灯台下暗し -カッターナイフで恐竜を腑分けした記録-

仕事で携帯向けアプリを書いて、趣味で携帯電話を買い、趣味で同人小説を書いて、何もしていません。

追い出されるのは自分であることに気づかなかった人たち - 東京2020開幕によせて

2021-07-22 13:10:55 | 日記
水に落ちた犬を叩くのは恥ずべきこと。それでも、事がここまでにいたり、書くことにしました。

女性蔑視発言を批判され組織委員会の会長を辞任した森喜朗氏。過去にいじめを自慢したことを指摘され開会式音楽担当を辞退した小山田圭吾氏。過去にホロコーストを揶揄する動画を公開したことを指摘され開会式演出担当を解任された小林賢太郎氏。

僕は彼らに共通の傾向を見ます。

永久に自分がルールを決めて裁く側であると意識していること。コミュニティから人を追い出す立場にあると意識していること。自覚しているかどうかにかかわらず、あるコミュニティにおいて自分が「主人」であると意識していること。

自分がコミュニティをまとめる側であると意識することは悪い面ばかりではありません。少数派を優遇しすぎて大多数が不利益を被る逆差別はこれまた問題です。しかし、自分が他人を追い出す側にあると感じたとき、たまに、いや、かなりの頻度で、周囲に対して礼を失した行動に出ます。

女性を馬鹿にしても追い出されるのは女性だと思っていた。障害者をいじめても障害者だから泣き寝入りすると思っていた。ホロコーストを笑いのネタにして世間に向けて高みの見物をできると思っていた。いずれも自分が裁く側だと意識し、裁かれ追い出される側に回ることを意識していませんでした。そして本人にとっては予想外の事態に陥り、追い出されるに至りました。

一つの小話をします。ある男性が言いました。「私を見てください! 女性のようにヒステリックではありませんし、障害者と違って頭脳優秀で身体は健康です。私を世界の舞台に引き上げてください!」 すると世界は言いました。「他人を虐げる人間は舞台に上げられません。スポットライトが当たるのは、貴方が虐げた人間です」 この小話に出てくる男性の滑稽さが分かりますか? それが東京2020の滑稽さの一部です。

滑稽なのは日本だけではありません。IOCバッハ会長も、自分が職を追われるとは考えていないでしょう。いくら報道で批判されても立場が守られている以上痛くない。そう思っているのではないでしょうか。

コミュニティの主人の、コミュニティの主人による、コミュニティの主人のための大会。東京2020は、そういう大会だと思います。

この文を書いた僕は裁かれ追い出される側に回るのか? おそらくそうなることもあるでしょう。そうなったときに痛手を負わないよう自重しようと思います。
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「病んだ自己愛」とは何なのか

2019-05-03 12:31:04 | 日記

しばしば、「自己愛」には「健康な自己愛」と「病んだ自己愛」(あるいは「歪んだ自己愛」)があると言われます。傲慢さや他者からの搾取は「病んだ自己愛」が発端であるとされます。そう言及すると、健康であればいいはずの自己愛がどうして病むのかという議論になります。

僕は、その議論の土俵に疑問を持つのです。僕自身が誇大妄想を内に抱えていた(主治医から「統合失調症ではないけれど辛い時期もありましたね」と言われている)経験を持ちますし、誇大宣伝と他者からの搾取を繰り返す人物を間近に見てきたところから、それはちょっと違うのではないかと。

僕は医療者ではなく患者なのですが、思うところを語りたいのです。

「自己愛」の一つの有り様は、条件が良くなくても自分を大切にできる能力、だと言われています。その能力があれば社会的にうまくいかなくても自分が特別でなくても平穏に生きていけますが、その能力がなければうまくいかないときに自分が発狂するのではないかと感ずるほどに苦しみますし場合によっては自ら命を絶ちます。

その能力がないときに平穏に生きていこうとすれば、自分を育てて耐えられるようにするか、外的条件を良くしなければいけません。自分を育てれば平凡な人物になります(それは素晴らしいことです)。自分を育てず外的条件を良くしようとするとどうなるか。

傲慢さや他者からの搾取は、僕に言わせれば、ひ弱な自分でも生きていける好条件を求める渇望です。自分には特別待遇が与えられてしかるべきと信じて行動するところを「自分を愛している」と解釈されたかもしれませんが、出発点はひ弱さであり、外部にばかり働きかけ、求める分だけ奪おうとするために相手の反応に応じて力を加減する応答性がほとんどありません。

「愛」を定義することが難しいので「愛ではない」ことは証明できません。でも、何かを保護する働きがほとんどないのは見て取れると思います。すると「愛の一つの形」とみなすより「渇望」だとみなす方が、僕には納得がいくのです。

僕自身も心がひ弱なために特別待遇を求め、当然にしっぺ返しを受けました。そのことを反省していると述べて、この自己顕示欲に満ちた文章を終えます。

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若い人が信頼する人は、信用できないな

2017-10-01 12:24:18 | 日記

挑発的なタイトルで始めましたが、若い人が信頼するとはどういうことか、から説明していきます。

あるとき Twitter で、「社会には年をとっても馬鹿な人間がたくさんいます。みなさん、ご健闘を」と書いたつぶやきがたくさんの「いいね」を集めていました。

若いみなさんは、このつぶやきを見て、いいことを言った、とか、この人は優秀なのだろう、と思ったでしょう。否定的に捉える人は少ないのではないでしょうか。

僕は、こういう物言いをする人が嫌いなんです。

その理由は、「優秀である」ことと「優秀と評価される」ことのギャップにあります。

みなさんが、自分が優秀であると感じるときや、他人を優秀と認めるときは、どんな言動を見たときですか。その中で、他人の至らなさを指摘する言動は大きなウェイトを占めていないでしょうか。

他人を低く見る態度で得られる有能感を、ちょっと否定的に見た考え方として、心理学には「仮想的有能感」という言葉があります。その言葉を作った論文の PDF から、ちょっと長くなりますが、引用します。

現代の若者には「馬鹿だといわれたらどうしよう,『負け組』になってしまったらどうしよう」という「不安」が自らの内側にあるために,先に相手に「バカ」「負け」と攻撃して「自分はそうじゃない」と確認しようとするのだという。そのような他者の能力の軽視が実は自分の仮の有能感を回復させることに繋がっているように思われる。先(引用注: 引用箇所より前の箇所)に述べたように現実的な有能感が十分に得られないことで人は無意識的に他者軽視を通じて有能感をえようとしているのかもしれない。しかし,そこで得られる有能感は所詮,真実でない,仮想的な有能感なのである。
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/7530/1/KJ00004191127.pdf

つまり、他人を低く見ることは、本人に能力がなくてもできるんです。

上の論文では、本人が有能感を感じているかどうかを問題にしていました。僕が周囲を見ていると、若い人たちの間では、他人を評価するときにも「他人がバカに見えているか」を基準に優秀だと認めていないか、という疑いが拭えないんです。こうなると、他人が認めているわけですから、有能感は「仮想」ではなくなります。でも、裏付けがなくても持てる感覚ですから、信じて付き従うと大変な目に遭うこともあります。

ここまでは「プラスマイナス0」の話でしたが、明らかな「マイナス」に至ってしまう場合もあります。

心理学では、実態を超えて自分の存在が優秀で尊いと思い込んでいる事態を表す「自我肥大」や「誇大自己」という言葉があります。それが病気として扱われるときは「自己愛性パーソナリティ障害」という病名がつきます。ネットにはその患者の被害者が多くいて、「自己愛」で検索すると多数の怒りと愚痴と嘆きが出てきます。

そのような心理状態に陥った人は、「自分は優れている」「周囲は無能で卑しい」「私は被害を受けている」というストーリーを真顔で語ります。それは病気の症状であって、現実を反映していない妄言です。

それがどうした? と思われるかもしれませんが、問題があります。「自我肥大」「誇大自己」の心理状態は、自分の利益のために嘘をつくことに良心の呵責を抱かない性格特性と直結しているのです。

病的な嘘つきがどれほどひどいか、という話は、電子書籍ですが「虚言癖、嘘つきは病気か」(著:林公一)という本を参照願います。

周囲が無能で被害を受けていると語る人の中には、自分の利益のために嘘をつくことに良心の呵責を抱かない人が紛れ込んでいます。しかし若い人は、周囲が無能で被害を受けていると語る人を見るといいことを言う人だと評価します。つまり、いいことを言う人だと評価されている人には、嘘つきが紛れ込んでいる恐れが十分にあるんです。このことの怖さが分かりますか?

40 歳を過ぎたおっさんの経験を言わせてもらえれば、自他共に優秀だと認められた人の中には他人を裏切って平気な人が大勢いました。周囲から信用されていない人は、そんなに他人を裏切りません。世の中は皮肉なものです。

「現実に優秀な人もいるのにね。バカが好きなのかwww」という意見があるのは承知しています。現実に優秀な人がいることを否定しません。でも、クズが周囲を騙していたことを、僕はたくさん経験したんです。

若い人から信頼を集めていると聞くと、最上の人間か最低の人間かのどちらかだろうから、しばらくの間は距離を置いて様子を見たい。おっさんは、そう思うようになりました。

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統合失調症の素因は未開社会では生存に有利に働いたかもしれない

2017-06-25 14:32:12 | 日記

僕は心理学・精神医学を学んだことはなく、むしろ精神科の患者で他人より病んだ精神の持ち主なのですが…… 自分が楽になりたくて精神医学の一般向け解説書を読むと、いろいろ思うことも出てくるわけです。それと、自分の経験を話したい気持ちがありまして。

統合失調症は素因、分かりやすく言えば遺伝が大きく関わっていることが分かっています。すると多くの人が考えるはずです。どうしてそんな遺伝子が残っているの? と。

中井久夫「最終講義」は統合失調症が精神分裂病と呼ばれていた当時の著作ですが、そこにも「もし、分裂病が太古からあったものとすると、どうして今日まで残っているのか、分裂病になりやすい人は淘汰されて残らないはずではないか、という疑問があるでしょう。」(p.90)とあります。そこには中井氏なりの仮説が述べられています。

そこに、現代の精神医学の潮流から全く外れており顧みられることのない一文があります。「私はひょっとすると、分裂病は特に幼児期あるいは青年期のマインド・コントロールに対する防衛という面があるのではないかと思っています。」(p.93)

この一文が無視されるのは、一つには、患者の家族に汚名を着せる恐れがあるためです。現代の精神医学では、まず患者に病院に来てもらわなければ治療できず、そのためには家族を味方につけなければならないので、家族を責めることを徹底的に避けます。発育環境によって生じる「愛着障害」を、あえて、先天的な(つまり親に責任がない)「発達障害」と診断して患者家族を引き留める、という事態もあるくらいですし。それと「マインド・コントロール」の定義も曖昧です。研究者によれば「このような破壊的カルトのマインド・コントロールを一言でいえば、それは、ボトム・アップとトップ・ダウンの二種類の情報を統制することによって、個人の精神過程および行動の完全なコントロールをもくろむものといえる。」(西田公昭「マインド・コントロールとは何か」p.60)という定義もありますが、それと同じなのかも分かりません。問題だらけの一文です。

でも、これを念頭に他の解説書を読むと、繋がっているのではないかと思うことがあります。

岡田尊司「統合失調症」では、未開社会での統合失調症患者への治療が解説されています。そこでは、土着のシャーマンが、患者の身内が正しくない行動をしたため超自然的な力が封印を解かれたと説明し、患者の身内すべての者が治療に関わるように説得します。(p.205)

そんなので統合失調症が治るわけがない、と笑うかもしれませんが、驚くなかれ。そのような「治療」を受けた患者の回復は現代の治療より早いことが確認されています。原因がでたらめでも、結果オーライ。

現代でも、患者を無下に否定しない対話を重ねることで薬物治療の必要性を減らす「オープン・ダイアローグ」という治療法があり、薬物なしで統合失調症の初期の患者を回復させる治療法が患者を「教育」していないというのは面白いところです。「精神病患者は知的に劣った人間である。知的に劣った人間には教育が有効である。よって精神病患者には教育が有効である」という三段論法は近代以降のものです。そこに落とし穴はないのかな、と言い出すと話を広げすぎですね。ごめんなさい。

さて、ここで中井氏の著作に戻ると、このような社会なら統合失調症の遺伝子を持つことは生存に有利ではないかと思えるのです。

多くの人がマインド・コントロール的扱いを受けた際に精神を操られていくのに、そこで統合失調症を「発症できる」人はシャーマンによるドクターストップがかかり周囲の振る舞いが矯正されて本人は短期で正常に復帰できるとしたら。

この状況なら統合失調症の素因が明確に社会的利益をもたらします。

しかし現代は「精神病患者には教育が有効である」という社会です。統合失調症に陥れば相手が「いかようにでも教育してよい」権利を得て、患者は生殺与奪を握られます。そこで、社会的に有利だった特質が不利な特質に変わったわけですね。

これは一般向け解説書を二冊つなげただけで、証拠は何もありません。でも、与太話としては十分に面白いと自負しています。

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メタ認知を破壊すれば教育ではなくモラル・ハラスメントやガスライティング

2017-06-25 13:41:17 | 日記

僕は心理学・精神医学を学んだことはなく、むしろ精神科の患者で他人より病んだ精神の持ち主なのですが…… 自分が楽になりたくて精神医学の一般向け解説書を読むと、いろいろ思うことも出てくるわけです。それと、自分の経験を話したい気持ちがありまして。

僕は大学生時代、ダメな学生でした。研究室で指導を繰り返されると、指導されるほど次に考えることが怪しくなり、次第に研究室のお荷物になり、留年で足りず病気を理由にした休学までして在学を引き延ばし……

でも、これ、そんなに故のないことではないと今では思うのです。

唐突ですが、ここでAmazon(あの、通販サイトです)で、もしも、を想像してください。ある商品にレビューがついています、複数。ですが、かつてのAmazonはレビューが役に立たなかったというコメントも公開されていましたが、その商品についたレビューはどれも役に立たなかったというコメントばかり。するとあなたは思うでしょう。一体なにが本当なの? と。

現在のAIの判断と人間の判断には大きな違いがあります。AIは「○○が××である確率は~%」と答えを出しますが、人間の判断は「○○は××だと思うし、それには自信がある」という二段構えです。後半の、自分の考えの確かさを自分で判断しているところを「メタ認知」と呼びます。

Amazonでは、レビューにさらにコメントが付くことでレビューの有用性を上げていますが、人間の判断も同様に判断の確かさを自分で判断することで誤りを減らしているのです。

コメントにコメントは必要ないのか? という意見もあるでしょう。想定はされていて、情報科学ではコメントのコメントのコメントの……と繋がったものを「リフレクションタワー」と呼びます。しかし、コメントのコメントをつけても実際問題効果は乏しいんですよね。一段コメントをつければ十分、というのはAmazonの成功が実証しています。人間も、無駄があれば淘汰されているでしょうから、効率的な形になっているでしょう、多分。

このメタ認知も学習によって作られます。失敗が続けば「ちょっと自信ないなあ」と用心します。ですが、あまりに否定されすぎたら?

先ほどのAmazonのレビューの例え話に戻ってきましょう。あのレビューもこのレビューも役に立たなかったというコメントばかり。それを繰り返せば「正しい」レビューが出てくるのでしょうか。いいえ、人間は、否定される経験が重なりすぎると、次の判断ができなくなるのです。

褒めれば同じ行動を繰り返し、叱ればその行動をしなくなる、という条件学習の理論は、時系列を無視しています。人間は過去の経験を忘れるほど馬鹿ではありません。否定ばかりが続いたとき、自分自身への信頼を失い、次の判断を先延ばしします。それは、一見、当該分野に対して知識が無い人間の振るまいに見えます。自分で何か判断するには、自分自身への信頼がある程度必要なのです。

この、自分自身への信頼を失った状況は、モラル・ハラスメントやガスライティングの被害者に見られます。あ、ガスライティングはネットでは統合失調症患者の妄想とされていますが、ちょっと違う内容で理性ある心理学者の研究の一分野となっていることはWikipediaを参照願います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0


モラル・ハラスメントやガスライティングでは、徹底的に相手の判断を否定します。すると被害者は自分自身への信頼を失い、加害者の判断を待つようになります。はい、奴隷の一丁できあがり。

正しければ褒め、間違っていれば叱る、間違いばかりなら全て叱られて当然、という教育を行えば、生徒が何も判断できなくなるのは、故のないことではないのです。

じゃあ自信ばかり育てれば良いのか、と問われると、自信を否定すること全てを否定したら確かに教育はできません。行き過ぎた自信を削ることは必要です。でも貶めすぎると思考に異常を来します。さじ加減の問題になります。

モラル・ハラスメントやガスライティングは、一つ一つの出来事は通常の教育と同じであり、それが1ヶ月や1年などある程度の期間で見た際に否定ばかりが続いて相手が自信を喪失したことを示して初めて被害を立証できる、というのが、立証を難しくしている点なんです。

教育は、生徒の判断が正しかったと認められる成功経験が無いと効果を発揮しないんです。言わば「生徒に花を持たせる」ことが必要になります。なにをやってもさらに上を行く回答を示して自分の優位性を示したいそこのあなた、あなたに教育はできないと思います。

生徒が何もかも間違っている、直さなければならない、と思ったなら、きついことを言えば、もう直すべきではありません。別れないと、双方にとって不幸な結末が待っています。


メタ認知を破壊すれば言うことを聞くようになるのか、良いことを聞いた、と思っているそこのあなた。自信をなくした人間は知的生産を全くできなくなるので、職場や大学の研究室で行えばお荷物を作るだけです。洗脳は、カルトで行われているように、既にある財産を吸い上げることしかできないんです。忠告しましたからね。

ここに書いたものはベイトソンのダブル・バインド論の焼き直しではないかと問われると、ベイトソンの著作を読んだことはありませんが、指摘は正当だろうと想像します。ただ、現代の私たちにはレビューコメントという例え話ができるので分かりやすくなっているだけです。

「メタ認知」なんて格好いい言い方でなくて「自信」でいいのでは? と問われると、はい、そのとおりです。(ペコ)

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ある小咄

2014-11-05 21:10:05 | 日記

統合失調症の息子が病気を理由にぐうたらしています。もう許せません。なのでダブルバインドを使って逃げ場をなくして「改心します」と言わせました。これで息子は真人間になるでしょう。
(拙作)

ダブルバインドが統合失調症患者を作るという説には証拠がないので、この小咄には根拠がありません。でも、こんな家族は世間によくあると思いますよ。

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ハイファイオーディオに非可聴域が必要という、単純な説明

2014-09-06 13:32:45 | 日記

最近はハイファイオーディオが盛んに宣伝されています。僕は、いい時代が来なたと思っています。思っていたことを素直に言えるようになりましたから。

昔から非可聴域の必要性は指摘されていましたが、その説明がまずかったです。「聞こえない音が人間に心地よさを与える」といった漠然とした説明がまかり通っていたので、大多数からはオカルト扱いされてました。

デジタルオーディオの基盤である標本化定理を押さえていれば、非可聴域の必要性は簡単に説明できたんです。「x Hz の音」と「x Hz の周波数成分」の違いを分かっていればよかったんです。

「x Hz の音」とは、1秒に x 回振動している音です。人間は 10,000 Hz の正弦波を聞き取れますが、30,000 Hz の正弦波は聞き取れません(特別な人はそういない、と信じています)。

それに対して「x Hz の周波数成分」とは音声信号をフーリエ展開したときに見つかる、音声信号の構成要素です。必ずしも x Hz で振動しているわけではありません。

10,000 Hz の正弦波に、振幅の小さな 30,000 Hz の正弦波を重畳してみます。何回振動しているかと質問されたら 10,000 Hz と答えざるを得ませんが、その波形は正弦波からはかなり崩れています。その信号と 10,000 Hz の正弦波を人間が聞き分けられたら、原音再生には 30,000 Hz の周波数成分が必要だったということなんです。そして、30,000 Hz の周波数成分を記録するには、標本化定理から、60,000 Hz を超えるサンプリング周波数が必要なんです。

「正弦波から乖離している自然の音声信号をフーリエ展開すると高い周波数成分が現れる。その周波数成分を省くと波形が変化し、人間に違いが分かってしまう。デジタルオーディオが高い周波数成分を記録するには、標本化定理の制約から、非可聴域の音を記録できる能力が必要になる。だからハイファイオーディオには非可聴域が必要なのだ」 そう説明していれば破綻はなく、オカルト扱いされずにすんだのです。

ただし、この説明には弱点があります。人間は高い周波数成分に鈍感であることが実証されていることです。それは議論の余地なく確認済みで、MP3 など圧縮音源はその見識を元に設計されています。ただ、現在のハイレゾオーディオは圧縮音源に飽き足らない人のためにあるので、違いが分かるとおっしゃる方は結構いらっしゃるのかもしれません。

それにしても、正弦波をゆがませて聞き分けられるか試す官能試験は実施すると面白い結果が出ると思うんですけどね。「違いが分からないことがばれるからオーディオメーカーはしないんだ」というニヒルな考えに僕は賛同しません。きっと違いは分かると信じています。

P.S.
こんなに力説しましたが、僕はハイレゾオーディオ機器を購入していません。心の奥底では、音の違いに金額分の価値を認めていないのかもしれません。

[追記 2014-09-07]
これを書いたあとで、同様の実験を行った論文があることを知りました。もう実験されてたんですね。結果は、非可聴域の純音を聞く被験者はいなかったものの、非可聴域の周波数成分の有無は音源と聴取時間と被験者の条件の組み合わせによっては聴感に影響を与えたとのこと。僕の思い込みを肯定する結果ですが、聞き分けられた人はどうも特別っぽい。僕には無理そうです。

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Windows 8 PC を買ったら(修理の日のために)ローカルアカウントを作りましょう

2014-08-30 16:35:04 | 日記

去年末に富士通 Windows 8 ノート PC を買い、8ヶ月で電源が勝手に切れるようになってしまったので修理に出しました。量販店の修理受付に持って行くと「ログインパスワードを教えてください」と指示されました。調査のためにログインすることがあるからです。

……ちょっと考えてみましょう。Windows 8 は PC のアカウントが Microsoft アカウントと紐付いています。ログインパスワードを教えると、作業員は私の Microsoft アカウントを自由に使えるのです!

PC を修理してもらうときにメーカがログインできるアカウントがないのは Windows 8 のユーザ管理の盲点だと、そのとき気づきました。

窓口で店員と押し問答をしてすったもんだのあげく、ログインパスワードを教えないで修理に出しました。結局ハードウェアトラブルだけで修理が完了したからよかったのですが、私はいったいどうしたらよかったのでしょう?

富士通に聞くと、ローカルアカウントのパスワードを教えてくださいとのことです。自分のアカウントの設定を変えるか、既存のローカルアカウントを使うかです。でも修理が必要になってから設定を変えるのは困難です。

つまり、修理用のローカルアカウントを作っておかないと修理の時にトラブるんです。そのアカウントは管理者権限を持つ必要がありますから、しっかりとパスワードで保護する必要もあります。

故障したら買い換えるという方はかまいません。自分の予算に比べて高い PC を買ってしまって惜しいとか、自分が物持ちがいいと分かっていらっしゃる方は、悪いことは言いません、念のため、修理用のローカルアカウントを作りましょう。

手順: ユーザアカウントを作成する (Microsoft、2014年8月30日に確認したリンク)

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他人ですが、生き残ってほしいです

2011-12-27 22:42:12 | 日記

今日、携帯電話業界にとって、ささやかですが大きなニュースがありました。

ドコモ、国内企業やサムスンとチップセット関連の合弁会社

僕は他人かつ通信規格を知らない携帯アプリ屋ですが、国内の携帯電話ベースバンドチップ設計者には生き残ってほしいです。

つらい点は2つあります。一つは、すでに国内に海外勢と対抗できる半導体ファブがないこと。もう一つは、国内の携帯電話メーカが開発費を捻出するだけの消費者になれないこと。ファウンドリーをサムスンに限定する意味があるのかいぶかしがる人がいますが、理由を邪推すると、サムスン自身の携帯電話部門が大口顧客になってくれる期待を持っているのかもしれません。サムスンにとっても GLOBALFOUNDRIES や TSMC で製造されるチップを大量購入するより自社ファブを回転させた方がうれしいでしょう。

儲からないときに止めるより、生き残ることに好意を感じます。

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祖母の血

2011-06-04 13:27:57 | 日記
父方の祖母は「訳が分からない」が口癖でした。何か問われるとすぐ「なんだい、かんだい、訳が分からない」で逃げる人でした。晩年は話が通じませんでした。

最近の僕は、社会生活の基礎を理解できないと認めるようになり、社会的な話は「僕には分かりません」で済ませることが多くなりました。僕の晩年も暗いかも知れません。祖母の血が出てきたようです。
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