はじめに
昨日は、「布団締めが八頭八尾の龍だ」という話に、三郡で一台だけの、「獅子」を載せたのは、おかしな選択だと、後で気が付いたが、昨年の話を読んだり、ココログの写真を見た人には、言っている内容が判るので、そのままにすることにした。
何れ、各地の太鼓台も紹介する。各地で太鼓台の伝承が違うのである。簡単に言えば、東の三豊郡豊浜は、下部の伝承と、太鼓台の全体的な意義の伝承になっている。宇摩郡の三島では中間部、人の乗る場所の四本柱である。
新居浜では、「上部の房が雨」を意味するとして、房が乱れないように担ぐことに、大変に気を使う。最上部のトンボは、ムスビ(結び)と呼ばれる。高御産巣日神、神産巣日神ように、ムスビは、天照大神時代の言葉である。
前回、布団締めの話に、「獅子」を入れたので、今日は最初に、香川県豊浜町(旧)の太鼓台から、紹介する。続いて、伊予三島市豊岡町(旧地名)の太鼓台、最後が、宇摩郡の西端の、(旧)宇摩郡土居町の太鼓台である。
この土居町の太鼓台は、新居浜から導入したので、新居浜太鼓台と同じである。どの地域も布団締めは昇降の龍である。つまり、太鼓台一台に、八頭八尾の龍が居るのだ。これを、「身一に八頭八尾」と書き残したものである。
また、布団は、三島町だけが、七段五色三赤で、燧灘に面する他の地域は全て、赤一色である。だから、三島の五色の配色は貴重なのであり、中でも、「獅子」だけの順序は、古代を解く鍵になっていたのだ。
オロチは太鼓台(神輿太鼓)
先に示したオロチの形状部分のコピーを入れます。『最初は、1、目です。2、身一つで八頭八尾とこれも一部です。3、身に生じたコケとヒノキ、杉です。4、谷八谷、ヲ八尾も同じです。史学の解明では分かり難いのですが、少し違った読み方が有ります。』
以上のように、古事記にあるオロチの形状は、四つあった。そして、昨日までに、二つの形状は太鼓台の部分を説明した物だと、説明した。今日は、「3番目のコケとヒノキ、スギ」の話になります。
この三番は、史学の読みと、宇摩説の読みが違うので、原文から始めます。原文は、「亦、其身生蘿(蔓)及檜椙」と、あります。これを、史学は「亦、其の身に蘿(こけ)と檜椙(ひすじ)を生(お)ひ」と、読んでいます。
史学の読み方は、「其の身(オロチ)にコケ・ヒノキ・スギを生じている」との意味です。宇摩説では、「亦、其の身は蘿(こけ)と檜椙(ひすじ)で生じている」と、読みます。この方が、文に忠実な読み方だと思います。
宇摩説の読み方だと、「亦、其の身(オロチ)は蘿(こけ)と檜椙(ひすじ)で生まれている(作っている)」との意味になります。そして、蘿はコケと読まずに、「カズラ・ツル・ツタ(鬘・葛・蔓・蔦)と読みます。
だから、「オロチは、カズラ(ツタ)とヒノキや、スギで作る」という意味になります。史学の「背に、コケおよび、ヒノキやスギを背負っている」という解釈と、全然違った解釈になるのです。
合理的、科学的、現実的に古事記を解釈すれば、宇摩説の読み方のほうが正しいと思います。そして、ヒノキとスギとカズラによって、山車(神輿太鼓・太鼓台)が作られていたのです。
今は、カズラで無くロープで縛って組み立てますが、古代にロープは無いので、カズラが使われたのです。今、四国の中央部(徳島北西部)の「イヤ」に、「カヅラ橋(カズラで作る架け橋)」があり、誰でも渡れる名所となっています。
この写真もあるはずですが、今は見当たりません。出てくれば、載せる予定です。なお、「カズラ橋」などで、検索すれば、出ていると思います。
今のロープでなく、カズラで縛られたカキ棒や結びつけた屋台の土台(基礎)は、凸凹が多くて、自然に絡まっているように見えたことでしょう。つまり、「太鼓台は、カズラとヒノキとスギで生まれ(作られ)ていた」のです。
以上で、3番目も太鼓台の部分を取り上げていることが判ります。残るのはもう一つの大きな謎の、4番です。八つの谷を渡るとは、どのような部分を言ったのか、明日書くことにします。
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