株式投資と邪馬台国女王、卑弥呼

"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

やさしい古事記講座(161) 大国主26(根の国訪問14) 宇摩説の解説(原文3、後半)

2008-07-09 00:16:57 | 古代史、卑弥呼、神輿太鼓、倭人伝

   前回までの解説

 スサノオは旅の疲れか、我が家で安心か、それとも狸寝入りかで、寝てしまいました。これは、スセリビメと打ち合わせの上でしょう。手際良く、スサノオをくくったり、大きな石を戸に持たせたり、宝物を取ったり、忙しいことです。

 大国主に与えられた、高天原の恩恵は、「最後の試練も合格した」という、全国への通知(演劇による)と、これらを示す、「生大刀・生弓矢・天詔琴」と、スサノオの認めた花嫁(誓約で娘)の存在である。

 これを読むと、ほとんど、スセリビメの助力によって、試練を乗り越えています。大国主は知らないのでしょうが、ある意味、八百長に近い試練ともいえます。だから、世紀の任命には至らなかったのでしょう。

 それと、実力社会だから、どのように八百長をしても、だめな人はだめであり、排斥されます。倭人伝に卑弥呼の後の男の王が人気が無くて退任しています。つまり、高天原のトップでも業績が悪いと退任なのです。

 大国主は、この後、知恵袋として、高天原の「スクナビコナ」も、国作りに助言する。つまり、公式には地域を任された天降りではないが、イザナギ・イザナミの国固めを依頼されたのに、似ている。やることは同じになっても正規の指示ではない。

 これが、宇摩説から見た、解説である。なお、スサノオから黙って借用した宝物は大変なものである。これは、後で大国主の国譲りに出てくるので、良く判る。この時には、別項に書いた、タチとツルギの違いなども参考になろう。

 では、昨日と同じようにコピーを入れて、後半の解説に移る。

 * なお、念のために追加する。「家に入り、奥の八田間大室(例えば座敷)に入った」ように、理解する人が多いだろうが、古代の建物は一間であり、玄関も座敷も無い。二度は入れない。つまり、前回書いたとおりである。

   根の国訪問3(現、解釈)

 ここに、其の妻、須勢理毘売(スセリビメ)は、喪具(はふりもの)を持ちて、哭きて来、其の父の大神は、思己(すで)に死(みまか)りぬと思いて、其の野に出で立ちたまひき。

 ここに、其の矢を持ちて奉りし時、家に率(い)て入りて、八田間大室(やたまのおおむろや)に喚び入れて、其の頭の虱を取(と)らしたまひき。

 かれ、ここに、其の頭を見れば、呉公(ムカデ)多(さわ)なりき。ここに、其の妻、ムクの木の実と赤土(はに)を取りて、其の夫(ひこじ)に授けつ。

 故(かれ)、その木の実を咋い破り、含赤土(葉に)を含みて唾(つば)き出(いだ)したまへば、其の大神は、ムカデを咋い破りて唾き出すと以為(おも)ほして、心に愛(は)しく思いて、寝ましき。

 ここに、その大神の髪を握(と)り、其の室の椽(たるき)毎に結(ゆ)ひ著(つ)けて、五百引石(いほびきのいわ)を、其の室の戸を塞(さ)へて、

 その妻、須世理毘売を負いて、其の大神の生大刀(いくたち)と、生弓矢(いくゆみや)、また、その天の詔(の)り琴を取り持ちて、

 逃げ出でますの時、其の天詔琴(のりごと)、樹に払(ふれ)て、地(つち)動(よよ)み鳴(な)りき。

  根の国訪問3(現、語義)

喪具(ほふりもの) (夫は死んだと思って)、葬式の道具を持って
八田間大室(やたまのおおむろや) 広くて大きな屋敷
(たりき) 棟から軒に渡したタルキ。

 まず先に、私学の語義にある「八田間大室(やたまのおおむろや) 広くて大きな屋敷」を、もっと具体的に宇摩説で修正してみよう。

 実はこの言葉には、宇摩に伝承があった。

 宇摩郡に、「ヤタマノムロ」、「ヤタマ」が神社に伝承されていた。普通は「ヤ」は8で、多いという意味だが、「ヤタマノムロ」と言う建物は、「周り八間」の建物だと伝える。正方形で一辺が二間だと、四辺で合計が八間になる。

 つまり、「周り八間」とは、「正方形の二間四方の建物」で、今なら、四坪、畳で八畳の建物になる。八畳の間なら、家財道具の余り無かった時代だから、結構広い空間である。

 昔の畳が長方形の一畳ではなく、半分の正方形の大きさとすれば、16帖もの数になる。つまり、八田(多い・田)の間となる。これらから、「ヤタ間」と言われたのであろう。

 この伝承は、何度か書いてきた、「大国主の宮、天日隅宮」の建物(本殿)の伝承であり、この建物が実物であったようだ。明治の統廃合令で廃止されて、今は基礎部分だった積み石が残り、上屋は別の神社に移設されている。

 この八幡神社境内の神社の説明と共に、教えられたのである。これも不思議な出来事で、私の知らない人物だった。しかも、移された本殿の説明の後、明日、探し出して紹介する先のブログの写真のにある。基礎の場所まで案内された。

 二キロ余りをテクテクと歩いて行った。特にこの日は三島の祭りの日で、三島神社の花火の音が聞こえていた。普通なら、行かないだろうし、何故、中曽根の八幡神社に行ったか記憶が無い。不思議な出会いで、六塚にある神社の基礎を知ったのだ。

 この時に、色々と聞いたのだが、神社に特別興味があるわkではないので、ほとんど忘れてしまった。この神社の基礎に登って北を見ると、燧灘が良く見える。この時の説明にあったのだろうが忘れていた。

 この基礎が、古事記や日本書紀に一致知ることが判ると、これらの条件を見事に備えていることが判る。つまり、高天原から与えられた物事の有用性が良く判るのである。不思議な出会いであったし、いまだに誰だか判らない。

 この時、「この近所に住むのか」と聞いたら、「近くではない」といった。しかし、近所の住人だろうと思った。この後、何度もこの地に行って、あちこちを調べたが、会う事は無かった。

 この天日隅宮の、森の向こうが「やまた」「やまだ」という。今は市営の団地が出来て「山田団地」と呼ばれている。この、天日隅宮の跡地は、ココログに写真を載せたとおもう。また、次回までにブログも探して載せることにしよう。

 少し、横道にそれている間に時間が過ぎた。中途だがここで終わる。

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