行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

米国の中国人留学生が語った「自由」と「空気」㊥

2017-05-27 10:59:19 | 日記
メリーランド大学の卒業式で中国人女子留学生は、米国の表現の自由をたたえ、中国の現状を息苦しいスモッグにたたえた。演説内容について引き続き言及する。

中国の大学に、彼女が批判するほど自由がないのかと言えば、そんなことはない。これも取材すれば一目瞭然である。

彼女はスピーチの中で、人種問題をきっかけに起きた1992年のロスアンゼルス暴動をテーマにした演劇『Twilight』が、学内で上演されるのを観た際の衝撃について、

In Twilight,the student actors were openly talking about racism,sexism and politic. I was shocked,I never saw such topic could be discussed openly。
(演劇『Twilight』の中で、学生の演者たちが、人種差別や性差別、政治についてオープンに語っていた。私は衝撃を受けた。今までこうしたテーマが自由に語られるのを観たことがなかった)

と述べている。だが、中国の大学でもこの程度の話は日常茶飯のように語られている。私のクラスでは、しばしば時事問題を扱うが、国内外を問わずタブーはない。彼女が内陸部の雲南出身で、沿海地区の大学とは開放度が劣ることもあるかも知れない。中国の地方間格差は日本人の想像を超えるほどだ。また、彼女が卒業式の場で、米国の教授や学生に向け、社交儀礼として誇張した表現を用いたことも考えられる。いずれにしても、学生レベルにおいて、「自由」への言及に関するネットでの賛否は、まともに取り合う意味のない切り口だ。

彼女は続けてこう語っている。

I have always had a burning desire to tell these kinds of stories, but I was convinced that only authorities on the narrative, only authorities could define the truth。
(私はずっとこうした話をしたい強い願望を持っていたが、こうした話は権威者だけが語るべきもので、権威者だけが真相を提示できるものだと思い込んでいた)

彼女が言う「こうした話」とは、前の演劇を受けている。それは「one that makes the audience think critically」、つまり人々に批判的な思考を許すものだ。だが、彼女が5年前、留学に来る前、中国の国内政治に関心を持っていたとは思えない。中国の学生は、共産党の複雑な権力構造についてまったく無知である。知らされていないというよりも、そんなことに関心を持つ余裕もなく勉強を強いられる。彼女の驚きは、「自由」よりも、そもそもそうした社会・政治問題の存在を発見したこと自体にあったのではないか。

むしろ、彼女のスピーチで大事な部分は次の個所だ。

Before I came to United States,I learned in history class about the Declaration of Independence,but these words had no meaning to me— Life,Liberty and the Pursuit of happiness。I was merely memorizing the words to get good grades。
(米国に来る前、歴史の授業で独立宣言について学んだが、生命、自由、幸福の追求、これらの言葉は私の人生にとって何の意味も持たなかった。ただいい成績をとるために暗記しただけだった)

詰め込み式教育への批判である。これは中国の教育が抱える最大の病根だと言ってよい。いい大学に行くために、ひたすら暗記をする。模範解答を書くのはずば抜けている。どうすれば教師に喜ばれるのか、つぼも的確に押さえている。TPOによってものを言い分ける高等技術も身につけている。彼女が登壇できたのも、その結果かもしれない。だから、ネットでの不条理な攻撃に対してはすぐに、「私は祖国と故郷を深く愛し、国の繁栄と発展を非常に誇らしく思っている。今後は外国で学んだことを用いて中華文化を発揚し、国家のために積極的な貢献をしたい」と声明を公表し、難を逃れることができる。表現の自由の価値をたたえた同一人物の発言とは思えない。

良くも悪くもこれが現実なのだ。おそらく彼女は舌を出して謝罪文を書いたに違いない。そう考えることが、彼女に敬意を表することになる。魂はそう簡単に売り渡していないのだ。批判する者の大半は嫉妬である。だからある日、もし彼女が米国の一流企業に就職したら、「大したものだと」と記念写真さえせがみかねない。気まぐれなネット世論とはそういうものだ。取り合うのもばかばかしい。

内外のメディアが騒ぎ立てる事態を、あっさりとやり過ごしてしまう彼女のしたたかさに、私は舌を巻くばかりである。

(続)

米国の中国人留学生が語った「自由」と「空気」㊤

2017-05-27 10:56:24 | 日記
昨日、日本の知り合いからメールが送られてきて、ある日本の新聞記事について感想を聞かれた。米ワシントンD.C. 郊外の名門、メリーランド大学での卒業式で、中国人女子留学生が行った代表スピーチの反響に関するものだ。スピーチの内容を要約すれば、彼女が米国のキャンパスで経験し、感銘を受けた表現の自由をたたえたもので、それを強調するため、自由を欠いた母国の言論空間をスモッグの息苦しさにたとえていた。


卒業スピーチをする中国人留学生


彼女がブログに公表した謝罪文。「スピーチは自分の留学体験を披露しただけで、国や故郷を否定したり、見下したりするつもりは全くなかった」

同新聞記事は、彼女がネットで愛国世論の袋叩きに遭い、「国や故郷をおとしめる意図はなかった」と謝罪を迫られたうえ、中国外務省もコメントする事態に至ったことを紹介した。ネットで知識人らが彼女を擁護していることにも触れており、各方面へのバランスに配慮した跡がうかがえる。私のクラスでも近く学生が、国内世論の反響を分析した発表をする予定なので、その経緯を踏まえ、私の同記事に関する感想を送った。

まず、記者の仕事としてはC級である。机に座って、日本でも書ける内容だ。わざわざ現地に身を置く特派員のする仕事ではない。記者は暇に飽かせた「暇ネタ」として書いている。記者が思考し、探求するために不可欠な取材を経ていないから、何を訴えたいのか、メッセージが伝わってこない。うまくまとめようという小手先の気遣いしか感じられない。

どうして大学に行って、あるいは町中に出て、人々の生の声を聞こうとしないのか。記者であれば、規制下にある匿名のネット言論がいかに無責任で、偏っているか、十分すぎるほど理解しているはずだ。外務省のコメントも、外国人記者が聞いたからやむを得ず答えただけに過ぎない。記者が記事を作るため、意図的に問題を拡大させるよう仕組んだものだ。本当のところどはどうなのか。この疑問を発しない記者は、ジャーナリストとして失格である。

今回の話題を考える出発点は、中国人留学生の卒業スピーチである。中国の学生たちの多くはまず、中国人留学生、しかも女子が、あこがれの米国で、堂々と「総代」としてスピーチしたことに感動する。米国はダントツでトップの希望留学先で、習近平総書記からして、自分の子どもを米国の一流大学に送っている。米国の大学は中国人留学生であふれ、ハーバード大学も国別の学生数ではすでにカナダを抜いてトップだ。昨年、ハーバード大卒業式ではとうとう初めて中国人留学生がスピーカーに選ばれた。湖南省の農村出身の青年だ。

彼女の登壇は、その内容以前に、米中間の学生・学術交流がすでに強固な基盤を持っていることを象徴している。また、党幹部の米国留学研修もエリー養成として定着している。こうした脱政治の人的交流は紛れもなく、将来の安定した米中関係の構築において非常に大きな意味を持っている。この点を、特に「米中対立」「米中緊張」の図式でしか記事を書くことができない、多面的な思考的能力のない日本人記者はよく認識しておいた方がよい。

次にスピーチの内容だが、日本の同新聞記事は、彼女が触れた「米国の言論の自由」に対する賛否を取り上げている。だが、たいていの中国人であれば、中国に米国式の言論の自由がないことを十分知っている。また米国の自由が相対的なものであって、ある意味での不自由さからトランプ政権が誕生したことも、学生たちネット規制を乗り越えて研究済みだ。そもそも議論の余地がないテーマである。知識人が支持しているだけでなく、少なくとも、大学生のほぼ100%は同じ認識を持っている。

体制が自由であるかどうかということと、個人に自由な精神があるかどうかは別問題である。むしろ、自由を獲得してきた人間の歴史を振り返れば、自由が制限された環境でこそ、自由を希求し、自由の価値を重んじ、享受しようとするする精神が生まれ、育つ。彼女の発言は、不自由さを知る精神の表明であって、この点において、多くの中国人は共感するのだ。

現場を取材しないで、架空のサイバー空間を泳いでいると、自分が洗脳され、目が曇っていることに気づかない。ぬるま湯の中では、自由の精神も死んでしまう。だから彼女への批判は、ネットの不健全な民族主義勢力が意図的にスケープゴートを探し出したに過ぎないと考えなければならない。「自由」を持ち出すに値しない言論なのだ。

(続)

涙を誘うインド映画『Dangal』、中国で大ヒット

2017-05-21 08:24:39 | 日記
涙もろい人のことを、日本語では「涙腺が弱い」「涙腺が緩い」と言うが、中国語では「涙腺が発達している」「涙点が低い」という。日本人は、涙腺を涙を抑えるものだと感性的に理解しているのに対し、中国語人は涙腺を涙を出す器官だと合理的に認識している。かりに中国語で「涙腺が弱い」と言ったら(そういう表現はあまり聞いたことがないが)、涙腺の機能が弱い=涙が出にくい、との意味になる。

こんなささいな言葉の表現にも、ちょっとした国民性の違いがうかがえる。異なる文化によって笑いや涙の焦点が違うことはしばしばあるが、文化を越えた感動もまたしっかりと存在する。近年、そんな映画を次々送り出しているのがインドだ。人気俳優アーミル・カーンが主演した『きっと、うまくいく(3 Idiots)』(2009年)、『PK』(2014年)と続き、昨日、『Dangal(レスリング)』を観た。目下、中国での興行収入トップ作品で、公開から2週間余りで7億元を突破した。学生たちから、「先生もぜひ観てほしい」と勧められた。



中国の映画市場は空前の活況で、世界のヒット作がすぐに入ってくる。国家による検閲があるので、はじかれる作品はあるが、だれにも受け入れられる普遍的な価値を備えたものは、国家と市場の壁を超える力強さがある。『きっと、うまくいく(3 Idiots)』は、学校や家庭においていかに人を育てるべきか、人はどう育っていくのかというテーマを扱い、『PK』は宇宙から飛び降りた主人公を通じ、濁った世俗の宗教を風刺し、人間の真の信仰とは何かを問いかけた。一国の社会現象から、国境を越えた普遍的な作品に仕上げる手腕には敬服する。

前二作に続き、今回の『Dangal』も中国で観た。中国語タイトルは『摔跤吧!爸爸(レスリングしよう!お父さん)』。中国語と英語の字幕付きだ。日本より中国で先に公開される海外のヒット作品も少なくない。今回は、歳をとったせいなのか、恥ずかしいほど涙が止まらなかった。



舞台はインドの田舎。元レスリング選手の父親は、家が貧しくて果たせなかった世界チャンピオンの夢を、娘二人に託す。実話をもとにしたストーリーだ。厳しいトレーニングを課し、男の子のように髪を刈り上げ、度胸試しに、橋から川に飛び込ませることまでする。完全なスパルタ方式である。女性が家庭にいるべきだとする伝統的な家父長社会では、とうてい理解されない。冷笑、中傷を受けながらも、父親は信念を曲げない。男子を相手に平気で練習をさせる。

娘たちも抵抗し、反抗する。だが、やがて彼女たちは大事なことに気づく。若くして見たこともない許嫁との婚姻を強いられる村の娘たちに比べ、自分たちがいかに父親から人間として尊重され、愛されているかを。父親のスパルタ教育には、果たせなかった夢だけではない、女性の自立を求める父親の愛がある。姉妹は父親の猛特訓を受け入れ、全国チャンピオンになり、国家代表選手を育てるエリート体育学校に入る。だが、そこでまた親子の断絶が生まれる。

いわゆる近代的な指導を主張するコーチは、父親の教えたレスリングを時代遅れだと否定する。長女も大学の環境に染まり、化粧を覚え、髪を伸ばし始める。父親のもとで抑えつけられていた自己を主張し始める。第二の反抗だ。だが、国際試合では負け続ける。コネで自分の地位が安泰であるコーチは、「負けてもともと」と現状維持に甘んじる。長女自身もハングリー精神を失い、かつての競争心を忘れてしまう・・・それを救うのはやはり、父親しかいない---。

完成度の高い脚本、名優の演技、実話の迫力を持ったストーリ。それぞれが感動的であるだけでなく、何よりも心を動かすのは、「愛とは何か」とのメッセージがまっすぐに問いかけられるからだ。単純で、素朴な問いだからこそ心に染み入る。現代社会は功利や打算、因習で塗り固められ、微小な存在には抜け道がないように思える。だがそうではない。打ち破る力がある。それが愛だ。これは過去の二作にも共通したテーマであることに気づく。もとより、普遍性を持つ作品はみな、この一点に集約されるのかもしれない。

涙腺が弱かろうが、発達していようが、同じことだ。そんな気にさせてくれる作品である。

メンツ文化は「顔色(イエンスー)」を重んじる

2017-05-19 14:36:48 | 日記
中国で「色」とだけ言ったら、色情を連想されて失笑を買うことになる。一般的な「色(カラー)」の意味としては、「顔色(イエンスー)」が使われる。「イエンスー」には、顔に現れた表情の意味もあるが、その場合は、「臉色(リエンスー)の方が通りがいい。いずれにしても、「顔色」が「色」そのものを意味するほど、人々が顔色に注意を払っているということだ。さすがメンツを重んじる文化である。

だが、なぜ色の前に「顔」がついているのか。周囲の中国人に聞いても、首をかしげるだけだ。「そんなことを考えるのは外国人だけだ」と言わんばかりである。あまりにも当たり前なので、疑問を抱く必要もない。

久しぶりに友人に会うと、こちらが恥ずかしくなるほど、のぞき込むようにじっと顔を見つめられる。そして相手はこんなふうに語りかける。

「顔色がいいね。生活がうまくいってるんだね」
「元気がないなぁ。水が合わないんじゃないか」
「仕事ばっかりで、ちゃんと寝てないんじゃないのか」

言葉を交わすまでもなく、顔色から健康状態や生活ぶりを読み取ろうとする。それはまた、相手への関心や気遣いを示し、深い友情を伝えることにもつながる。色は色彩を区別するためのものではなく、人間にとって一番大切なもの、健康、生命、感情、それらがすべて現れる顔の表情である。どのように人の目に映るか。その関係を含んでいる。漢字の意味を解説した『説文解字』には、「色は顔気」とある。

成り立ちをさかのぼれば、「色」は人の交わり、両性にかかわる形から生まれている。



人と人との関係を重んじる視点では、「顔色」につながる。どこまでいっても最後は人に行き着く。それがどうして、物質の外観や性質を示す意味に転じ、人の外にある色(カラー)になったのか、興味が尽きない。それがなければ、われわれは「色即是空」の言葉に出会っていない。

中国では旗幟(きし)鮮明という。日本ではその言葉のほか、「旗色(はたいろ)を鮮明にする」と「色」に転換させる表現を生んだ。空気を重んじる社会だからこそ、色にこだわるということなのか。

それにしても「旗色」のはっきりしない人間が多過ぎる。下手をすると、色がコロコロ変わるような輩も少なくない。「色」から「いろいろ」が生まれたように、本来、はっきりさせるべきものが、雑多な中で埋もれてしまう。「旗色」が「良い悪い」といったあいまいな言い方で表現されたりもする。「旗色」より「旗幟」の方が、より立場を鮮明にするに思える。

「大文字の火」はなぜ「大」なのかを考えた

2017-05-18 08:52:56 | 日記
色についての考察を続ける。

中国の北方で、キュウリは「黄瓜(ホァングア)」で、文字通り、日本にはこの言葉がそのまま入ってきた。だが、中国の南方に来て気づいたのは、「青瓜(チングア)」と呼んでいることだ。南方にはしばしば、中国中原地方の古い伝統が残っていることを考えれば、キュウリはもともと「青」だったのではないか。色の誕生から考えても、青は黄よりも早い。現代のわれわれからすれば、明らかに「緑」にしか見えないが、それは古人の色彩感覚を失ったからに過ぎない。

人類が色によってものを識別するのは、かなりあとになってのことに違いない。なぜなら身の回りに最も多い「緑」がまず生まれていなければならない。だが「緑」は糸へんに、「井戸の水」である。織られた布の色を指しているので、人工的なものだ。だから日本人は信号機の緑を、より慣れ親しんだ「青」の名で呼ぶ。

原初的な色の文字はまず「赤」だ。



大きな火である。「赤誠」「赤心」、あるいは「赤貧」「赤脚(素足)」の言葉があり、雑物がない徹底したさまを示す文字だ。日本語では、「あか=明るい」につながり、「赤の他人」「真っ赤なウソ」という。そこには本来、古人の火への信仰があった。京都の「大文字の火」がなぜ「大」なのかについては諸説あり、判然としないようだが、火、そして、大きい火=赤への信仰があったとは考えられないだろうか。弘法大師にあやかるよりも、もっとロマンチックではないか。

次に「黒」がある。

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やはり火にかかわる。火を使った結果、ものはあぶられ、死に絶え、炭化する。くろは「暗い」につながる。赤が太陽の照る昼ならば、黒は火の消えた夜である。色というよりは、暗黒の世界を示したに違いない。

「白」もまた火を連想させる。



烽火を焚いたような形だ。口が並んでいる。人々が議論しているのだ。その結果、道理が顕かになる。だから「明白」「坦白(正直に話す)」「潔白」という。火というよりは日、太陽光線に近い。「白日」である。

そして、「青」。



井戸から生まれてくるもの。地下に眠る鉱物を示してる。世の中に出て間もない。だから「青春」「青年」と言われ、日本語では「青田」「青二才」の表現として生きている。こう考えれば青果の意味も理解できる。

色が先にあるのではなく、形や性質があって、それに人間が色をつけた。色眼鏡で見るとは、まさにこのことを言う。人は考える苦労を惜しむから、簡単な色分けにすがろうとする。それでは誤解や錯覚を塗り重ね、色を固定化することになる。かといって色を排除するのではない。色の裏に隠された本当の姿を探すことが大事なのだ。