により「非戦、廃娼を唱えた人権の先覚者として」名誉回復の決議が行われた。

熊野速玉大社へ。


神社の一隅に、佐藤春夫記念館があり見学。入館料310円。










佐藤春夫本人による詩の朗読のテープを聞いた。昔読んだ懐かしい詩もあった。
「少年の日」、


「秋刀魚の歌」、


「望郷五月歌」等々。


記念館の塀に記された「望郷五月歌」。


佐藤春夫句碑。
「秋晴れよ丹鶴城址児にみせむ」


熊野速玉神社。














熊野御幸の記録碑。




「後白河法皇御撰梁塵秘抄所載」碑。
「熊野へ参るには 紀路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
 廣大慈悲の道ならば 紀路も伊勢路も遠からず」


熊野速玉大社参詣曼荼羅。


熊野神宝館前の武蔵坊弁慶像。




新宮駅のそばには徐福の墓と公園があったが、今回は割愛した。

スーパーで食料を調達して、

16時30分、宿に戻る。宿泊、素泊まり 4000円。

宿で、今後の宿泊先の作戦を練った。尾鷲の先は「安い宿情報」の空白部で、本数の少ない紀勢本線をどう利用するか‥‥。「ポケット時刻表」とにらめっこした。

歩数  14445歩  (累計  2240033歩)
距離  記録外     (累計  1455.5km)
費用  7284円   (累計  235524円)

2014年 徒歩の旅 第42日  新宮市・ビジネスホテル紀州へ

2016年02月12日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月21日(月) 雨 (串本町・みさきロッジユースホステル
    ~那智勝浦町・JR紀伊浦神駅~新宮市・ビジネスホテル紀州)




7時35分のバスで串本駅へ向かうべく準備していると、Sさんがやってきて車で串本駅へ送ってくれるという。早朝からわざわざ有難い。感謝。車の中で、いろいろの話。日本一周をしていた若者を泊めてやり今でも付き合いがあるということや、財布を落とした旅の女性に金を貸したことや、自身の27キロオーバーの交通違反のこと、家族のこと等々。串本駅で、お礼を言って別れるときに、もらいものだがトンネルを歩くときに役立つんじゃないかと思って、と言って反射テープのたすきを渡された。いろいろ有難う。お達者で。


8時01分、串本駅発の紀勢本線で紀伊浦神駅へ。

8時45分、JR紀伊浦神駅。今日はここから。ゴアの雨具を着て、傘をさし、出発。国道42号線の熊野街道を、海岸線に沿って北上。


昨日と同様、本日も強風波浪注意報発令だが、昨日ほどひどい天気ではない。

8時50分、雨に煙る玉の浦。


渡船乗り場。


那智勝浦町案内図。


9時15分、玉の浦トンネル(322m)。白線のみで歩道なし。Sさんにいただいたタスキを早速着用。


9時45分、落合博満野球記念館の案内。


9時50分、太地町に入る。


太地町案内図。




9時55分、太地駅にて小休止。ダンプは、すさみの時ほどではないものの、相変わらず何台か通っている。こちらはまた別の現場からのもののようだ。

10時20分、遠くに町立くじらの博物館のモニュメント。


森浦湾。


10時30分、再び那智勝浦町へ。


市屋第二トンネル作業所入口を通過し、


10時35分、鯨浦トンネル。


10時40分、湯の浦トンネル。ここが通学路って!!


11時、湯川駅にて小休止。自販機の飲料の補充にやってきた男性2人に、ダンプのことで聞いてみたところ、高速道路のあちこちにある奥の現場と土やセメントなどを42号線で運搬すること、高速や国体のみならず、2012年の台風被害の復旧のダンプもあるとのこと。42号線は3年程前までは静かだったが、自民党の二階が高速道路を持ってきたので、いまや交通事故も多発し「死に(42)号線」と呼ばれている、と。これは先行き明るくないぞ。だがまあ、一喜一憂しても始まらず、淡々と歩いていこう。

11時10分、湯川案内図。ゆかし潟は大ウナギの生息地なのか?


左手に、若葉がしっとりと雨に煙って、絵のごときゆかし潟。注意報が出た割には、風はさほどでもない。






11時30分、湯川トンネル。ここは人道トンネル(旧湯川トンネル、278m)が右手にありホッとする。そちらを通行。


12時15分、「道の駅なち」にて小休止。隣接する那智駅には「日本サッカーの祖 中村覚之助 顕彰碑」。日本サッカー協会のマークの八咫烏は、熊野出身の中村覚之助にちなんだもの、だそうだ。


12時40分、熊野古道案内図。


その先、大狗子トンネル(170m)。


12時50分、白菊の浜。
 

海は荒れている。




12時55分、小大狗子トンネル(283m)。この新しい両トンネルはともに歩道あり。


13時30分、新宮市に入る。


13時35分、佐野王子跡。




熊野参詣道案内図。


神武天皇聖績狭野顕彰碑


14時10分、熊野古道高野坂入口。


15時10分、JR新宮駅。


15時20分、宿到着。宿泊、素泊まり 4000円。

しばらくして雨が上がったので、近くのスーパーへ買い物。缶ビールを買って、この旅で2回目の乾杯。雨の中、いささか厳しい2日間だったので、自分で自分を労った。
しかし、途中の浜にサーファーがいたのには驚いた。

明日は休養日。那智見学の予定。

歩数  30427歩  (累計  2225588歩)
距離  28km    (累計  1455.5km)
費用  7364円   (累計  228240円)


2014年 徒歩の旅 第41日  那智勝浦町・JR紀伊浦神駅駅へ

2016年02月08日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月20日(日) 雨 (串本町・みさきロッジユースホステル
   ~那智勝浦町・JR紀伊浦神駅~串本町・みさきロッジユースホステル)




那智勝浦で宿が取れず、今回もユースに2泊することになった。というわけで、今日は空身で行ける所まで行って、JR紀勢本線とバスでユースに戻る計画。

7時35分の串本行きのバスに乗ろうと準備したが、日曜のためお休み。うっかり。

7時45分、しかたなく徒歩出発。霧雨の中を北上する。途中で風が強くなり、雨も本降りとなったので、傘のほかにゴアの雨具も着用。

9時、JR串本駅着。ただちに出発。

9時15分、橋杭公園より、橋杭岩を写す。国道42号線(熊野街道)は、串本の市街を抜けると海岸線に沿って行く。




橋杭岩は、陸地側から紀伊大島に向かって大小400くらいの岩が、橋の杭のごとく並んでいる。国指定名勝天然記念物で、南紀屈指の観光スポットである、と途中でもらったパンフレットにあり。
橋杭岩のいわれとしては、昔弘法大師が天の邪鬼と串本から大島まで一晩で橋をかける賭けをした。大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで、賭けに負けてしまうと思った天の邪鬼が、ニワトリの鳴きまねをして弘法大師を騙し、もう朝が来たと勘違いさせた。そのため弘法大師が諦めて作りかけのままで去ったので、橋の杭のみが残った、というもの。

9時30分、橋杭岩横通過。




9時50分、振り返って橋杭岩。


しばらくは、なんとか写真をと思ったが、強風波浪注意報のとおり、雨、風ともに強くなり、橋杭岩のみ写真に撮って、カメラは、ザックの中へ。したがってこの後は写真はなし。

風雨厳しい。とくに海からの風が激しく往生した。傘が、メリーポピンズのアンブレラのごとくたわみ、壊れるのではないかと思われるほどだった。とりわけ、岬の先端部や橋の上では身を隠すすべとてなく、傘もさせないところもあった。雨か風のどちらかだったらまだしも、両方だったので難儀した。ゴアの雨具も、防水機能が弱くなっており、雨水が肌着まで浸透してきて寒かった。さらに、日曜だったのでダンプからは免れたが、国道42号線は自動車もそこそこ来るし、しかも歩道はほとんどないし‥‥と、まあ弱音ばかりだが、長旅ではこんなことはつきものでもある。結果論だが、ユースに2泊は正解だった。

12時30分、ようやく海岸線から離れ、やや内陸部に入って、那智勝浦町に。せめてここだけは記録しておこうと思い、ザックカバーをとり空のザックからカメラを取り出して1枚だけ写した。


12時45分、紀伊浦神駅。今日はここまでで行動打ち切り。太地までは無理としても、せめて下里までは行きたかったが‥‥。


13時3分、紀伊浦神駅発のJR紀勢本線で串本駅へ戻る。駅にはSさんがいて、雨が降っても歩くのか、それで今日はどこまで行ったのかい、などと冷やかされてしまった。たった4駅分しか歩いてないのだから仕方ない。

14時32分、串本駅発のバスでユースへ帰る。

14時、宿に着く。


歩数  33084歩  (累計  2195161歩)
距離  23.5km  (累計  1427.5km)
費用  7093円   (累計  220876円)



2014年 徒歩の旅 第40日  串本町・みさきロッジユースホステルへ

2016年02月06日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月19日(土) 晴 (すさみ町・国民宿舎枯木灘すさみ
                      ~串本町・みさきロッジユースホステル)




5時、宿は2食付きなので、本来はゆっくり朝食をとって出発のはずが、ダンプ混雑を避けて、との策。前夜に頼んでおいたおにぎりを持って出発。国道42号線を東進。

5時10分、右手に石碑群。








そばに野口雨情の「周参見小唄」歌碑。雨情はすさみ温泉を絶賛して、ながく滞在した、と。
「松の小路の くらがり谷を 登りゃ見えます 紀州灘」


有明の月が残る枯木灘。


5時15分、クロマグロの養殖成功で有名な近畿大学水産研究所すさみ分室。


5時30分、白島トンネル(442m)。


抜けると再び、再び枯木灘、和深崎。


5時40分、集結しているダンプたち。


5時45分、熊野古道長井坂入口。


6時、海岸線歩きから田園部に入り、カエルの合唱に聞きほれながら歩く。

峠を越えて、海岸線を行き、


6時35分、「道の駅 イノブータンランドすさみ」。


パワーを


道の駅の海側。


6時45分、黒島トンネル(488m)、歩道なし、白線のみ。


トンネルを抜けると、熊野枯木灘海岸県立自然公園。小休止。




陸の黒島(左)と沖の黒島(右)。


7時、ダンプ集結中。


7時になったと思ったら、もう空のダンプが走り始めるではないか。土曜日は関係ないようだ。

7時10分、東屋にて小休止。古い標識。


7時20分、紀勢本線。この先、線路とつかず離れずで、おおむね海岸線を串本駅まで行く。


7時25分、熊野古道、長井坂ルートの出口、というか入口というか‥‥。




ちょっと入ってみる。




7時35分、見老津駅通過。


7時50分、日本童謡の国入り口あたり(でも立ち寄らなかった)。


8時15分、ダンプ出入り口。


ダンプは、8時にはもうまとまって走りまくっている。
保安員に聞いたところでは、見老津の奥から土を採って運んでいるのだそうだ。それなら、ここまで来ればひとまずダンプの洪水から解放される。

その後は、大辺路と交錯したり、








海岸線へ行ったりと、アップダウンを繰り返し、




9時15分、串本町に入る。








さらに海岸線を辿り、










9時45分、和深の浜より串本方面。


9時55分、和深トンネル(270m)。


10時40分、双島。


大辺路ルートと国道42号線が重複する。ピンクのリボンが大辺路を示す。








11時40分、田並トンネル(276m)。


新緑の南紀の森。


12時、逢坂山トンネル(272m)。


南紀のトンネルは、歩行者が安心して歩けるような状態のところは極めて少ない。歩道もなく、白線のみというところを行き交うダンプと同行するのは気持ちのいいものではなかった。

スイッチを押すと、「歩行者あり」が点灯する。


12時15分、串本海中公園。


潮岬方面。


海岸線を行く。もう大きなアップダウンは無し。やれやれ。


今日のルートは、串本の街に入るまで、コンビニは一軒もなく、売店も閉まっていた。ほとんど人気がなく、串本近くになって、やっとダイビングの若者に出会ったくらいだった。

13字0分、串本港。


串本大橋。


14時、串本駅に着く。




駅の待合所で、途中で歩いているのを見かけた、という小生と同年配の男性Sさんに声をかけられしばらくお喋り。彼はドライバーで、今日は串本海中公園の送迎だった、と。職業柄、土地のことは何でもよく知っていて面白い。観光案内のパンフレットを貰ってきてくれ、今日泊まるユースの主人とも懇意だからあとで遊びに行く、とか。

14時32分のバスで、宿へ向かい、


14時50分、宿に着く。宿泊、2食付き 5940円。

時間があるので、宿の前のみさき公園へ。




本州最南端のモニュメント、








山口誓子句碑。
「太陽の 出でゞ 没るまで 青岬」




潮岬灯台






入場料200円なり。








夕日の絶景ポイント、とのことだったが、だんだんと薄雲が広がって、結局きれいには見えず残念だった。




潮岬神社の参道の途中にあった花山法皇、白河天皇の歌碑。
 花山法皇 「ココニマス 神ニ手向ノ幣帛ナレヤ 潮ノ御崎ニ寄スル白波」 
 白河天皇 「アナウレシ 難波ノ宮ノコト問ハン 潮ノ御崎ノ御綱柏ニ」 )


宿の夕食は、グレ(メジナ)、アジ、ウマヅラハギ、サワラ、土佐煮、あえものなど美味。

食後、Sさんがやって来てお喋り。潮岬は台風の通り道だから、報道陣を運ぶこともある。機材は重いからいいが、人間は軽いから、スタッフを乗せるときは風であおられて大変だ。潮岬では、雨は下から降るからね、などと楽し気に語って行った。
明日の予報は、雨。

歩数  46962歩  (累計  2162077歩)
距離  36.5km  (累計  1404km)
費用  7205円   (累計  213783円)



2014年 徒歩の旅 第39日  すさみ町・国民宿舎枯木灘すさみへ

2016年02月05日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月18日(金) 雨 (田辺市・ブッダゲストハウス口熊野
                       ~すさみ町・国民宿舎枯木灘すさみ)




6時、宿を出発。雨である。さほど強くはないが、本降りなので、ゴアの雨具を着用。


県道31号線を辿って市街地を歩き、国道42号線と合流して、

7時5分、上富田町に入る。

7時40分、いったん雨あがる。

7時55分、紀勢本線が通過。


8時、富田川の流れに沿って、しっかりした歩道橋を歩く。一面に空を覆っていた雲がまだらになってくる。
下流方面と、


上流方面。


8時15分、白浜町に入る。


「郵便橋」という名の橋をわたる。




上流方面はだいぶ明るくなってきた。川の水はきれい。


左岸に「郵便橋」のいわれがかかれた石碑。


かつては郵便を載せた渡し船が往来したが、明治23年(1890年)に橋がかけられた、と。

8時35分、富田川に沿って下っていき、熊野古道は大辺路方面表示。


8時40分、路傍にひっそりと石仏など。


8時55分、富田川で捕れる川魚の霊を祀った魚籃観音。


9時10分、日神社。






路傍にコデマリの花。


この先、富田橋あたりから、突如、土砂を運搬する大型ダンプが大量に往来するようになる。紀勢道の工事のためか?

9時30分、大辺路街道入口。


9時35分、一目坂トンネル(206m)。


9時55分、遠方に海見える。




10時、袋トンネルを抜けていくと、


10時10分、広々とした海。


ここにもあった、弁慶の洗濯岩のごとし。「泥岩と砂岩の堆積層が太平洋の波により浸食され、柔らかい泥岩層が消えて固い砂岩層が残ったもの」ということのようだ。


雨が再び降り出す。夥しい数の大型ダンプトラックが猛スピードでピストンしており、しかも道路幅は狭く、歩道もあまりない。傘はすぐにあおられてしまい用をなさない。蛇行やアップダウンが多く、気が抜けない。危険なこと甚だしい。ナンバープレートを見ると、多くは和歌山、三重、大阪だがその他に気づいただけでも、鹿児島、宮城、千葉などもあった。途中で道路保安員の男性に聞いたところでは、2015年の和歌山国体と南紀自動車道建設の出土物の処理で、ダンプは九州から北海道まで来ている、とのこと。南紀全体でものすごい数のダンプが走り回っている、とのこと。

11時35分、市江トンネル(366m)。歩道なし。白線のみ。


12時30分、白浜日置川自転車道路というものがあり、多少時間がかかっても、ひと時でもダンプから逃げようと入ってみるが、




静かだったのは束の間、


13時5分、再び国道42号線に出てしまった。


とにかく、雨の中、ヒヤヒヤしながらずっとダンプと並行した緊張の時間だった。

14時、日置トンネル(1184m)。長いが歩道あり。助かる。


14時30分、朝来トンネル(918m)こちらも歩道あり。助かる。


14時40分、すさみ町に入る。


雨の海。




15時30分、濡れ鼠で宿に着く。宿泊、2食付き 7610円。

久しぶりの国民宿舎で、ゆったりとした風呂、おいしい夕食、暖かい布団。

宿の窓より周参見漁港。


歩数  52029歩  (累計  2115115歩)
距離  33km    (累計  1367.5km)
費用  8296円   (累計  206578円)




2014年 徒歩の旅 第38日  田辺市・ブッダゲストハウス口熊野へ

2016年02月04日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月17日(木) 晴 (御坊市・あやめ旅館~田辺市・ブッダゲストハウス口熊野)



久しぶりにゆっくり朝食をとって、

7時20分、出発。中町通りを南下し日高川に向かう。


途中に延命地蔵。


かたわらに浄瑠璃の名手といわれた「紀国太夫こと豊竹君太夫」(左)と、三味線の名手と
いわれた「豊澤廣七」(右)の二つの石碑。



7時45分、日高川にかかる天田橋を渡る。


川の中に、橋梁の遺構。鉄橋のものか、陸橋のものかな?


8時30分、紀伊水道穏やかなり。


国道42号線と別れ、並行し、交差する熊野古道を行ってみる。

8時40分、十三塚。


熊野参詣の折に、阿波の国の海賊に殺害された出羽の羽黒山の山伏の供養塚、とある。


8時45分、清姫草履塚。


有名な安珍・清姫の話の清姫が、ここで草履を脱ぎ捨てて、安珍を追いかけていった、とのこと。


その後、清姫は大蛇に変身し、道成寺の鐘の中に逃げた安珍を焼き殺してしまった、ということになっている。

すぐに海、太平洋。




8時55分、ビニールハウスは花の栽培。




何の花か聞いてみたら、スターチスという花だそうだ。和歌山県はスターチスの全国有数の生産地で、とくに御坊、印南の辺りでは、近年盛んに栽培されている、とのこと。紫のほかにも、白やピンクのものもあった。


熊野古道を辿る。


9時30分、上野王子跡。




王子とは、熊野権現の御子神のことで、同時にまた参詣者の庇護のための儀礼を行う場所のこともさしている、といわれている。この先の田辺で、熊野古道が、中辺路と大辺路とに分かれるため、この地に王子が多いのかとも思った。

さらに古道を行き、


9時35分、清姫の腰掛石。


古道は、曲がりくねったり、小さなアップダウンがあったり。




9時50分、「宮子姫生誕の地」の碑。


宮子姫とは、「髪長姫」ともいわれ、不比等の養女、文武天皇の后、聖武天皇の母である。美女だった、と‥‥昔は、髪の長い女性はみんな「美女」。
ちなみに御坊市は、16世紀末に建立された西本願寺の別院(日高御坊)の門前町として発展したことに由来するそうだ。

9時55分、国道42号線に戻って、印南町に入る。


10時、海。


南国の風情。


10時10分、切通し状の坂を行く。説明は英語とハングル。


10時15分、印南港。




10時20分、左に上ると


叶王子跡。






10時50分、斑鳩王子跡。




社殿。




11時5分、切目王子跡。ここは平清盛が熊野詣の途中、平治の乱を早馬で知らされ、知り都へ取って返したところ。




万葉歌碑あり。
「きりめやま ゆきかふみちの あさがすみ ほのかにだにや いもにあはざらむ」




11時20分、切目大浜海岸。


11時40分、印南町の案内板あり。


海青し。


路傍の藤の花。


12時30分、「岩代の結松」。




古代の悲劇の皇子、有間皇子は、天皇に対する謀反の罪に問われて護送される途中、この地で松の枝を引き結んで無事を祈り、歌を詠んだが、19歳の若さで藤白坂で処刑されてしまった。
「 磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む 」  
「 家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」

12時55分、梅のビニールハウスを眺めていたら、知らぬ間にみなべ町岩代。梅の林も多い。


13時50分、南部大橋。


14時、南部湾上に鹿島。


14時15分、「南高梅誕生の地みなべ町」。


みなべの海岸線。


14時40分、堺漁港。


再び、みなべの海岸線。


14時45分、田辺市に入る。


14時50分、城山崎の先、井原の海岸。


14時55分、大屋トンネル。


15時10分、「南海道地震津波潮位標識」。


16時10分、JR紀伊田辺駅。駅前の交番で尋ね、


途中で食料を購入して、

16時30分、宿に着く。宿泊、素泊まり 2300円。

木造の宿は古風で、不便でもあり(トイレは汲み取り式)、それが風情でも趣でもあるという感じ。オーナーはとても親切。彼とのお喋りで、和歌山県内では、和歌山、田辺、新宮が、それぞれ独自の文化圏、言語圏を持っていて、それぞれが微妙に違うということ、また、和歌山県は離婚率が高いということ、田辺市は和歌山県で最も面積が広く、全国の都市の中でも上位にあること、などを知った。とくに1番目の点は興味深いことだ。

歩数  55288歩  (累計  2063086歩)
距離  42.5km  (累計  1334.5km)
費用  2760円   (累計  198282円)

2014年 徒歩の旅 第37日  御坊市・あやめ旅館へ

2016年02月03日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月16日(水) 晴 (海南市・黒潮旅館~御坊市・あやめ旅館)



4時45分、今日は長丁場なので、暗い中を出発。


西空に満月、東天に明けの明星をいただいて歩きはじめる。

5時、日方川を渡ると、海南市消防本部防災センター前に万葉歌碑あり。
「黒牛の海 くれなゐにほふ ももしきの 大宮人し あさりすらしも  万葉集」




5時20分、案内図。このあたり、国道42号線は「熊野街道」と呼ばれている。国道のやや東側に「熊野古道」、と。  


海南市中心部を抜けると、空は一気に明るくなる。  

5時30分、小トンネルを9つばかり越えていくことになる。

藤白トンネル。


途中で、海南港。


5時45分、緩やかに坂を上っていき、冷水第三トンネルと、その先に第二トンネル。


6時5分、かなり高度を上げ、眼下に和歌浦湾。下を通るのはJR紀勢本線。 




観音崎トンネル。


6時20分、一番長かった塩津第一トンネル(406m)。


7時25分、最後の鰈川トンネルを抜けて、有田方面へ向かう。


7時30分、有田市に入る。
 

山の斜面にミカン畑。




8時20分、黄色い有田大橋。


有田川はゆったりと流れ、遠くに海も見える。紀伊水道である。


有田市は、「たちうお漁獲量日本一」の街でもある(右側に表示あり)。


左折し、川に沿って県道171号、県道20号と遡行、再び国道42号と合流し、さらに遡行。


9時15分、対岸のみかん畑の間に、「日本一 有田みかん」。


9時35分、対岸の河川敷に鯉のぼりの列。あと20日で端午の節句。しかし、今日は風がないので勢いなし。


9時45分、有田川鵜飼の案内板と鮎供養塚。




そばに本居宣長の歌碑。
「山遠く こえこしかひも 有田川 見渡し清き 瀬々の白波  宣長」


10時15分、有田川町。


10時50分、湯浅町に入る。


JR紀勢本線。


11時、湯浅町栖原の歩道橋。「つれもて しよら シートベルト」(一緒にしましょうシートベルト、かな?)。ふと、宮崎の「てげてげ運転追放」を思い出す。


湯浅町は醤油と金山寺味噌の街。






11時25分、広川町に入る。


12時、井関。


このあたりから国道42号線と熊野古道が交錯するようになる。ちょっと歩いてみたが、すぐに戻った。


12時10分、県道21号線と分岐する井関の交差点手前で振り返って道路表示をみたところ、「和歌山41㎞ 海南31㎞」。交差点先には、なんと「白浜61㎞ 御坊20㎞」とあるではないか。宿探しも含めて45㎞+αと踏んでいたのだが、甘かったようだ。50㎞を超すか越さないかでは、精神的なダメージに大きな差がある。‥‥とはいえ歩くしかないが。

さらに、みかんの販売所で、お婆さんから2個100円で買ったが、ボケていてパサパサだった。もったいないが捨ててしまった。泣き面に蜂。

ともかく気を奮い起こし、山間部に入っていく。

12時45分、山の斜面にはいたる所にみかんの木。


12時50分、あえぎあえぎ上りきったところで、水越峠(標高241m)を貫いている水越トンネル(長さ551m)。


13時5分、「すいせんの町 由良町」。


峠の下で、軽トラックの78歳の男性が、「持っていくかい」と言って、みかん1袋をくれようとした。持ちきれないから、と言ったら、2個タダでくれた。しばらくお喋り休憩。彼は、和歌山県の林道巡りを軽トラでやっているそうで、地図を見せてもらったが、ずいぶん赤線が引いてあった。山菜や茸の図鑑なども見せてくれた。いつか奥の細道を歩いてみたいと言っていて、講談社のカラーの本を買って時々ながめているのだが、年齢的にもう無理だろう、と。

山間部から田園地帯へと緑の中をどんどん下り、






13時55分、ゆらこども園の歩道橋。由良町畑にて御坊まで12㎞の表示。やや安心。


野草やら


鯉のぼりを写す余裕が出た。


14時20分、ふたたび上り、里トンネル。


14時55分、下って上り返し、長さ597mの由良トンネル。


15時5分、日高町に入り、一気に下る。




16時、御坊市に入る。


宿の近く、小松原の交差点で、ドライバーに尋ねたところ、親切にナビで調べて教えてくれた。JRの御坊駅と、紀州鉄道の紀伊御坊駅とはちょっと離れていて、間違えそうだったので、助かった。

16時55分、あやめ旅館に到着。12時間余りの行動だった。宿泊、2食付き 6200円。

宿で一休みし、先ほど貰ったみかんを食べた。瑞々しくて甘く美味なり。みかんもいろいろ、お年寄りもいろいろ、である。

途中の藤白坂には、天皇に対する謀反を疑われて18歳で処刑された、悲劇の皇子である有間皇子の墓があったのだが、今日の行程の長さを考え立ち寄らなかった。
また、途中で熊野古道と交錯するなどし、藤原定家などに思いをはせつつルートを外れて少し歩いてみたが、同じ理由であまり深入りはできなかった。

歩数  72304歩  (累計  2007798歩)
距離  51km    (累計  1292km)
費用  6926円   (累計  195522円)



2014年 徒歩の旅 第36日  海南市・黒潮旅館へ

2016年02月02日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月15日(火) 快晴 (高石市・大阪国際ユースホステル
               ~阪南市・南海本線 箱作駅~海南市・黒潮旅館)




4時45分、ユースを出発。羽衣駅から南海本線に乗り、昨日の到達点である箱作駅へ向かう。


6時10分、箱作駅出発。空気はひんやり、空は青空。国道26号線を行く。このあたりは孝子(きょうし)越街道というようだ。




小さなアップダウンがいくつも続き、

6時30分、箱作公園の歩道橋上から大阪方面を振り返る。左は大阪湾、


中央の高いビルはあべのハルカス。


6時55分、岬町に入る。表示は海南まで28キロ、和歌山まで16キロ。


みさき公園駅手前で、男性に「どこまで行くの」と声をかけられ、しばらく話しながら一緒に歩く。リタイアしたので長距離を歩きたいと思っているが、まだ62歳だから年金がたいして出ないため動きがとれない。いずれ日本一周をしたいので今は体力づくりに励んでいる、とのこと。これまでも歩いていて同様の話を聞いたが、昔のアニメ「忍たま乱太郎」の歌詞にあるように「やりたいこと やったもんがち」である。「意志あるところに道あり」。志を持続させ、計画の実現を祈る。

7時55分、深日(ふけ)町駅の先で南海本線を写す。


26号線は、大川(というほど大きくはない川)に沿って、孝子峠に向かう南海本線と並行している。






8時50分、孝子駅にて小休止。


孝子峠(標高100m)。「ビーチバレーのまち」なのか。


9時5分、孝子峠にて和歌山県和歌山市に入る。


峠からは一気の下り。下りの途中で、山を切り崩すような大規模な造成工事をやっていた。和歌山大学前という駅もあり、大きなイオンモールもあった。「学園城郭都市」という不思議な看板もあった。何だろうな。
宅地造成の何台ものダンプカーを見ながら下る。

9時30分、和歌山の工業地帯を遠望。煙突は新日鉄住金の工場。


郊外の市街地を行き、

10時25分、紀の川大橋。水は緑がかってとても美しい。大河である。川幅は淀川とどちらが広いだろうか。上流方面。


四国遍路の最後にお礼参りで訪れた高野山で、柿落ち葉の町石道から紀の川の上流を俯瞰したのを思い出す。

こちらは下流方面。自動車が多い。


そのまま進むと、和歌山市役所のところで26号線は終了し42号へ。

10時45分、市役所隣の和歌山城を見学。1時間余り。










天守入場券、410円なり。




パンフレット。








天守に登る。紀の川河口が眼下に。




和歌山城は、徳川御三家である紀州徳川家の居城。将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出すことになっており、徳川吉宗が養子に迎えられて8代将軍となった。
城内の展示として、和歌山県が生んだ知名人として、陸奥宗光、南方熊楠とともに、元阪急ブレーブスの悲運の監督西本幸雄が紹介されていた。
熊楠の手書きのノートが展示されていたが、粘菌の図に、細かい欧文でびっしり説明が書かれていた。聞きしにまさる偉大な学者、という印象。

「まりと殿様」の歌碑あり。5番の歌詞が書かれていた。西条八十作詞。
  てんてん手鞠は 殿さまに
  だかれてはるばる 旅をして
  紀州はよいくに 日のひかり
  山のみかんに なったげな
  あかいみかんに なったげな
 





城の周囲は太陽の光を浴びて新緑が眩しい。


その後は単調な42号線の国道歩き。
13時20分、和歌の浦。遠方は片男波。
「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 芦辺をさして鶴鳴き渡る 」と山部赤人が詠んだ地である。


和歌の浦で写真を撮り、通りがかりのお婆さんから土地の話を聞いた。彼女の話では、昭和40年ごろまでは海苔の養殖が盛んだったが、川の方に化学工場ができたために海苔が全滅した。会社と闘ったが駄目だったとのこと。それまでは冬は海苔、春から秋はサツマイモなどの農業が中心だった、と。

鶴ならぬ白鷺。


13時40分、紀三井寺。


奈良時代に建立された由緒ある寺院だが、久しぶりにザックを背負って歩いたせいか、若干草臥れて231段の石段を上る意欲がわかず、下から眺めるだけで通過した。


山門、


仏殿。


紀三井寺緑道を通り、小さなトンネルを抜け、
14時50分、海南市に入る。


宿は、国道沿いと聞いていたが、少し中へ入ったところにあり探すのにちょっと苦労したが、
15時30分、黒潮旅館に到着。宿泊、素泊まり 3700円

歩数  50844歩  (累計  1935494歩)
距離  30km     (累計  1241km)
費用  5411円   (累計  188596円)



2014年 徒歩の旅 第35日  阪南市・南海本線 箱作駅へ

2016年02月01日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月14日(月) 晴 (高石市・大阪国際ユースホステル
                            ~阪南市・南海本線 箱作駅)




5時、今日も空身でユースを出発。だいぶ朝が早くなり、晴れていればヘッドランプは不要になった。紀州街道の府道204号線を南下する。

5時40分、泉大津市に入り、大型輸送車が立て続けに走る堺泉北有料道路の下を通過。

6時20分、南海本線の泉大津駅通過。


6時35分、鉄橋を南海本線がわたる大津川を越えて、忠岡町に入る。




忠岡町消防署の前にあった可愛らしい「わらべの消防士」像。よく見ると、少女の後ろには、犬や猫やネズミまでいるぞ。


6時50分、岸和田市に入る。


7時30分、五軒屋町だんじり小屋。岸和田といえば「だんじり」。


7時40分、岸和田城。







 
幾分小ぶりではあるが、端正なたたずまい。




時間が早いため、天守には上がれず、残念。

岸和田城下町の街並みを見下ろす。


「目の前に広がる瓦屋根は、岸和田城の城下町の面影が残る街並みである‥‥」、と。


7時55分、だんじり会館。


8時5分、貝塚市に入る。


8時50分、泉佐野市に入る。


9時20分、この少し手前、「井原の里駅下り」の交差点から、府道204号は府道63号に名前が変わる。


10時35分、気がついたら、田尻町に入っていた。町役場の手前。


10時55分、泉南市に入る。


11時5分、路傍に八重桜が満開である。
ピンクは「イチヨウ」、


緑がかっているのは「ウコン」かな?


11時15分、大阪もこの辺りまで来ると、溜池があったり、畑があったり、野菜の種の販売店があったりと、だいぶ農業の気配が強くなる。




11時45分、君ケ池。


夥しい数の亀が日向ぼっこ中。小生も小休止。


12時5分、再び府道204号になり、府道256号線との重複。場所は泉南市。


12時10分、阪南市に入る。


市境の少し先で、紀州街道は、国道26号線になって、和歌山方面に向かう。

12時55分、海を見に少し寄り道。


13時20分、南海本線 箱作駅。この先は国道26号と南海本線とが離れていき、再び会うのは8㎞ほど先のみさき公園駅。またアップダウンもありそうなので、ここで打ち切ることにして南海本線で宿に戻る。


14時30分、大阪国際ユースホステルに戻る。そういえば、今日も含めて4泊もお世話になることになるので、ユースの写真を1枚パチリ。宿泊、素泊まり 2900円、4連泊。


これまでの歩き旅で、南から北までいくつものユースホステルに泊まったが、利用者への応対の良さに関して、、自分の印象では大阪国際ユースホステルは、広島西条駅前ユースホステルと並んで最上級の部類に属すると感じた。

今日も一番風呂。その後は記録や会計の整理、足のメンテなど。

さて、明日からはザックを背負っての歩き旅だ。

歩数  47880歩  (累計  1884650歩)
距離  32㎞     (累計  1211㎞)
費用  6949円   (累計  183185円)


2014年 徒歩の旅 第34日  (休養日) 大阪市内見学

2016年01月31日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月13日(日) 曇 (高石市・大阪国際ユースホステルに連泊)



8時、空身にて宿を出発。昨日スタッフにもらった地図を持って、まずは大阪城へ向かう。


8時15分、羽衣駅より。


9時10分、JR大阪環状線の森ノ宮駅で下車し、大阪城公園へ。






植木市をやっていた。


天守へ上ろう。


大阪城天守閣・大阪歴史博物館の共通券、900円。




天守閣パンフレット










見上げる。


号砲。


天守より。


あべのハルカス方面。昨日行ってきたという中年夫妻が、中央の青っぽい建物がそうだと教えてくれた。


城内の展示。テーマ展では、「乱世からの手紙―大阪城天守閣収蔵古文書選」をやっていた。戦国武将たちの自筆書状で面白そうだが、展示では文字が見づらいので、旅から戻ったらゆっくり読むべく、帰りに冊子を買った。1000円。




他に、有名な「大坂夏の陣図屏風」についての映像と説明が興味深かった(こちらは右隻)。






とりわけ左隻には、大坂城落城後の敗残兵、避難民、それに襲いかかる野党、などの阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれていたが、夢中になって眺めたため写真を撮り忘れてしまった。

記念スタンプ。


大坂城を出て、大阪歴史博物館に向かう。行楽シーズンなので、すぐに混みだしたが、中国人や白人もかなりやって来ていた。




11時、大阪歴史博物館。










こちらも極めて内容の濃い展示がいくつもあった。
エントランスホールでは、難波宮跡の遺構をガラス越しに眺められるようになっていた。






考古学に関する知識が全くなく、飛鳥・奈良時代にこの地に宮殿があったことを初めて知った。

10階に上がると、難波宮時代の大極殿の様子が実物大で展示されている。本当に、まるで古代にタイムスリップしたかのようだった。

窓から見下ろした難波宮跡。今は更地だが、建物の建設も計画されている、とのこと。


ついでに大坂城も。


さらに下の各階には、大阪の歴史が、現代にいたるまで様々な展示物によって示されていた。
中に、大阪大空襲の記録もあった。


とにかくボリュームのある博物館で、2時間があっという間に過ぎたが、短時間ではとても見きれない。それでも、大阪という都市について、にわか勉強ではあるが概略知ることができてとても有意義であり満足した。

13時10分、今度は、適塾跡の緒方洪庵旧宅に行ってみたが、建物の耐震工事作業が遅れているとの理由で、5月まで休館とのこと。またまた残念。




たまたま同じく適塾跡を見に来た男性と一緒に悔しがった。
隣の小公園にある緒方洪庵、


司馬遼太郎の小説『花神』で、村田蔵六(後の大村益次郎)が好物の豆腐を食べたと出ていた物干し場などを写した。


その後、
14時、通天閣に行ってみたが、






展望台に上るには35分待ちだと言われ、諦めて、真下にある店でタコ焼きを買って食べた。

あとは、あべのハルカスを眺めただけで、


15時30分、宿に戻った。宿泊、素泊まり 2900円、3連泊。

今日も一番風呂に入り、ともあれ大阪まで来たのだからと、旅の中間点である川崎まではと我慢していた禁酒の誓いを破って約1カ月ぶりにビールを飲み、この先の宿泊の計画をねり、何軒かの宿には予約の電話をした。

歩数  19844歩  (累計  1836770歩)
距離  記録外     (累計  1179km)
費用  6421円   (累計  176236円)


2014年 徒歩の旅 第33日  高石市・大阪国際ユースホステルへ

2016年01月30日 | 2014年太平洋側の旅-前半
4月12日(土) 晴 (西宮市・JR西宮駅~高石市・大阪国際ユースホステル)




朝5時に空身で宿を出発。羽衣―新今宮―大阪と電車に乗り、昨日の到達点であるJR西宮駅へ。

6時55分、西宮駅を出て今日も国道2号線を東進する。

7時35分、武庫川大橋。


欄干の照明灯がモダンで美しい。


下流方面を望む。


橋を渡って尼崎市。


8時55分、左門殿川にかかる左門橋を渡ると大阪府。


9時30分、淀川大橋、長さ724m。




橋上から上流方面。


下流方面。さすが淀川、大河の風格がある。


9時45分、野田の交叉点で国道2号線と別れる。


2号線はこの少し先の梅田新道交差点が始点。とはいえ、山口県からずっと辿ってきたことを思うと感慨深い。大型輸送トラックに苦しめられたことも懐かしい。不思議なものだ。

新なにわ筋と呼ばれる、高速道路の下の道を行くと、街路樹の銀杏が芽吹きで、小さい三角形の葉をつけていた。もうそういう季節になっていたのだなぁ。


10時15分、堂島川と土佐堀川の交わる地点、湊川橋を渡ったところで、「小説『泥の河』舞台の地」の碑を見つけた。




『泥の河』は、だいぶ以前に小栗康平監督の映画を見たことがあったっけ。
そのまま南下する。

10時40分、道頓堀川。


さて、新なにわ筋の府道29号線を辿っていたはずが、途中でどう混乱したか、気がつくと、

11時20分、花園北の歩道橋。正面には「あべのハルカス」。


軌道修正して、国道26号線を南下する。

12時20分、住吉公園入口にある大きな常夜灯。




公園内で小休止。


12時55分、大和川下流側。


上流側。鉄橋を行くのは南海本線。


13時、阪堺大橋を渡り、堺市に入る。


13時25分、国道26号線と別れ、府道34号線に入る。そして、府道34号線は、重複区間を経て、府道204号線になる模様。

14時25分、浜寺公園の松林。宿近し。


14時35分、高石市に入る。


15時、ユース到着。宿泊、素泊まり 2900円で連泊。

さて、明日は休養日で大阪見学。「大阪行った。大阪城見た。たこ焼き食べた。」ではあまりに情けないので、ユースの女性スタッフに相談。いろいろと調べてもらった結果、大阪城のほかに、大阪歴史博物館にも行くことにする。

風呂は今日も一番風呂。足のメンテをする。右足第一指と第二指の付け根の部分の傷口がいまだにふさがらず、耐えられないほどではないものの、一日の行程が終わると靴下に血がにじむ、という状態は相変わらず。マメの処置の杜撰さを後悔中。

歩数  52781歩  (累計  1816926歩)
距離  34.5km  (累計  1179km)
費用  5493円   (累計  169815円)