行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

個人の平和な生活を犠牲にする愛国は間違っている

2017-03-11 22:46:46 | 日記
中国で、在韓米軍の終末高高度防衛ミサイル(THAAD)配備に対する抗議が止まらない。配備予定地を提供した韓国ロッテグループが攻撃の標的となり、中国国内にある100か所以上のロッテ・マートが閉店となった。その他のスーパーも相次ぎロッテ製品を撤去するなど、ロッテ・ボイコットの動きが連日報じられている。ネットもメディアも、中国世論は反ロッテ一色だ。ぞれに煽られ、韓国ネットは中国への罵りであふれる。ロッテは日本のものか、韓国のものか、などとためにする議論をしてもまったく意味がない。

韓国には在住中国人が100万人ほどいて全外国人の半数を占め、中国在住の韓国人は12万人で外国人のトップである。韓国の美容品は中国の若い女性に圧倒的な人気で、韓流ドラマや映画の人気も高い。過剰な民族主義は双方が傷つく。なんとかならないものか。2012年のいわゆる「反日」デモで日本ブランド車(中国産)に乗っていた中国人男性がリンチを受け、半身不随となった苦い経験を忘れてはならない。ロッテ・マートの従業員は、それぞれの地元で地道に生活を守っている中国人だ。

ロッテは中国で数多くの小学校建設に力を尽くしてきた。四川大地震の被災地にも学校を建てた。そうした学校までとばっちりを受ければ、無関係な子どもたちまで巻き添えにすることになる。決してあってはならない事態だ。





私の周囲の中国人たちもみなこの点を案じている。民族感情をむき出しにした非理性的なネット言論とは距離を置いている。

こんな画像が送られてきた。



北京の地下鉄で、黒竜江省出身を名乗る男性が背中に「精忠報国」と入れ墨し、「ロッテや米・日・韓をボイコットする愛国運動を呼びかける」と書いたポスターを立てている。「言葉が出ない」「頭がおかしい」「ついていけない」・・・みなの反応はだいたいこんなものだ。問題はこうしたばかげた行動までをも生んでしまう社会の雰囲気にある。硬い鎧を身に着けた国家と国家がぶつかれば、無防備で非力な一庶民はいとも簡単に押しつぶされてしまう。

「精忠報国」と聞けば、中国人の誰もが、12世紀、金軍を破った南宋の勇将、岳飛を思い浮かべる。異民族の侵攻に際し、命を惜しまず国を守るよう、母親が岳飛の背中に彫ったのが「精忠報国」である。中国では愛国心を養うため小学校で教えられる。そのエピソード自体は、美しい民族の物語なのだろうが、平和な時代に持ち出すのは不釣り合いだ。むしろ狭隘な民族主義が、愛国の精神を損ねることになりはしないか。

11日、北京で開幕中の全国人民代表大会では商務相が内外記者会見に臨み、「外資導入の政策」「外国企業の合法的権益に対する保障」「各国企業の対中投資によりよいサービスを提供する政策」の三つは変わらない、と断言した(発言者は王受文次官)。「三つの不変」は習近平総書記が約束した大原則である。すべてを政治に奉仕させ、外国勢力を敵味方に分ける悪しき伝統を見直さない限り、国家発展の基礎となる人民の平和な生活も確保されない。

「新緑」の使い方で知った日中言語の違い

2017-03-11 00:36:03 | 日記
今月末、汕頭大学新聞学院の女子学生6人を引率し、福岡・北九州に環境保護視察取材に出かける。先日、取材団の名称が決まった。取材テーマの柱を定めるつもりで、チーム名を考えるように指示しておいた。テーマがぐらつき、表面的な事象に追われていては深い認識にたどりつかない。命名を通じ、まずは自分たちの視点を定める必要がある、と考えたのだ。

6人が話し合って決めた名称は「新緑」だった。



「いいんじゃない」

これが私の直感だ。日本人にもすんなり届く。

彼女たちの背景説明によれば、「新緑」は、春が訪れて流れる澄んだ水を「緑水」と呼ぶこともあり、新たな希望、生命の活力を象徴する。さらに「新」は「新聞(ニュース)」の「新」で、それ自体に価値がある。取材団にふさわしい名前だ。

まだまだある。

「緑」は自然環境を代表する色で、「新緑(xīn lǜ シンル)」は中国語で心拍を意味する「新率」と同じ発音だ。自然環境は世界の心臓の鼓動であり、すべての生き物のよりどころであり、取材のテーマと密接に関係している。

申し分のない解説だ。これでわれわれのチーム名は決まった。

だが、やり取りの中で気付いたことがある。日本人にとって「新緑」は珍しい用語ではなく、早春にはしばしば日常会話の中でさえ使われる言葉だ。だが、中国ではそうでもない。引用例はしばしば詩の中に求められる。

日本でもなじみのある唐代の詩人、白居易の『長安早春旅懐』では、

風吹新緑草芽坼  風は新緑を吹いて 草芽(そうが)坼(さ)け
雨灑軽黄柳条湿  雨は軽黄(けいこう)に灑(そそ)いで柳条(りゅうじょ)湿う

とある。風は新緑をなびかせて草木は芽生え、雨は新芽に降り注いで柳の葉を濡らす、というわけだ。だが、白居易が30歳を前に、科挙の試験を受ける悲壮感が詩の背景にあり、そのままチーム名の典拠とするのには抵抗がある。こんな疑問を投げかけると、ある学生が持ち出したのは、唐代・施肩吾の『春日美新緑詞』だった。日本人にはまったくなじみのない詩人、詩なのでメッセージ力がない。

彼女たちとやり取りをし、友人の意見も取り入れ、彼女たちがなぜ出典にこだわるのかがわかった。日常はあまり使わない言葉だからこそ、日本人に対しては詳しい解釈が必要だと考えたのだ。

だが、日本語で「新緑」はすでに幅広く定着している。使い方に特別な感情はない。新聞でもテレビでも、当たり前のように使っている。中国人がことさら詩の中に用例を見つけるのとはかなり違う。ネーミングの過程で、ちょっとした言葉の使い方の違いを発見した。これもまた、日本ツアーが与えてくれた勉強の一つなのだろう。


中国の大学学食に登場した新メニューは「丼(どん)」

2017-03-09 23:26:08 | 日記
先週から新学期が始まった。新たな課程『日中文化コミュニケーション』は定員の30人以外にも傍聴者が多数訪れ、活気のある授業となっている。日本のことを話すと目を輝かせて聞いてくれる。ひな祭りの起源が中国の上巳節にあること、紀元1世紀、後漢の光武帝から送られた金印「漢委奴國王印」がちゃんと保存されていること。いくら日本のアニメを見ていても、日本が中国と同じ漢字を使っていることさえ実感できていない学生がいる。一つ一つが新鮮なのだ。

そこで先日、学内で見つけた広告を見せてみた。学食の一角に「本格的な日本料理」を出すコーナー「丼味屋」を設けたという宣伝だ。写真には牛丼とラーメン、カツカレーがある。まだ食べていないので、味はわからないが・・・。



「丼味屋」というネーミング自体、あえて日本風を意識したのだろう。興味深いのは「丼」の上に「どん」と書いてあることだ。日本語を習っていない大半の学生もこれをちゃんと「don」と発音できる。学生たちに聞くと、「丼」は中国の学校では教えないのでほかの読み方を知らないという。辞典にも載っていない。つまり中国の漢字ではない。日本人が作った和製漢字(国字)である。

日本の各種語源辞典には、かつて江戸に突慳貪(つっけんどん)に盛り切りの食べ物を出す飯屋があり、慳貪(けんどん)から「どんぶり」が生まれ、その音が井戸の中に小石を落としたときの音を連想させることから、「丼」の漢字が誕生した、とある。できすぎた話のような気もするが、実に面白い。文献による考証ができていないのは、いかにも庶民の言葉らしくていい。どうせ確証がないのであれば、言い伝えを、言い伝えとして教えよう。そういう伝え方をすることもまた文化の一つである。

授業で紹介したら、案の定、大爆笑だった。「日本人はなんて独創的なんだ」と感想を言う学生もいた。私は負けじと、「丼だけじゃない」と思いつく和製漢字を説明していった。

「鰯」は奈良時代の皇族、長屋王家の木簡から見つかった。弱い魚だから「鰯(いわし)」。これもまた面白いネーミングだ。こだわりが多いほど、対象を細分化するのは人間の常である。魚ヘンは鱈(たら)、鯏(あさり)、鯰(なまず) などがある。日本人が海に囲まれ、いかに魚を好んできたかがわかる。「畑」も中国語にはない。中国人は農地を田畑に分類しないが、日本人は稲作を重んじたがゆえ、米を作る田と野菜を植える畑を分けた。畠(はたけ)、糀(こうじ)、籾(もみ)、粂(くめ)、コメに関する和製漢字は多い。ある意味では、「丼」もその一つだと言える。

「日本人がなぜ電子炊飯器にこだわるか。わかるでしょう。さかんに買っていく中国の観光客はおそらくそんなに深くは考えないだろうけど」

ここでも爆笑が起きた。時間切れで次回に持ち越したが、もっと興味深い和製漢字は「躾(しつけ)」だ。どんな反応が起きるか興味が尽きない。

広東、潮汕地区は、かつて中原から多くの人々が流れてきたため、古い文化の痕跡があちこちに残っている。柳田国男の『蝸牛考』にある通り、文化は発信源から離れた周縁地域で原形をとどめるのだ。この点、日本と中国南方には共通点がある。「日本」を発音してみてくれというと、「ヤパン」「ジポン」とどこかで聞いたたような呼び方が戻ってくる。マルコポーロもこんな発音を聞いて、「ジパング(日本国)」と記したのであろう。さらにさかのぼれば、古代の日本人もまた同じ音を耳にしたに違いない。

「洋の東西」に分ける日本と「東方西方」に向き合う中国

2017-03-05 06:18:59 | 日記
清末から民国にかけての上海を舞台にした最新映画『上海王(Lord of Shanghai)』を見ていて、すっかり忘れていたことに気付いた。マフィアの仲間が一時身を隠すため、「東洋に行く」と話すセリフがある。英語の字幕は「Japan」とある。中国で東洋、東瀛(とうえい=瀛は大海の意味)といえば日本を指す。大陸国家の中国にとって、大海の先にある日本は、伝説に包まれた島国として強く意識されていた。

日本での東洋はアジア全域を指し、西洋との対比として誕生した。「洋」とは言っても、海を基準とする厳密な概念ではなく、近代以降、欧米文化の流入によって生まれた文化的な区分を含む。地理的にどこからどこまでと明確な線引きができるわけではない。「西洋(オクシデント)」に対する「東洋(オリエント)」は、いわば借りてきた概念だ。日本人が東洋というとき、自分が含まれているのかいないのか、なにを中心としているのか、どこか座りが悪いのはそのためである。

東京五輪を前にした1960年代、強豪のソ連を破った日本の女子バレーに対して冠せられた「東洋の魔女」の異称は、西洋から見た日本であったが、中国においてはまさに「東洋=日本」のイメージのまま輸入された。






中国は、日本人が分ける「洋の東西」について、東方、西方と言う。近代以降、日本から多数の和製漢語を取り入れた中国だが、「東洋」「西洋」は受け入れなかった。西方がユーラシアと陸続きになっている中国は、大海によって世界を分ける発想がないからだ。海洋進出についても、明代の永楽帝が鄭和に遠洋航海を命じ、アフリカにまで到達しているが、王朝の権威を高める朝貢の強要が主たる目的で、領土拡張にはつながっていない。陸戦は重ねてきたが、概して海洋に対しては無頓着である。

毛沢東の軍事戦略も海軍建設よりは、核兵器開発と陸上戦の両面をとった。沿海部の軍事工場を内陸に移したのはそのためだ。鄧小平時代以降、中国は沿海部を改革開放の拠点と位置づけ、海の外に目を向け始める。そして今、習近平総書記がさかんに二つのシルクロード経済圏「一帯一路」をアピールしている。



大陸続きに中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト(一帯)」と、沿岸部から東南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸に至る「21世紀海上シルクロード(一路)だ。中国からみた東方と西方を結びつける発想である。グローバル化の中で、中国が歴史的な発展を踏まえて提示した戦略と位置づけることができる。

習近平の父は、かつてシルクロードの中心だった陝西省で生まれ育ち、彼自身も同省の農村で暮らした経験がある。また、沿海の福建、浙江省で長く党・政府の経験を積んでいる。陸と海の両面から世界を把握する発想を持っているとみるべきだ。

日本はシルクロードの終着点として多くの文物を受け入れ、現代にまで伝える貴重な役割を担ってきた。だが、「洋」にとらわれる地理的な制約から、大陸を起点とする発想に欠けている。陸の向こうに広大な世界が広がっていることにも目を向けるべきだ。そこから目を背ければ、おのずと太平洋をはるかに隔てた米国への一辺倒に向かうしかなくなる。トップ同士がゴルフをしただけで大騒ぎをしている日本のメディアは、頭を冷やし、世界地図を広げながら歴史を回想した方がいい。ヨーロッパは米国の先にあるのではなく、中国の西方に陸続きで存在し、功罪を含め、往来を続けてきた歴史がある。

ひな祭りに考えたマッカーサーと昭和天皇のツーショット

2017-03-03 18:08:49 | 日記
今日はひな祭りだ。起源は、曲水の宴を張った中国の上巳節にある。昨日、新たに始まった日中文化コミュニケーションの授業では、ひな祭りの歴史と今日的意義について話した。中国の上巳節はすでに廃れている。上巳節は知らなくとも、日本の「女児節」であることは知っている中国人学生が多い。ひなあられを約30人のクラスに配った。

「赤」「緑」「白」はそれぞれ何を意味するか?「白=雪=純潔」、「緑=稲=収穫」ぐらいはなんとかたどり着く。そして、

「赤は桜!」

とすかさず答えが返ってくる。日本文化になじみすぎているのだ。

「上巳節が根源。自分たちの文化を振り返ってみてください」

こう助け舟を出して、ようやく「桃」の答えが出た。海を隔てて伝わった文化を通じ、自分たちの伝統を見直してもいい。もともと文化は伝播し、循環し、混然と溶け合うものである。

関東と関西で雛飾りのお内裏様とお雛様の位置が入れかわっていることはしばしば話題になる。京都は左が男子、右が女子、東京は右が男子、左が女子だ(向かってみた場合は逆)。左近の桜と右近の橘は、桜に重きを置いている。貴族文化に根を持つ以上、京都のスタイルが先で、それが変わったのである。



京都は中国の唐代にならった。漢代まで中国では右が左よりも上だったが、唐代にひっくり返った。以前も書いたが、漢代から唐代までは戦乱が続き、北方騎馬民族による支配があって、箸のおき方も横から縦へと変化した。この間、文化が大きく変質したことがわかる。日本は遣唐使を派遣し、長安をモデル国づくりを進めた。今も残る都市建設がその象徴だが、漢字の発音も「漢音」に統一しようとした。



だが、すでに伝わっていた読み方「呉音」が浸透していたため、音が上書きされず、追加されることになった。こうして現代人は多数の音読みを覚えなくてはならなくなった。左右にしても、右が上だった時代の習慣が日中で残った。マイナスの「左遷」、プラスの「右腕」「右に出るものはいない」は中国の用語を日本も共有している。現代ではあまり使われないが、中国語の「右姓」は名家、「右職」は重責、「右文」は文治を重んじることを示す。「左道旁門」は露骨にも邪道の意味だ。

日本でなぜ雛段の左右が変わったのか。その由来は意外と知られていない。つい近年のことだ。1928年、昭和天皇が即位した際、両陛下で撮影した写真が天皇が右、皇后が左だった。



西洋式にならったことで、このために長い伝統が入れ替わった。天皇の権威を物語るエピソードである。牛肉の普及も、明治天皇が食べたというニュースが一役買っている。実にわかりやすい。そこで歴史的な写真を思い出した。敗戦直後、昭和天皇がマッカーサーの滞在する米大使館公邸に出向き、初対面で撮影した、教科書でも見せられたあの写真だ。当時、この一枚が世界に配信され、天皇の神格化は一気に瓦解した。



しっかりマッカーサーが右側に立っている。右は「right=正しい」のだ。これが敗戦というものだろう。

雛飾りを見つつ、長安からマッカーサーまで一気に歴史を潜り抜けた不思議な経験をした。この間、天皇は低い土塀を回しただけの住み慣れた京都御所から、深い堀で隔離された軍事要塞の江戸城に移された。孤独の森の中にあって、この堀を乗り越え、国民との距離を縮めるべく苦労をされてきた現在の両陛下を思うにつけ、もうそろそろ京都に戻り、左右の位置ももとにならっていいころなのではないか、などと考えてしまう。