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【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ(*^^)v

2022-02-17 00:19:58 | 古代史
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2020-04-22 12:53:43 に掲載しましたが、関係地図を加えて分かりやすくしました。専門的な話もありますが、さほど難解な話ではないと思いますので、お付き合いください。


弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証している。すでに【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)で狗奴国について検証したが、今回はさらに検証を進めたい。

3.3世紀前半〜後半(弥生終末期新相/古墳早期〜古墳時代初頭)の北部九州と「狗奴国」の再検討
(3)「狗奴国」はどこか? 〜「狗奴国」肥後説の再評価〜
 筆者は「邪馬台国畿内大和説」である。ただし「倭国」における北部九州、「伊都国」と「奴国」の役割と実力を大きく評価する立場である。その点、「邪馬台国畿内説」の論者の一部に、当時の北部九州の役割を軽視し、その「衰退」を主張する見方には異議を申し立てる立場である。「畿内説」は、卑弥呼に対峙した「狗奴国」について、東海説(濃尾平野や遠江)、近江説、毛野説などがあり、最近は濃尾平野説が通説化しているが、疑問がある。


纏向遺跡には九州の外来土器がほとんど見つからないことから、考古学的に邪馬台国が纏向になかったことは明らかなのだ【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)。だがそういう重要な考古学の知見を無視して多くの考古学者が畿内説を支持しているようなのだから、何が理由なのか不思議だが、刮目天は科学的にこの問題を解明することにしか興味がないのでここではその理由に立ち入らない。

さらに狗奴国「王」の「倭人伝」での存在について、ある時期に公孫氏政権が「王」と認めた機会があったのではないかという仁藤敦史の説が注目される(仁藤 2009)。その場合、近江や濃尾、東日本の首長が「王」として認められるような中国との直接的なパイプがあったのだろうか?庄内式期(布留0式期以前)までの近江以東の考古資料は、中国系文物はあっても稀少であり、疑問である。

仁藤さんの説については後で触れるが、久住さんのおっしゃるとおり、公孫氏から王と認められるような狗奴国が近江以東の東日本に在ったということは考古学的にも認められない。しかもこの庄内式期の早い段階から東海や近江の人々、しかも首長や大臣クラスの人々が纏向遺跡にやって来て、一緒に祭祀を行っていると見られることから、纏向遺跡を邪馬台国としたとしても近江以東の東日本が邪馬台国に対立する狗奴国ではないことは明らかなのだ。じゃあ、狗奴国は一体どこなのかということになる。

 実は「畿内説」でも、学史上「狗奴国」を肥後や南九州(「熊襲」)に比定する説は根強い。その場合、女王国(倭国)連合の、「其の南、狗奴国」の「南」は正しいとする。畿内大和説の内藤湖南も狗奴国肥後説であった。狗奴国の「官」「狗古智卑狗」がクコチヒコ=ククチヒコ(菊池彦)とする説は古くからあり、菊池川流域の拠点集落を治める肥後狗奴国の対女王国連合への前線長官とする説がある(菊池秀夫2010)。近年では熊本県立装飾古墳館の木﨑康弘による狗奴国肥後説が体系的で説得力がある(木﨑 2014・2015)。

「邪馬台国畿内説」であるなら肥後や南九州に狗奴国が在ると考えるということは、この時期に畿内とほとんど交流のない北部九州はいったい何なのかということになる。結論は「畿内説」は間違いで、「邪馬台国北部九州説」を考えるしかないのに何故「畿内説」なのか分からない。シナ・半島への玄関口の北部九州との関係を考えれば、邪馬台国岡山説も徳島説なども同じ状況でしょう。熊本説は狗奴国をどこに置くのかな(;´Д`)

 弥生後期後半から古墳初頭の肥後は、大型で多重の環濠集落が多く分布し、鉄鏃が多数出るなど「戦争状態」を想起させる。「狗古智卑狗」は菊地川上流の山鹿市方保田東原遺跡の首長とされ、「王」は緑川流域で古代の「球磨駅」が近くに想定される城南町新御堂遺跡とされる。新御堂は方保田東原に準じる規模の広大な二重環濠集落である。装飾長頸壺が特徴的な「免田式」の分布は最後に肥後南部の球磨盆地に収斂するが、女王国連合のうち実質的には北部九州の圧力により「狗奴国」が縮小し南遷したと木﨑は説明する。

狗奴国は北部九州に圧迫されて小さくなって南に逃げて、最終的に纏向ヤマトを乗っ取ったというのは全く考えられない。だが、最近は少人数で神武東征したという説もあるようなのだが、そういうことは「記紀」には書いていないから、どうしても神武東征に持って行きたいための苦し紛れの説だろう。でも、大国主と台与の倭国が纏向ヤマトに滅ぼされたが、二人の間に生まれた子供が、纏向ヤマトに呼び寄せられて応神天皇として即位したと考える刮目天説に近いことは近い。しかし刮目天説は纏向ヤマトが狗奴国とするのだから少数東遷説とは決定的に違うんだよ(^_-)-☆

菊池秀夫さんも、菊池川上流の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡は狗奴国の官狗古智卑狗が指揮する前進基地であって、狗奴国王卑弥弓呼の居る中心部は宮崎県一ツ瀬川流域の川床遺跡付近だとしているようだ。その根拠として、川床遺跡の北方の名貫川下流右岸の東平下周溝墓群の中の一号円形周溝墓から畿内の「庄内式」の高坏が見つかっており、さらに付近では、日向で最古級の前方後円墳が見つかった新田原(にゅうたばる)古墳群や大型の前方後円墳のある西都原(さいとばる)古墳群があるので大和王権の起源となる地域ではないかということだ(「邪馬台国と狗奴国と鉄」彩流社2010,pp.201-202)。

しかし、日向の首長クラスの墓で「庄内式」の高坏が見つかったということは、畿内と何らかの繋がりはあるという程度なのだ。しかも纏向遺跡には日向の土器は全く見つかっていない。また、前方後円墳の最古のものは纏向石塚古墳であり、新田原の前方後円墳はその後に築造されたものだ。西都原の前方後円墳は四世紀築造だから、九州がヤマト勢によって占領された後の話なのだ。「日本書紀」では神武東征が日向を出発地としているので、ヤマト王権のふるさとと考えたいのは分かるが、【検証2】前方後円墳のルーツ?で検証したとおり前方後円墳の属性にも北部九州の奴国を起源とするものは数多くみられるが、南九州の影響を受けたという証拠は全く見つからないのだから、「日本書紀」の神武東征はフィクションと考えるしかないのだ。

 「狗古智卑狗」の拠点とされる方保田東原は青銅器の出土が豊富で、集落面積は吉野ヶ里に匹敵し(約 40ha)、環濠や集落内を縦横に区画する複数の条溝が存在する。また肥後では弥生後期から古墳初頭の鉄器の出土数が非常に多く(菊池秀夫 2010)、鍛治技術も北部九州に匹敵し、鉄素材も北部九州経由の輸入だけでなく、韓半島や中国王朝からの独自入手や(村上恭通 1998・2007)、さらに阿蘇の褐鉄鉱を用いた小規模製鉄の可能性まで指摘されている(塚本浩司ほか2016)。重要なのは、肥後北部や中部の大型拠点集落では、漢鏡や中国銭貨などの中国系文物が意外に多いという事実である(表2、木﨑 2014)。特に中国銭貨の多さは特筆される。

阿蘇の褐鉄鉱を用いた小規模製鉄の可能は高いと思うが、質や収量の問題があったようだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚))で見たように板状の鉄素材が多く見つかっており、半島南部の鉄素材を持ち込み鉄製武器を大量に作ったと考えている。

北部九州では壱岐は別格として糸島沿岸から博多湾岸に多く、筑前内陸部・筑後・肥前(佐賀平野)では中国銭貨は稀少で、肥後での分布数は距離と反比例となる。このような特定の遺物の出土パターンは、特異な交渉(交易)の存在を示す可能性があり、「使者交易」(レンフルー、バーン(訳)2007)が想定される。この地域では青銅器生産はこの時期しておらず、原材料搬入ではない交易に伴う搬入が考えられる。楽浪土器の出土は今のところないが、中国王朝や中国地方政権との直接交渉が十分考えられる地域であり、仁藤敦史の想定する「狗奴国王」称号の成立条件が存在する。

肥後北部や中部の大型拠点集落では、漢鏡や中国銭貨などの中国系文物が意外に多いという事実が在るにも拘らず、楽浪土器が少ないということは、直接華僑が入り込んで交易したのではなく、倭人が半島経由で持ち込んだものと考えられる。ということは肥後は北部九州の倭国を攻撃するための狗奴国側の軍事基地は間違いないが、在地の人々から食糧調達などの目的で、その対価として中国系文物が使われたのだと推理できる。菊池が狗奴国の官狗古智卑狗(大国主の先代)に因む地名であることからも狗古智卑狗が活躍した地域であったと考えられる(【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ(*^^)v)。



 肥後では古墳初頭(ⅡA期併行)から伝統的な脚台付甕の脚台が除去されて北部九州と同じ丸底長胴甕になり、高坏も北部九州型に転換し(この変化は肥後北半部が早く南半部はⅡB期)、ⅡB〜ⅡC期に福岡平野の「北部九州型布留甕」が伝播し土器様相が一変する。

弥生後期以来の最有力の大型拠点集落が分布した菊地川、白川、緑川の中・上流域には有力な前期古墳が築かれず、玉名(菊地川下流)、宇土半島基部(緑川下流)に築かれ始め(ⅡC期)、その頃までに弥生後期以来の拠点集落群が解体する。狗奴国(実際は「クマ国」か)が球磨盆地に後退し衰亡したとの説は(木﨑 2015b)、考古資料と整合的である。

「魏志倭人伝」には狗奴国と女王国の結末が書かれていないが、菊池秀夫さんは、大分県豊後大野市高添遺跡では突然家屋が解体され、「周辺の遺跡でも家屋の廃棄の痕跡が見られ、古墳時代の前期前葉以降に突如として人的活動の痕跡が消えてしまい、墓地も全く発見されていない。・・・西弥護免遺跡の環溝内の住居跡の多くが焼失し、平安時代まで空白になっている・・・・・・前述した五箇所の全ての地域において、弥生時代と古墳時代の間に連続性が見出せないのである。このことは、さらに九州全体についても言える。つまり、古墳時代になって女王国連合と狗奴国の両方が消滅したか、移動したという仮説しか考えられないのである。(菊池前掲書,pp.199-201)と注目すべきことを書いておられる。なお、五箇所の遺跡は、方保田東原を中心とする菊池川流域、西弥護免遺跡を中心とした白川流域、狩尾遺跡群を中心とした阿蘇谷の地域、高添遺跡を中心とした大分県大野川流域、宮崎県川床遺跡を中心とした一つ瀬川流域だ。



じゃあ、勝手に北部九州と肥後・日向の狗奴国が消滅したか纏向に移動してヤマトになったということなのかな?これでは「ヤマト王権成立の説明にはならないと思うけど(;´Д`)

先に述べた仁藤さんが主張する狗奴国の条件に「中国王朝や中国地方政権との直接交渉が十分考えられる地域」だというのは非常に重要な指摘で、これは前回も述べたが、魏のライバルの呉が狗奴国の後ろ盾になっているはずだと考えられるのだ。しかし、上で述べたとおり狗奴国が肥後や日向ではこれに該当しない。北部九州の邪馬台国連合倭国と対立する纏向の狗奴国ヤマトはすでに述べたように、物証として呉の紀年鏡が山梨県取居原古墳と 兵庫県安倉古墳に見つかっているし、呉の孫権の動きを考えても、敵対する魏が難升米に正規軍の旗「黄幢」をさずけたことから見ても、纏向の狗奴国ヤマトは魏と敵対する呉の同盟国とだと推理できるのだ。

つまり、狗奴国を中・南部九州とする仮説も、古墳時代初頭にどうして纏向遺跡にヤマト王権が成立したのかが全く説明できないが、纏向遺跡に狗奴国が在ったという刮目天の仮説であればヤマト王権成立のほとんどの謎が解けるのだ。

【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)で述べたが、第三次倭国大乱を「記紀」では仲哀天皇の祖父である景行天皇の熊襲征伐の話にして誤魔化しているが、実際に、豊後、日向や肥後などはその戦場になったことが鉄鏃・銅鏃の分布から推理できることを示した(注1)。最終的にヤマト勢が大国主・台与が支配していた北部九州を占領し、そのまま四世紀から六世紀まで九州の大半を物部氏が支配し続けることになったようだ。特に宗像大社の周り北九州に物部氏が集中しているので、多くの研究者は物部の出身地と勘違いする方が多いが、物部は吉備のニギハヤヒ大王の一族なのだ。六世紀に大和朝廷に反乱を起こしたとされる筑紫の君磐井も出身地は諸説あるようだが、吉備の物部氏である可能性が高いと考えている。これについてはまた、検証したい。



以上、【検証13】から今回の【検証17】まで三世紀の北部九州を中心に詳しく調べた結果、刮目天の仮説によって矛盾なく説明できることを改めて示すことができた。紀元前九世紀か十世紀頃に江南出身の呉人(倭人のルーツ)によって水田稲作が日本列島に導入されて弥生時代が始まったのは間違いないが、日本の青銅器文化は春秋の呉王の末裔天御中主(あめのみなかぬし)が弥生中期初頭に福岡市早良平野に降り立ったことに始まる。何度も述べて恐縮だが、漢の倭の奴国王の金印が蛇紐なのだから蛇(ナーガ)を神として祀る民族だった。天御中主はその王を意味するのだ。「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」というシナの歴史書(新唐書、宋史)のとおりであるので、天御中主こそ日本の始祖王であり天皇家の皇祖神であることは間違いない事実だ。これによって日本建国に関わる多くの謎が解き明かされるのだ。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆





(注1)「日本書紀」と史実について
仲哀天皇の熊襲征伐は卑弥呼が死ぬ原因となった247年3月24日の日食の後の第二次倭国大乱に対応し、仲哀天皇は住吉大神の神託を信じないために死んだ。これはヤマト勢を主将として率いた尾張王が倭国王に立ったために狗奴国の官狗古智卑狗(武内宿禰=住吉大神のモデル)と内戦が起き、殺された史実に対応することはすでに述べた。

その後に仲哀天皇の祖父の景行天皇の登場だから、史実を誤魔化すためのデタラメだった。仲哀天皇はその父の日本武尊(やまとたける)が死んで38年後に生まれた計算になるから景行天皇・日本武尊・仲哀天皇の関係は全て作り話だと分かるのだ。日本建国の英雄日本武尊は誰がモデルなのか今は分からないが、初代応神天皇が即位して東国を鎮撫して回った四道将軍のひとり大彦命かその子の武渟川別か、東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)などの尾張王ではないかと思う。四道将軍のルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とだいたい重なっているので、史実と考えられるのだ。(2024.1.25 赤字訂正)

刮目天は纏向遺跡の外来系土器の中で東海勢の土器が最も多いことから、仲哀天皇は倭国王に立った男王であり尾張王と推理した。景行天皇はその後を継いだ尾張王だろう。尾張氏は物部氏と同族で、奴国の正統な後継者で吉備を平定しヤマト政権の基礎を築いた真の皇祖神天照大神尊ニギハヤヒの子天香語山命を祖とする有力豪族だ。東海は祭祀の面では隣接する近江にルーツのある前方後方墳を採用しており、近江との繋がりが強いので、「記紀」では近江出身の気長足姫(おきながたらしひめ)を仲哀天皇の后神功皇后という設定にしたのだろう。第二次倭国大乱で遠征軍の主将を務められる有力者だったということだ。そして「魏志倭人伝」では狗奴国王卑弥弓呼よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が一番の有力者だから尾張王(仲哀天皇)を殺した出雲・丹波王で、近江・北陸を支配するムナカタ海人族の十三歳の姫巫女の台与を女王に立てたと推理した。

【検証19】日本建国のための戦いだ!
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)
尾張と言えばカニだ~わ!


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