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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その3)倭国大乱と卑弥呼の謎

2022-06-27 00:00:31 | 古代史
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⑬で米神山と山鹿市茶臼塚古墳の位置を示す図を追加しました。詳しくは【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?に関連記事がありますので、よろしければご確認ください( ^)o(^ )

4.倭国大乱と卑弥呼の謎
①倭国大乱の原因は奴国を滅ぼした師升一族への復讐だった
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
倭国大乱は、半島の混乱で衰退した倭国と、半島南部の鉄を手に入れて列島内の鉄交易ネットワークを作り隆盛となった狗奴国(旧奴国)の勢力との戦争でした。狗奴国の官狗古智卑狗は大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落を造り、さらに熊本県菊池川上流に攻撃拠点「方保田東原遺跡・うてな遺跡」を造って、倭国の領域である佐賀平野と筑紫平野、時には福岡平野西部や王都のある伊都国まで襲撃した模様です。鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べて分かりました(^_-)-☆


②狗奴国の官(先代)狗古智卑狗の戦死が卑弥呼を登場させた
公孫氏が半島の混乱を収拾し、204年帯方郡を設置したので倭国王難升米は早速朝貢し、勢力を取り戻したと推理しています。難升米は菊池川の狗奴国の拠点を襲撃し、最前線で大活躍していた先代狗古智卑狗は、菊池市うてな遺跡か同市木野神社付近で討ち死にしたと推理しています。王を失った、玄界灘を支配していたムナカタ族の族長赤坂比古が途方に暮れていたところ、復活した倭国王難升米に懐柔されて、娘の卑弥呼(通称ヒメゴ)による太陽神のお告げによって倭国の政治を行う条件で狗奴国を裏切ったと推理しています。赤坂比古に従った九州全域(倭国のあった北部九州を除く)や中国西部と四国などの勢力が倭国に加わり、倭国は半島南部の鉄資源も抑えた模様で、隆盛になりました。この後の話は次回です(^_-)-☆

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)

菊池川上流の倭国攻撃拠点を見下ろす小高い丘に造られた山鹿市茶臼塚古墳(津袋古墳群)の上に大日如来の石の祠が置かれています。大日如来は胎蔵曼荼羅の中央部にあり、北東方向に大国主命の本地仏「弥勒菩薩」が配置されています。スサノヲ大王の子孫でムナカタ族の王(先代)狗古智卑狗の跡を継いだ大国主狗古智卑狗(久々遅彦)が内戦に勝利して倭国を手に入れました。最初に国造りした豊葦原瑞穂の国(宇佐市安心院町佐田地区)の米神山を、先代の墓の大日如来が指しているとわかりました。その米神山中腹に置かれた石柱群の方角が、何とすべて南西なのですよ!米神とは首長霊のことだったのです。これらの石柱は首長霊のエネルギーを取り入れるアンテナだったのですよ!これには興奮しました。重要なヒントを頂いた自転車クマさん米神山の貴重な情報を頂いた超古代文明研究家猿田彦氏に改めて心より感謝致します!(/・ω・)/


米神山から225度が正確な南西方向ですが、231度はそれよりもほんの6度だけ西寄りですので、ほとんど南西と見ていいと思います(^_-)-☆(2022.6.27 追加)

③伊都国の意味が多くの謎を解き明かすカギだった
伊都国の意味がヒントだった?
倭国が朝貢していた公孫氏が魏の将軍司馬懿に滅ぼされ、司馬懿の残虐行為のうわさを聞いて震え上がった倭国王難升米は、司馬懿の部下の帯方郡太守に呼び出され早速、朝貢のために郡に出かけました。難升米が倭国の情報を太守に漢字で書いて伝えた人物であったことが、伊都国の深い意味を知れば分かります。それによって、数々の謎が解けてきました( ^)o(^ )

④魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事のウソは政治的な理由だった
投馬国へ水行してみませんか?
邪馬台国への行程記事改ざんの政治的な理由が分かれば、実際の邪馬台国への行程は推理できますよ(^_-)-☆


⑤魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓はここだった
卑弥呼の墓は見つかってるよ
卑弥呼の正体は宇佐神宮の主祭神比売大神=宗像三女神です。三女神の主神は厳島神社の祭神市杵島比売命(イチキシマヒメ)ですから、三女神は卑弥呼を誤魔化すための日本書紀の創作です。しかし葦原中つ国の宇佐嶋に天降りしたという伝承を残してくれたので、邪馬台国がどこか分かりました。卑弥呼の居城は宇佐市安心院町下毛の宮ノ原遺跡でした。宮室は三女神社です。邪馬台国とはヤマコクに住む台(女王)の治める国という意味です。倭国王難升米が帯方郡太守と談合して女王ということにしましたから、魏志倭人伝のフェイクでしたよ。これホントです!(^_-)-☆

卑弥呼はいつものように河原の露天風呂「卑弥呼の湯」で天然温泉を楽しんでいたところ、難升米が送った刺客に襲われて、ヒカケ三女神社辺りで殺されたと推理しています。卑弥呼の宮室に出入りしていた一人の男が難升米のスパイだったと見ています。卑弥呼の日常生活を熟知しているこの男の手引きで卑弥呼が殺害されたとみています。その後、全部で百名ほどの奴婢を口封じのために、卑弥呼の墓の横の原野で殺したと推理しています。大量の血が流れたのでその地を「血野」と呼んだと推理しています(注)。

卑弥呼は最初この地に葬られましたが、後に大国主と台与が訪れて、安心院盆地を挟んで南側の妻垣神社の本宮「一柱騰宮」で改葬され、さらに8世紀初頭に宇佐神宮本殿下の亀山(小椋山)に葬られたとの伝承があります。ヤマト政権は卑弥呼の祟りを特に怖れたようですので、沖ノ島の奥津宮で4世紀から7世紀まで丁重にお祀りしています(^_-)-☆

⑥岩戸神話は日食で殺された卑弥呼の史実から創作した
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)
近江八幡市日牟禮(ひむれ)八幡宮が、卑弥呼が日食のために殺されたことを示唆するムナカタ族和邇氏の神社だったのですよ。

和邇氏は4世紀から天皇の妃を出すまでになり、有力豪族として大和盆地の北部も所領としました。この和邇坐赤坂比古神社や、前回説明した東大寺山古墳で出土した中平紀年銘鉄刀から数々の謎が解けてきました(^_-)-☆

祭神の阿田賀田須命(アタカタス)は縄文海人ムナカタ族の祖神、市杵島比売命が卑弥呼、赤坂比古は卑弥呼の弟で和邇氏の祖、日本書紀の和珥日触使主(ひふれのおみ)です。次回また説明しますが、日食によって難升米に卑弥呼が暗殺されたことを知り、狗奴国軍に投降して、大活躍したので、日食に因む名前となったと推理しました。ですから本当は日蝕使主(ひはえのおみ)だったのを藤原氏が強権で変えさせたのでしょう。後に愛宕大神として各地で祀られています。アタゴはムナカタ氏の祖神アタカタスの子孫という意味でしょう(^_-)-☆

父の先代赤坂比古の墓は卑弥呼と同じ安心院町宮ノ原遺跡にある直径約120mの円墳奥城古墳と比定しています。敬愛する漢籍の先生がご心配されていた卑弥呼の円墳は急造りだったので、土止めの石積みもありません。やはり盛土がかなり流れていますが、千八百年後の現在も形をとどめています。奥城古墳は時間をかけて造成したようです。石の土止めは確認していませんが、しっかり作られた様子で、現在は園内の展望台になっていますから驚きです(@_@)

(注)地元には以下のような伝承がありますが、卑弥呼を隠すのが藤原氏の政策でしたから、その関係者が作った話だと推理しています。
安心院を納めていた安心院氏滅亡のとき、峠で城主の息子で7歳の安心院千代松丸と家来たちが戦で亡くなりました。その惨劇のあった地区を「血野」と呼んだそうです。
別の記事では「安心院千代松丸の行方については、九人ヶ峠で斬殺された説、日田方面に逃げ落ちる途中、萱籠(墓が建っている所)で殺された説など、諸説伝えられています。」とあります。九人ヶ峠は知野(現在の地名)から西側の院内町に出る場所の地名で、約1km離れています。ですから千代松丸の伝承は諸説あり、余り分かっていません。

また、卑弥呼の殺害現場と推理したヒカケ三女神社から墓を目視して遥拝できないように土を盛り上げて隠しています。そこに、天岩戸をイメージしたのか、ヒカケ横穴群が作られています。国東半島の六郷満山を開基した、宇佐氏の祖とされる法蓮上人の教団が作ったものと推理しています。「卑弥呼の湯」のあった場所に仁聞菩薩が作ったとされる乳不動と石仏群がありますが、仁聞は実在人物ではなく、これも法蓮教団が作ったものだと考えています。ヒカケ三女神社の三女神の石塔と二つの摂社「金毘羅宮」と「八束神社」も卑弥呼の鎮魂のために造られたのだと推理しています。元は大国主が作ったものではないかと思います。

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼の話はここにまとめていますので飽きるまでどうぞ!( ^)o(^ )


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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