昨日の話題になった、巨大女神(姓)像は、載せて随分に成るので、採してもいい頃だと思いながら、載せなかった。
前の写真と少し角度の違う物を載せる事にしよう。
上が先の写真、下が、今回初めての写真。
著書2の表紙も、この女神像だ。下に入れておいた。
法皇山脈と女神像(卑弥呼像)は、時期と太陽の位置で多少変ってくる)
平地の高いに二本の鉄塔の内、左側の鉄塔の辺りが、卑弥呼の時代とされる箱式石棺の多くでた、三島公園(横地山公園・墓地公園など)。
この写真では、肩の辺りが不鮮明だが、公園まで腕が伸びている事はわかると思う。
上の写真の全体写真。後ろの尾根が、法皇山脈。
上と同じようだが、肩の辺りは、こちらが見やすい。
上の写真の全景
この巨大な女神の左手を延ばした先、丁度、手の平に当たる場所辺りが、三島公園である。この女神の左手に見える稜線は、周囲より大きく平地に張り出している。不自然ともいえる。
女神像の肩や腕が手前に伸びるのが、判るだろうか、山中の建物は伊予三島の老人福祉センター、この下に腕が伸びて、手の平の位置が、墓地公園となっている。高い左側の鉄塔がある辺りだ。
著書2の、表紙。裏表紙も同様だが、左右逆転している。
法皇山脈からはみ出した小山は、この山の東側の稜線(法皇山脈北側)は、大きく凹み、山地を削った跡に見える。また、女神像の上部も大きく凹み、土砂の採取が見て取れる。
山地の土を下に移動させ手、造形、古墳などにした土木が推測される。つまり、女神の左手と、その先の手の部分の箱式石棺の多い山(三島公園)は、作られた可能性も残る。
「富士山と足柄山の伝説」は有名だが、この話も、後世の付会説で、実際は、足柄山に土は、近くの土木工事に使われたのではないかと思われる。まだ、周辺の調査が無いので、単なる想像だか。
今見直すと、女神像の上の「広尾」も、大土木の跡だし、山腹に掘り込んだ女神像だから、削られた土石も余っただろう。法皇山脈から張り出した、女神の左手はこれ等で出来そうである。
近くにある滝宮は、小高い丘の上にあり、古墳だと言われる。この土にもなったのだろう。この滝宮の倍塚と呼ばれた地から、金冠が出土している。古墳は後の世だが、山地を移動させる等の大土木が出来たのは、もっと古いであろう。
四国では、金冠の出土は宇摩郡だけにある。しかも、東宮山古墳(宮内庁参考陵墓、木梨軽皇子と伝承)など、数箇所の出土である。宇摩郡は、卑弥呼の弥生時代から、古墳時代までは、四国一だったことは確かであろう。
法皇山脈に、人工的造形が多い。と言うことは、先に書いた。現在では判らない古代に、宇摩には多くの人が住み、大土木が可能だった時があることを示すものだろう。造形は、ブログでも幾つか紹介した。著書2にもある。
著書2の頃は、卑弥呼の墓は、墓地公園で、間違いないと思っていた。しかし、昨日書いたように、一つとは限らない。倭人伝でも、卑弥呼の墓と、伊与の墓と、二つは最低必要である。
少し、細かくなった。後の造形は時折入れることにて、ひとまず、卑弥呼の姿と墓は、ここらで終わる事にしよう。
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