灯台下暗し -カッターナイフで恐竜を腑分けした記録-

仕事で携帯向けアプリを書いて、趣味で携帯電話を買い、趣味で同人小説を書いて、何もしていません。

善良な人間と邪悪な人間がいるという世界観はサイコパスも使う

2017-09-03 11:35:04 | Weblog

僕は専門的に心理学と精神医学を学んだことはありませんし、胸の内で「あんにゃろめー」と恨んでいる相手が客観的にサイコパスやソシオパスに相当するのか教えてくれる人はいません。ただ、本を読んでいて思うことがあるので書きます。

サイコパスないしはソシオパス(以降「サイコパス」に統一します)について知りたいときにまず読むべき本である、マーサ・スタウト「良心を持たない人たち」には、サイコパスに対処するためのルールの一番目として、「1 世の中には文字通り良心のない人たちもいるという、苦い薬を飲みこむこと」を挙げています。自分の利益のために手段を選ばない人に相対峙して敗れた後の苦い思いがよく出ています。

ただ、出会った当初はともかく、いろいろ起きた後で振り回されている状況においては、事はそう単純ではなくなります。

誰もが「サイコパスが起こした」と認める事件、北九州監禁殺人事件の Wikipedia での記述を読むと、既に中心人物の行状が明らかになった後の周囲の行動について、平静に考えれば不可解な点があると指摘されています。

この事件の死亡者は他者から見て不可解な行動(「詐欺の指名手配で逃亡しているXやYの居場所等を警察に伝えて、逮捕させることはできなかったのか」「Xから酷い虐待されているのに、何故、逃げずにXの言いなりになったのか?」「Xから握られた弱みは、Xから酷い虐待を受けながら殺されるほど深刻なことだったのか?」「夫がいる身にも関わらず娘、又は姉の交際相手と肉体関係を持ったのは何故か?」等)がいくつかあるが、死亡者の場合は「死人に口なし」として行動心理を本人から聞き出せず不明なままとなっている。
(引用注: この後に生存者が語った事情が記されています)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E6.AD.BB.E4.BA.A1.E8.80.85.E3.81.AE.E8.A1.8C.E5.8B.95.E5.BF.83.E7.90.86

中心人物は、人格がどうであろうと、行状だけ見たら、もうアウト。彼が犯罪者であることはとっくに分かっているのに、周囲が誰もそのことを言えない。周囲は、彼を犯罪者ではないと思っていたのか、思っていたけど恐怖で言えなかったのか。それは、はっきりとは分かりません。

犯罪者が犯罪を犯すのか、犯罪を犯したら犯罪者なのか。僕がその区別を教えてもらったのは田中久美子「記号と再帰」からです。『たとえば物語論ではトドロフ[110]は、登場人物を「である」と「する」の二種に分類しており、たとえば、殺人者の描き方としては「殺人者であるので人を殺す」と描く場合と、「人を殺すので殺人者」と描く場合の二種類の描き方があるという[70]。』
(ここで[110]は Tzvetan Todorov. The Poetics of Prose. Cornell University Press, 1977. [70]は Sky Marsen. Against heritage: Invented identities in science fiction film. Semiotica, Vol. 152, pp. 141-157, 2004. 僕はどちらも読んでいません。)

これのどちらが正解と言うことはありません。どちらにも欠点はあります。「殺人者であるので人を殺す」という認識の方は、殺人者でないと思われた人が殺人を犯した場合に心に混乱が生じます。

サイコパスは、犯罪(あるいは犯罪的だが法に触れない行為)を行った後に、自らを、犯罪を犯すような人間ではなくやむにやまれぬ事情があったと周囲に信じ込ませようとすることが指摘されています。先ほどのマーサ・スタウト「良心を持たない人たち」にも、その記述があります。

二五年にわたって被害者からの話をきいてきた現在では、サイコパスがなぜ同情を買うのが好きなのか、私にはとてもよくわかる。その理由は、善良な人たちが、かわいそうな人間にたいしては、殺人をも見逃しがちだからだ。そのため、ゲームの続行を望むサイコパスは、同情を誘うような演技を繰り返す。

行状だけを見たら、もうアウト。それを、自分は善良な人間であり事情があったのだと信じ込ませて逃げおおせる。それがサイコパスの生き延び方です。

やむにやまれぬことがある、という見方は、たとえば、尊属殺人でも執行猶予判決の余地を残すべきという判決が下った栃木実父殺し事件の経緯を読むと、必要だと痛感します。でも、乱用は困るんです。

世界観を変えればサイコパスによる洗脳から逃れられるだなんて保証できません。ただ、「サイコパスという良心を持たない人間がいる」という認識は、サイコパスが周囲に信じ込ませる「自分は善良な人間であって本来なら犯罪を犯さない」という認識と相似していて、違う目線で見るには「犯罪を犯せば犯罪者」という立場に立つこともできます。その点が、精神医学の「サイコパス」という診断には、全体から見たら些細な課題がある、と僕は思います。

なお、北九州監禁殺人事件の教訓の一部を引用すると、犯罪者であるとする見方の「犯罪者の企図に気づく目を養うこと」と、犯罪を犯せば犯罪者とする見方の「不審な出来事は警察に通報すること」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.8B.E4.BB.B6.E3.81.AE.E6.95.99.E8.A8.93 があり、どっちの見方もやっぱり必要なんですね。

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