女性蔑視発言を批判され組織委員会の会長を辞任した森喜朗氏。過去にいじめを自慢したことを指摘され開会式音楽担当を辞退した小山田圭吾氏。過去にホロコーストを揶揄する動画を公開したことを指摘され開会式演出担当を解任された小林賢太郎氏。
僕は彼らに共通の傾向を見ます。
永久に自分がルールを決めて裁く側であると意識していること。コミュニティから人を追い出す立場にあると意識していること。自覚しているかどうかにかかわらず、あるコミュニティにおいて自分が「主人」であると意識していること。
自分がコミュニティをまとめる側であると意識することは悪い面ばかりではありません。少数派を優遇しすぎて大多数が不利益を被る逆差別はこれまた問題です。しかし、自分が他人を追い出す側にあると感じたとき、たまに、いや、かなりの頻度で、周囲に対して礼を失した行動に出ます。
女性を馬鹿にしても追い出されるのは女性だと思っていた。障害者をいじめても障害者だから泣き寝入りすると思っていた。ホロコーストを笑いのネタにして世間に向けて高みの見物をできると思っていた。いずれも自分が裁く側だと意識し、裁かれ追い出される側に回ることを意識していませんでした。そして本人にとっては予想外の事態に陥り、追い出されるに至りました。
一つの小話をします。ある男性が言いました。「私を見てください! 女性のようにヒステリックではありませんし、障害者と違って頭脳優秀で身体は健康です。私を世界の舞台に引き上げてください!」 すると世界は言いました。「他人を虐げる人間は舞台に上げられません。スポットライトが当たるのは、貴方が虐げた人間です」 この小話に出てくる男性の滑稽さが分かりますか? それが東京2020の滑稽さの一部です。
滑稽なのは日本だけではありません。IOCバッハ会長も、自分が職を追われるとは考えていないでしょう。いくら報道で批判されても立場が守られている以上痛くない。そう思っているのではないでしょうか。
コミュニティの主人の、コミュニティの主人による、コミュニティの主人のための大会。東京2020は、そういう大会だと思います。
この文を書いた僕は裁かれ追い出される側に回るのか? おそらくそうなることもあるでしょう。そうなったときに痛手を負わないよう自重しようと思います。