行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

「文革的」と「文革の再来」の根本的な違い

2017-03-17 21:22:17 | 日記
「文化大革命の再来」について続ける。

いたずらに煽ることには賛成しない。だが、危険な芽に注意を払うことは忘れてはならない。文革中は、社会の異分子を排除するため、法を無視し、冤罪をでっちあげ、見せしめ、再起不能になるまで叩きのめすことが日常的に行われた。人の権利も尊厳も虫けら同然に踏みにじられ、自殺に追い込まれた知識人も数多い。数千万人規模の犠牲者を生んだのだ。

今でも、恣意的な権力が特定の個人に対し、文革まがいの弾圧を行うことがある。ネットでの容赦のない集団による個人攻撃をみていると、本で読んだ文革の光景を思わずにはいられない。中国社会の封建的な性格だけが理由ではない。人間の本性、弱さ、醜悪さに根差しているだけに、あらゆる国で起こり得る。日本の新聞社でも似たようなことが行われているのを、私は知っている。

だから「文革の再来」への危惧を煽るよりも、「文革的」なるものの芽を摘むことが、国境を超えた人類共通の課題だと考える。中国が薄熙来元重慶市党委書記のスキャンダルに沸いた2012年全国人民代表大会閉幕の記者会見で、退任間近の温家宝首相が言い残している。薄熙来解任の前日だ。



「文化大革命の誤りと封建的な影響は完全にはぬぐえていない。経済の発展に従い、分配の不公平や信用の書いてみる欠如、汚職腐敗の問題も生じた。こうした問題の解決を理解するためには、経済体制の改革だけでなく、政治体制の改革、特に党と国家指導制度の改革も進めなければならない。今や改革は攻めの段階に入った。政治体制の改革がなければ経済体制の改革も徹底して進めることが不可能で、すでに成し遂げた成果も再び失うかも知れない。社会で発生した新たな問題を、根本から解決されなければ、文化大革命の歴史の悲劇はまた繰り返されるだろう」

総書記に次ぐナンバー2の首相が残した最後のメッセージだ。最高指導部の合意を得ていないスタンドプレーとして、温首相は自己批判を迫られた、と後日談を耳にした。覚悟を決めて語った深刻な反省である。政敵である薄熙来への反感がにじみ出た発言だが、重要なのは「政治体制の改革」への言及である。権力へのチェックが働かなくなれば、必ずや法は形骸化する。文革の反省もここにある。

多くの日本人が誤解している。中国において「権力の集中=悪」ではない。胡錦濤政権時代に起きたのは、権力の分散によって、各権力が勝手放題に振る舞った腐敗現象だ。当時、民主派の知識人も「胡錦濤は権力が弱く、役に立たない」と批判していた。現在は、習近平が力を握り過ぎたことへの批判に変わっている。法治社会建設の衰退だという声もある。だがそもそも法に絶対的な価値は与えられていない。統治の道具でしかないのは有史以来変わっていない。

この大国を率いる巨大な権力機構において、いったん権力を解き放てば、たちどころに内部崩壊する。だから権力を中央に集中させ、グリップをきかせなくてはならない。そのために用いられるのが法である。これが習近平を含めた歴代指導者の発想だ。政治体制改革も結局は集めた権力をどう使うのか、という点に帰結する。西側の権力チェック機能を想定していては、永遠に堂々巡りの議論をすることになる。

庶民もこの体制を根本からひっくり返そうとは思っていない。今の安定と発展を保ちつつ、一歩一歩、住みやすい社会になればいいと思っている。これまであまりにも多くの苦難を経てきた。ようやく豊かになるチャンスがめぐってきた。この気持ちはなかなか外国では理解できないだろうが、隣国の日本人は、深い傷跡を残した当事者として、理解しようと努めなければならない。

まず自らを振り返り、相手の立場に立つことが、相互理解の第一歩であることは言うまでもない。もちろん多種多様な人がいるということを念頭においてだ。さもなければ不毛な罵り合いで終わるしかない。

習近平の中国は文革時代に近づいているのか?

2017-03-17 00:45:25 | 日記
東京の雑誌編集者から、「習近平への権力集中はもはや文化大革命の再来と言われている」と聞かされた。



15日に閉幕した全国人民代表大会を含め、日本での報道は「党中央の核心」と権威づけられた習近平を毛沢東と重ね、その集権的、強権的な政治手法を文革に結びつけることで、中国脅威論を煽っているのだろうか。籠の中に閉じこもっていると、妄想ばかりが膨らんでいく。視野が狭まっていることさえ自覚ができなかれば、かなりの末期症状だ。

まずは文革(1966-76)が起きた国際・国内の情勢を振り返る必要がある。

当時、米国によるベトナムへの空爆で中国は資本主義化の危機感を募らせ、一方、フルシチョフのスターリン批判を契機とするソ連との対立で、国際共産主義運動の主導権争いも激化した。米ソの両大国を敵に回した絶体絶命の危機だった。国内は戦争に備え、大都市には防空壕が掘られ、沿海部の軍需・重工業拠点は内陸部に移された。海外との交流は厳しく制限され、事実上の鎖国状態だった。

これに毛沢東の主導する権力闘争が結びついて文革は起きた。全国民が毛沢東語録を手にし、神のようにあがめる個人崇拝が極限にまで達した。伝統文化は破壊され、それに毛沢東思想が取って代わった。疑似戦時体制のもと、法が踏みにじられ、人権ばかりが多数の人命が犠牲となった。

では今はどうか。

メディアは米中の対立と衝突ばかりに目を向けるが、50年前との比較にならないほど様変わりしていることを忘れてはならない。ケチをつけるのは簡単だが、大局を見据える視点がなければ世論を誤導することになる。

習近平は、海と陸のシルクロード戦略「一帯一路」に代表される全方位的なグローバル戦略を掲げている。ロシアとは過去にない蜜月状態だし、その関係をもとに中央アジアやBRICSとの連携を探っている。米国とは多くの摩擦を抱えながらも、人とモノ、金を通じた相互依存関係はどの国より深いと言っても過言ではない。年間、1億2000万人以上の中国人が海外に行き、1億4000万人以上の外国人が中国に来る時代だ。若者は国内のネット規制を乗り越えて海外サイトと接続し、日本メディアがさかんに引用する人民日報や中央テレビのニュースに目を通している庶民はごくわずかでしかない。

つまり、日本の内向き指向とは逆に、過去にない外向き時代を迎えているのだ。ハーバード大やオックスフォード大には中国人留学生があふれ、海外の観光地も中国人観光客でごった返している。いい悪いの問題ではなく、これが現実である。どうして「文革の再来」ばかりが伝えられるのが、不思議でならない。世界を見るフィルターが大きくずれていることに早く気付かなければならない。

習近平の集権化は北京・中南海での話だ。もちろん中国の政治を見極めるためには中南海ウオッチが欠かせない。党幹部も連日、習近平演説を学ぶのに必死だ。いつ腐敗調査が及ぶかわからない不安と背中合わせである。だが、大半の庶民には縁遠い話だ。いくら習近平用語集を出版しても、それを手に歩いていたら奇異な目で見られるだろう。習近平に対する庶民の高い支持は、強い指導者像と平易な親しみやすい演出の二面からで、個人崇拝というよりは、大衆政治家の人気に近い。

中国が今抱えている深刻な課題は、中南海での権力集中とは逆に、社会主義イデオロギーが色あせ、信仰が揺らいでバラバラになっている国民をいかに一つにまとめていくかということだ。できるはずのない幻想を求めなければならないのが、イデオロギー政党の宿命である。そこでたどりついたのが、国民を精神的に団結させるための伝統文化、つまり孔子や孟子から老荘思想まで、使えるものは何でも使うというスタイルだ。思想のつまみ食いから「習近平思想」は生まれない。伝統を否定して一から作り上げた「毛沢東思想」とは大きな違いがある。

今晩はここまでにしておく。