はじめに
古事記を現実的に解いて生まれた宇摩説は、これまでの都を九州や近畿にする古代論とは、全く違う場所(北四国中心部)に高天原(邪馬台国)を比定した。
宇摩は西日本(瀬戸内海)の上げ潮の最終地であり、古代交通の船で往来すると、満ち潮に乗るのが、「上り」で都に着く道であり、宇摩から下がる潮に乗ると全国に「アマ下り」が出来る。
このように、言語学的にも、宇摩でれば、上りや下り、天下りの語源が判明して、同時に宇摩の都が証明できる。宇摩説は新しい古代史の始まりである。
太鼓台以前の山車
高天原の稲作指導が、高天原から天下った神々の指導によって行われて実った稲を奉納する儀式が始まった。これが、秋祭りの起源であり、この頃は、稲藁の山車が作られた。
この稲作指導については、「やさしい古事記講座」のスサノオの話の時に解いている。スサノオは最初の稲作指導に失敗しているが、高天原追放後も続けて、稲作成功へと導いた。
この奉納によって生まれたのが、弥生時代の土器・鏡・銅鐸などに刻まれている穀倉である。穀倉は後の神社の原型でもある。各地の指導はこの穀倉が中心になった。
天下った女神(倭人伝の奴婢千人)は、高天原で習った最新の織物や稲作など、生活に密着した知恵や術を教えていたのである。
藁の龍の山車
この藁で作る山車が、全国で、時折、残っている。多くは、藁の龍である。龍と云う事は、卑弥呼が皇帝から贈られた龍を見せたのが初めてだから、これより前に生まれる事は無い
ワラで作った龍は龍が残るのは、龍以前は、ワラの神輿であった事を残すものであろう。そして、龍や鳳凰、獅子などの中国から見て、これらを作るようになった。
四国の北側に燧灘を囲むように、飛び出した部分が有る。この二カ所に、これが現在も残るのだ。
香川県の仁尾の祭の藁の龍は、大きい。この地の稲作が成功していた事を残す物だろう。
この龍の山車を担ぐ為に、その前に村中の人が(各戸に一人以上参加)宇摩郡の山奥(黒淵)まで水を汲みに行った。祭のこの水を、龍に掛けるのである。
ここも起源は、坊さんが教えたなど新しくなっているが、それにしては、水汲みが讃岐の一の宮(水の神)ではなく、宇摩に行くのは普通では無かろう。
とにかく、この龍は、宇摩との関係を残す物だ。
今治の藁の鳳凰
もう一つは東側の今治に残る。
下の藁の龍は門(下に写真)に置いてあった。
本殿にも供えられていた。
下は、燃やされたワラの龍の神輿。
祭りが終わると、その夜に、燃やした明りで相撲大会が有る。
門に上の龍が置いてある。今日、地域を回って来た物だろう。
本殿、この中に、供えられた龍が有った。明日当り、何処かで巡回されるのだろう。門の龍は今宵、燃やされる事になる。
こちらは小さいが、幾つも作っているのは、集落毎に作るからであろう。それにしても、この祭りは非常に静かだった。つまり、祭りの雰囲気は、ほとんど無い。
この神社は延喜式に載るので、この時に、何らかの規制が有った物と私は思っている。それにしても、何とか残した事は、すばらしいと思う。
とにかく、稲作が始まって、稲を運ぶ山車が作れら、時を経て龍や鳳凰を卑弥呼に見せられて、稲を龍や鳳凰にする工夫がなされた。この時の山車である。
なお、稲作前の山車もある。柴を使っている。これは、稲作以前から、高天原の存在を示す物だと推測している。
時間が過ぎた、中途半端だが、此処で終わる。
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