ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜新聞読書欄簡単レビュー:川瀬俊治

2009年12月13日 10時01分29秒 | Weblog
 今回の日曜新聞読書欄簡単レビューは、ジャーナリスト、文学者の作品など紹介する。

 まずジャーナリストの作品から紹介すると、大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店、2520円)-朝日―は、著者長年のテーマの中で生まれた作品。大熊が精神病院からのルポをして相当の時間が経過したが、どれだけ日本の精神病院の体制が変わったのか、をあぶりだす本にもなっている。大熊の『ルポ精神病棟』は朝日新聞記者時代に書かれたものだ。それからフリーとなりその追求は、人間の尊厳の回復がテーマのベースにある。イタリアが精神病棟を廃止する運動を始めたのが1960年代。20世紀末になりすべての精神病棟が閉じられた。「そんなことでいいのか」というのは日本の反応だが、評者柄谷行人は「精神病院でも病人が治療するわけではない。大切なのは、たとえ病気がなおらなくても、彼らが一般社会で生きていける環境を作り出すことである」と評して、大熊が紹介しているイタリアの精神科医フランコ・バザーリアについてふれている。日本は世界保健機構の委嘱を受けたイギリスの医師デービット・クラークの来日しての「勧告」-精神病棟を減らすようにーを無視、経済先進国では精神病棟が格段に多い国のままである。

 ヴィクター・セベスチェン『東欧革命1989』(白水社、4000円)-日経―は、今年ベルリンの壁が崩れて20年になるが、東欧6カ国の崩壊がどうして進んだのか、なぜ1989年だったのかにいての歴史はあまり知られておらず、本書で初めて知る事実も多い。著者はハンガリー生まれのジャーナリスト。各地の情報を取材、革命後も関係者からの証言を本書におさめている。カギを握ったのがソ連のゴルバチョフ大統領の出現。東欧への軍事力行使を否定し、東欧各国の自助努力による変革を迫り、各地の小さなうねりが東欧共産圏6カ国の崩壊につながった。民主改革の主人公に躍り出るポーランドのワレサなどが描かれている。評者池田元博日経編集委員。

 文学作品ではガブリエル・ガルシア・マルケス『生きて、語り伝える』(新潮社、3600円)ー日経ーは、あの『100年の孤独』のガルシア・マルケスの作品である。評者の野谷文昭はルポルタージュの可能性といった文学論が聞けるのではないかーとも評するのだが、それはガルシア・マルケスの半生を描いた作品だからだ。貧しい少年時代を再現し、学生時代に遭遇した首都ボゴタでの暴動、迷信や伝説を信じていた祖母の語り。それらは集合性を帯びた「私」の声がかもし出す世界なのだ。アーカイックな世界を作品で試みたともいえる。物語的誇張法がユーモアをもたらす。運を求めて移住を繰り返す両親と11人の子どもたち。しかし悲劇性の表記は「人はそれぞれに、自分の痛みに応じて数字を水増ししてしまう」という。共同体の声は祖父から父に伝わるが、ガルシア・マルケスの子らには伝わっているとは語っていないーと評者はいう。だからこそ過去の輝きが増す。

 中村稔『中原中也私論』(思潮社、2940円)ー毎日ーは「画期的な中原中也論」(評者三浦雅士)という。小林秀雄の評価を覆すのだ。また有名な小林の「Xへの手紙」が中原であることも示唆している。「ホラホラ、これが僕の骨だ」から始まる詩「骨」はもう1人の自己を見ている作品だというのだ。また倦怠は死と同様のものだった。生前未発表の「曇つた秋」を三浦は「(末尾の詩を)この文脈で読むと、殴られたような衝撃を覚える」と書く。自己の実在に疑いをもつのが中也なのだと。自己の死からの蘇りの詩が「一つのメルヘン」だとも書く。小林と中也は相似形だからこそ自我の核心でわかりあえたし自己嫌悪の対象にもなった。大岡昌平との関係を論じた部分も圧巻だと三浦は言う。それは大岡の中也の誤解を指摘しているからだという。著者中村は宮沢賢治像を一変した評論家にして詩人。80歳を越えてのこの作品に三浦はその若々しい仕事に感嘆している。
 
 毎日は「2009年 この3冊」の特集をしている。その中で3人の評者からあげられた作品は石川九楊『近代書史』(名古屋大学出版会、1万8900円)。企業家、文化人の書から性癖、人となりまでわかる本書は、全77章が推理小説のようにサスペンスに富むと書く(池内紀)。張競は独自の文化論だとも評価している。
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300字コラム 朝鮮学校前での罵声、攻撃をどう考えればいいのか

2009年12月13日 00時10分49秒 | Weblog
 フランスの哲学者ドウルーズは二項対立の図式に留まらず、対立のおおもとのところを探求する哲学「差異と特異性」を説いた。2日前、東京にいて友人宅で「在特会」というグループが京都朝鮮第一初級学校前で民族教育や在日朝鮮人、朝鮮総連に罵声を浴びせる映像を観た(U―チュウブ)。抗議の理由はよく理解できない。しかしその罵声や朝鮮民族の否定、侮辱は言葉に窮する。信じられないというのが正直な感想である。友人から送られて来たメールでは、これまで隠れて朝鮮民族への攻撃が公然と行なわれる事態になったと、慄然としている。文頭で述べたドウルーズの指摘からすれば、朝鮮民族への対立軸にこの攻撃があるのではなく、日本社会に彼らの主張を公然化させる土壌が形成されていると見たほうがいい。なんという時代なのか。なんという行為なのか。騒ぎに恐怖をいだいた学校の子どもたちは泣き出したという。とても黙視してはおれない。
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