灯台下暗し -カッターナイフで恐竜を腑分けした記録-

仕事で携帯向けアプリを書いて、趣味で携帯電話を買い、趣味で同人小説を書いて、何もしていません。

「病んだ自己愛」とは何なのか

2019-05-03 12:31:04 | 日記

しばしば、「自己愛」には「健康な自己愛」と「病んだ自己愛」(あるいは「歪んだ自己愛」)があると言われます。傲慢さや他者からの搾取は「病んだ自己愛」が発端であるとされます。そう言及すると、健康であればいいはずの自己愛がどうして病むのかという議論になります。

僕は、その議論の土俵に疑問を持つのです。僕自身が誇大妄想を内に抱えていた(主治医から「統合失調症ではないけれど辛い時期もありましたね」と言われている)経験を持ちますし、誇大宣伝と他者からの搾取を繰り返す人物を間近に見てきたところから、それはちょっと違うのではないかと。

僕は医療者ではなく患者なのですが、思うところを語りたいのです。

「自己愛」の一つの有り様は、条件が良くなくても自分を大切にできる能力、だと言われています。その能力があれば社会的にうまくいかなくても自分が特別でなくても平穏に生きていけますが、その能力がなければうまくいかないときに自分が発狂するのではないかと感ずるほどに苦しみますし場合によっては自ら命を絶ちます。

その能力がないときに平穏に生きていこうとすれば、自分を育てて耐えられるようにするか、外的条件を良くしなければいけません。自分を育てれば平凡な人物になります(それは素晴らしいことです)。自分を育てず外的条件を良くしようとするとどうなるか。

傲慢さや他者からの搾取は、僕に言わせれば、ひ弱な自分でも生きていける好条件を求める渇望です。自分には特別待遇が与えられてしかるべきと信じて行動するところを「自分を愛している」と解釈されたかもしれませんが、出発点はひ弱さであり、外部にばかり働きかけ、求める分だけ奪おうとするために相手の反応に応じて力を加減する応答性がほとんどありません。

「愛」を定義することが難しいので「愛ではない」ことは証明できません。でも、何かを保護する働きがほとんどないのは見て取れると思います。すると「愛の一つの形」とみなすより「渇望」だとみなす方が、僕には納得がいくのです。

僕自身も心がひ弱なために特別待遇を求め、当然にしっぺ返しを受けました。そのことを反省していると述べて、この自己顕示欲に満ちた文章を終えます。

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