私が、読売新聞の反中論調に不満を持って辞めたと誤解している人がいるが、それは先入観に基づく事実誤認だ。だとしたらそもそも中国特派員の道は選んでいない。記者のスタンスと社説が食い違うことは珍しくない。だが、記者個人が自分の座標軸をしっかりと持っていれば、ニュース報道に関する直接的な影響は外部で考えるほど大きくない。妥協や譲歩を強いられることはあっても、私の場合、論調の不一致による辞職を思いついたことは一度もない。
繰り返しになるが、私が読売を離れたのは、自分が精魂を傾けた特ダネがボツにされたことであって、それは2015年4月23日付の辞表にも、
「これは会社から与えられた宿題に対する答えのつもりでした。ところがそれも大きな壁にぶつかった今、読売新聞で記者を続けることの意義が見いだせなくなりました。無念ではありますが、職を辞したいと思います」
とはっきり書いてある。そのうえで、読売新聞が中国でどのような位置づけをされているのか、経験に基づく話をしてみたい。
中国共産党は長年、日本の新聞について、朝日、毎日、日経は親中、読売、産経は反中との色分けがされてきた。だが、私が上海に赴任する直前の2005年6月4日、読売が社説で「首相は、『A級戦犯』が合祀されている靖国神社に、参拝すべきではない」と主張し、同年8月から1年をかけて「検証・戦争責任」を連載したことで、読売の位置づけに変化が生じた。
読売の中国特派員は当時、政府関係者と会うたびに「読売は素晴らしい」と賛辞を送られた経験がある。新華社通信発行の時事週刊誌『瞭望東方週刊』(2007年7月17日号)は、表紙に渡辺主筆の顔写真と日の丸を並べ、「読売の変節」と大きなタイトルを載せた。カバーストーリーとして「読売新聞が右翼紙から転向した」とする特集を組んだ。反中とはいえ、中国政府も最大発行部数の影響力には一目置いてきた。「読売の変節」は大いに注目されたのだ。
同誌記事はまず、「読売新聞は長期にわたって保守的、右翼的な立場を代表し、日本社会の右傾化推進においてしばしば主導的な役割を果たし、平和憲法の修正を支持してきたばかりでなく、1994年には独自の憲法修正草案まで発表し、自衛隊を合憲の軍隊として認めるよう訴えた」との書き出しで始まる。これまで中国当局の読売に対する基本的な認識をなぞったものだ。
その上で2001年、当時の小泉首相が靖国神社を参拝したときは社説で支持をした読売が、2005年6月4日の社説では一転して首相の靖国神社参拝を批判し、国立追悼施設の建立を提言したことや、戦争責任を検証するシリーズを連載し、それを出版したことを紹介した。中国語版が間もなく発行されることも伝えた。
同誌記事は、読売の戦争検証シリーズが、報道機関が軍の統制を受けながらも、新聞が自らの部数競争のため戦況報道に力を入れ、必ずしも「統制に嫌々協力させられた」わけではなく、積極的に戦争推進に回った責任に言及していることも触れた。中国人学者のコメントも積極的評価が多く、読売に対する好意的な記事だった。
同誌記事が掲載される以前、私は同誌のコラムを担当し、2006年から2年間、隔月で計10本以上の記事を友人に中国語訳してもらって発表した。当初、国際部長は「リスクがあるのでやめた方がいい」との意見だったが、外部執筆は許可制ではなく届け出制のはずだと踏ん張り、当時の中国総局長が後押しをしてくれたおかげで実現した。このころはまだリスク重視論よりも責任重視論の積極姿勢が通用した。
中国ではそれまで、日本の情報はもっぱら日本研究専門の中国人学者や記者によって紹介されるのが一般的だったが、インターネットの影響や社会の対外開放政策が進むにつれ、日本人自身の視点で書いてもらいたいという市場の要求が生まれていた。それでも読売新聞の記者がコラムを書いていることに対し、読売=右翼=反中とのイメージを植え付けられた政府関係者からは「なぜ読売の記者に書かせるんだ」と抗議の声が編集部に届いた、と後に編集部スタッフから聞かされた。長年にわたって張られたレッテルをはがすのは容易ではないが、同時に、上からの評価だけではない、社会全体の対日観の変化が生まれていることも感じた。
だが、「読売の変節」に対する評価が、再び一転する事件が起きた。
2012年9月、日本政府の尖閣諸島国有化に抗議するデモが中国各地で起き、領土問題が日中関係における最もホットな話題になった。私も読売新聞の総局長として、中国外務省や中国メディア、日中関係団体から意見を求められ、多くの座談会やシンポジウムに参加してきた。私は常に「人も住んでいない、GDPもゼロの島について、日中両国民が過剰な労力を浪費し、疲弊し、傷つけ合っているのは、両国民の利益に反している。一般国民はまず個人の幸福を優先させ、両国ともそれぞれ特定の政治的意図を持った一部政治勢力の扇情的な言動に利用されてはならない」と主張した。国家間の紛争についてそれぞれのメディアは両国民の利益活を最優先に考え、政治的対立の一方に加担し、それを煽るような言論は厳に慎むべきだと考えた。
中国メディアの記者20人に囲まれ酒を飲んだ際は、「釣魚島(尖閣諸島の中国名)はどっちのものだと思っているんだ」とズバリ聞かれた。「歴史的経緯をみれば日本のものだ。ただ我々庶民が議論しても意味がない」と簡潔に答えると、相手はしばらく押し黙り、「これだけ中国人がいる中で、勇気ある発言だ」と感心されたこともある。
だが、日中関係の緊張とともに、中国では、日本政府による水面下のコントロールを受け、日本メディアが安倍政権を擁護し、世論を右傾化、軍国主義化させているという論陣が目立ち始めた。最大発行部数の読売はその標的にされ、やり玉に挙げられたのが、首相の靖国神社参拝を「他国から干渉される筋合いのものではない」とした2013年8月15日の読売社説だった。ふだんは冷静な経済記事を書いている知日派のジャーナリストまでもが「読売新聞は暴力団とつながっている」と公然と書き立てた。読売新聞の評価はまたもとの「右翼紙」に戻った。
(続)
繰り返しになるが、私が読売を離れたのは、自分が精魂を傾けた特ダネがボツにされたことであって、それは2015年4月23日付の辞表にも、
「これは会社から与えられた宿題に対する答えのつもりでした。ところがそれも大きな壁にぶつかった今、読売新聞で記者を続けることの意義が見いだせなくなりました。無念ではありますが、職を辞したいと思います」
とはっきり書いてある。そのうえで、読売新聞が中国でどのような位置づけをされているのか、経験に基づく話をしてみたい。
中国共産党は長年、日本の新聞について、朝日、毎日、日経は親中、読売、産経は反中との色分けがされてきた。だが、私が上海に赴任する直前の2005年6月4日、読売が社説で「首相は、『A級戦犯』が合祀されている靖国神社に、参拝すべきではない」と主張し、同年8月から1年をかけて「検証・戦争責任」を連載したことで、読売の位置づけに変化が生じた。
読売の中国特派員は当時、政府関係者と会うたびに「読売は素晴らしい」と賛辞を送られた経験がある。新華社通信発行の時事週刊誌『瞭望東方週刊』(2007年7月17日号)は、表紙に渡辺主筆の顔写真と日の丸を並べ、「読売の変節」と大きなタイトルを載せた。カバーストーリーとして「読売新聞が右翼紙から転向した」とする特集を組んだ。反中とはいえ、中国政府も最大発行部数の影響力には一目置いてきた。「読売の変節」は大いに注目されたのだ。
同誌記事はまず、「読売新聞は長期にわたって保守的、右翼的な立場を代表し、日本社会の右傾化推進においてしばしば主導的な役割を果たし、平和憲法の修正を支持してきたばかりでなく、1994年には独自の憲法修正草案まで発表し、自衛隊を合憲の軍隊として認めるよう訴えた」との書き出しで始まる。これまで中国当局の読売に対する基本的な認識をなぞったものだ。
その上で2001年、当時の小泉首相が靖国神社を参拝したときは社説で支持をした読売が、2005年6月4日の社説では一転して首相の靖国神社参拝を批判し、国立追悼施設の建立を提言したことや、戦争責任を検証するシリーズを連載し、それを出版したことを紹介した。中国語版が間もなく発行されることも伝えた。
同誌記事は、読売の戦争検証シリーズが、報道機関が軍の統制を受けながらも、新聞が自らの部数競争のため戦況報道に力を入れ、必ずしも「統制に嫌々協力させられた」わけではなく、積極的に戦争推進に回った責任に言及していることも触れた。中国人学者のコメントも積極的評価が多く、読売に対する好意的な記事だった。
同誌記事が掲載される以前、私は同誌のコラムを担当し、2006年から2年間、隔月で計10本以上の記事を友人に中国語訳してもらって発表した。当初、国際部長は「リスクがあるのでやめた方がいい」との意見だったが、外部執筆は許可制ではなく届け出制のはずだと踏ん張り、当時の中国総局長が後押しをしてくれたおかげで実現した。このころはまだリスク重視論よりも責任重視論の積極姿勢が通用した。
中国ではそれまで、日本の情報はもっぱら日本研究専門の中国人学者や記者によって紹介されるのが一般的だったが、インターネットの影響や社会の対外開放政策が進むにつれ、日本人自身の視点で書いてもらいたいという市場の要求が生まれていた。それでも読売新聞の記者がコラムを書いていることに対し、読売=右翼=反中とのイメージを植え付けられた政府関係者からは「なぜ読売の記者に書かせるんだ」と抗議の声が編集部に届いた、と後に編集部スタッフから聞かされた。長年にわたって張られたレッテルをはがすのは容易ではないが、同時に、上からの評価だけではない、社会全体の対日観の変化が生まれていることも感じた。
だが、「読売の変節」に対する評価が、再び一転する事件が起きた。
2012年9月、日本政府の尖閣諸島国有化に抗議するデモが中国各地で起き、領土問題が日中関係における最もホットな話題になった。私も読売新聞の総局長として、中国外務省や中国メディア、日中関係団体から意見を求められ、多くの座談会やシンポジウムに参加してきた。私は常に「人も住んでいない、GDPもゼロの島について、日中両国民が過剰な労力を浪費し、疲弊し、傷つけ合っているのは、両国民の利益に反している。一般国民はまず個人の幸福を優先させ、両国ともそれぞれ特定の政治的意図を持った一部政治勢力の扇情的な言動に利用されてはならない」と主張した。国家間の紛争についてそれぞれのメディアは両国民の利益活を最優先に考え、政治的対立の一方に加担し、それを煽るような言論は厳に慎むべきだと考えた。
中国メディアの記者20人に囲まれ酒を飲んだ際は、「釣魚島(尖閣諸島の中国名)はどっちのものだと思っているんだ」とズバリ聞かれた。「歴史的経緯をみれば日本のものだ。ただ我々庶民が議論しても意味がない」と簡潔に答えると、相手はしばらく押し黙り、「これだけ中国人がいる中で、勇気ある発言だ」と感心されたこともある。
だが、日中関係の緊張とともに、中国では、日本政府による水面下のコントロールを受け、日本メディアが安倍政権を擁護し、世論を右傾化、軍国主義化させているという論陣が目立ち始めた。最大発行部数の読売はその標的にされ、やり玉に挙げられたのが、首相の靖国神社参拝を「他国から干渉される筋合いのものではない」とした2013年8月15日の読売社説だった。ふだんは冷静な経済記事を書いている知日派のジャーナリストまでもが「読売新聞は暴力団とつながっている」と公然と書き立てた。読売新聞の評価はまたもとの「右翼紙」に戻った。
(続)
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