世論調査と選挙結果についいて、私は一つの仮説を立ててみた。学生たちの思考に刺激を与えるためだ。身近に選挙を経験していない分、中国の学生たちは身を乗り出すように関心を示してくれる。近年、日本の国政選挙の50%しかないことにも、彼らは驚きの声を上げる。そのことに何の疑問も持たない日本の学生たちと議論をさせれば、きっと相互に得られるものがあるはずだ。
話が逸れたが、私が授業で示した仮説は以下のようなものだ。
世論調査には、どのような形にせよ、一定のアナウンス効果(公告效应)が生まれる。負け犬効果も勝ち馬効果もその一部である。それをさらに詳しくみれば、有権者が世論調査を目にした後、投票結果にどれほど変更の可能性があると考えるか、つまり結果の予測可能性が投票率に大きく影響してくることは、合理的に推測できる。もし投票によってほとんど変わらないと思えば、自分の一票の価値が相対的に低下すると認識するはずだ。これは低い投票率となって表れる。
また、設定された議題(agenda)=争点が明確であり、かつ重要である場合、有権者の関心は高まり、世論調査がさらに議題設定を強化することによって、投票の行動は促されることになるだろう。7月の参院選は、選挙権が18歳以上に引き下げられた最初の選挙でありながら、投票率は前回比マイナス2.09ポイントの54.70%にとどまった。「改憲勢力三分の二」(読売を除き)というメディアの議題設定が、有権者の関心から大きく遠ざかっていた結果である。
さらに見逃すことができないのは、国民的性格や時代的背景を持った大衆の心理状態も無視できない。国によって、あるいは一国でも時代の風潮によって、判官びいきに傾いたり、大衆迎合に向かったりする。現在の日本をみれば、コロコロ変わる短期政権が相次ぎ、近視眼的な政治術、浅薄な選挙術に国民が辟易としている。こうした社会において、政治的無関心、あるいは政治への嫌悪、不信が顕在化するのは当然だろう。世論調査はそうした社会心理を映し出す鏡の役割を果たすことで、選挙結果にも影響を与えることになる。
話の内容はおおむね以上のようなものだが、授業のまとめとして「誤差」という概念について語った。世論調査には、サンプル数などによって確率論でいうところの誤差が生じる。2,3%の差は有意とはみなされず、「ほぼ同じ」としなければならない。世論調査結果後の予測可能性も、調査結果と投票結果の誤差に対する評価である。将来の予測に対して誤差があるからこそ、不安であるか、希望であるか、いずれかの心理作用によって人の動機が生まれる。世論調査の結果が精密になればなるほど、人々から動機を奪ってしまうのは皮肉ではないのか。
われわれの思考においても同じことが言える。将来の予測が困難だから、不可知だからこそ、そこに自由で独立した思考が生まれるのではないか。ある人が、置かれている状況に矛盾を感じ、乗り越えようとするとき、自分が思い描く見取り図と、周囲の環境に落差=誤差を感じる。当然のことだ。それだからこそ、我々は思考を繰り返し、答えを探そうと努めなければならないのではないか。なんでもわかったよようなふりをしている者は、えてして不測の事態にうろたえるのだ。
自分の体験をもとに、以上のような結びの言葉を語った。「よい国慶節を!」と締めくくると、クラスの学生たちが拍手をしてくれた。長期休暇が待ち遠しいだけだったのか。またの機会に聞いてみようと思う。(完)
話が逸れたが、私が授業で示した仮説は以下のようなものだ。
世論調査には、どのような形にせよ、一定のアナウンス効果(公告效应)が生まれる。負け犬効果も勝ち馬効果もその一部である。それをさらに詳しくみれば、有権者が世論調査を目にした後、投票結果にどれほど変更の可能性があると考えるか、つまり結果の予測可能性が投票率に大きく影響してくることは、合理的に推測できる。もし投票によってほとんど変わらないと思えば、自分の一票の価値が相対的に低下すると認識するはずだ。これは低い投票率となって表れる。
また、設定された議題(agenda)=争点が明確であり、かつ重要である場合、有権者の関心は高まり、世論調査がさらに議題設定を強化することによって、投票の行動は促されることになるだろう。7月の参院選は、選挙権が18歳以上に引き下げられた最初の選挙でありながら、投票率は前回比マイナス2.09ポイントの54.70%にとどまった。「改憲勢力三分の二」(読売を除き)というメディアの議題設定が、有権者の関心から大きく遠ざかっていた結果である。
さらに見逃すことができないのは、国民的性格や時代的背景を持った大衆の心理状態も無視できない。国によって、あるいは一国でも時代の風潮によって、判官びいきに傾いたり、大衆迎合に向かったりする。現在の日本をみれば、コロコロ変わる短期政権が相次ぎ、近視眼的な政治術、浅薄な選挙術に国民が辟易としている。こうした社会において、政治的無関心、あるいは政治への嫌悪、不信が顕在化するのは当然だろう。世論調査はそうした社会心理を映し出す鏡の役割を果たすことで、選挙結果にも影響を与えることになる。
話の内容はおおむね以上のようなものだが、授業のまとめとして「誤差」という概念について語った。世論調査には、サンプル数などによって確率論でいうところの誤差が生じる。2,3%の差は有意とはみなされず、「ほぼ同じ」としなければならない。世論調査結果後の予測可能性も、調査結果と投票結果の誤差に対する評価である。将来の予測に対して誤差があるからこそ、不安であるか、希望であるか、いずれかの心理作用によって人の動機が生まれる。世論調査の結果が精密になればなるほど、人々から動機を奪ってしまうのは皮肉ではないのか。
われわれの思考においても同じことが言える。将来の予測が困難だから、不可知だからこそ、そこに自由で独立した思考が生まれるのではないか。ある人が、置かれている状況に矛盾を感じ、乗り越えようとするとき、自分が思い描く見取り図と、周囲の環境に落差=誤差を感じる。当然のことだ。それだからこそ、我々は思考を繰り返し、答えを探そうと努めなければならないのではないか。なんでもわかったよようなふりをしている者は、えてして不測の事態にうろたえるのだ。
自分の体験をもとに、以上のような結びの言葉を語った。「よい国慶節を!」と締めくくると、クラスの学生たちが拍手をしてくれた。長期休暇が待ち遠しいだけだったのか。またの機会に聞いてみようと思う。(完)
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