行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

もう一つ語らなければならないのは・・・「愛」である。

2016-09-07 17:32:12 | 日記
「自由」について語った後は「愛」を語る。

The opposite of love is not hate, it‘s indifference.

と言ったのはマザー・テレサだ。

中国語では≪爱的反义词不是恨,而是冷漠≫

日本語では「愛の反対語は憎しみではなく、無関心だ」となる。

中国は建国後の簡体字化によって「愛」を「爱」とした。よく「簡体字になって、愛は”心”を失った」と言われる。だが「友」が残った。中国の友人=朋友関係は実に心強い。無償の愛を思わせる深い感情がある。私が体感した感情でもある。

マザー・テレサが、飢え、病み、ものを持たず、捨てられた人々を救うために開いた≪Missionaries of Charity≫は日本語では「神の愛の宣教者会」だが、中国では≪仁爱传教修女会≫と訳される。「仁愛」が添えられているところに中国の伝統的な「愛」の観念が表れている。

『論語』顔淵は「仁は愛である」と直截に言い切る。仁愛は、同書の「己所不欲、勿施於人(自分の望まないことは人にもしない)」という言葉にも表れている。

性善説を説いた『孟子』は「人間にはだれでも、人の悲しみを見過ごすことのできない同情心を持っている」とし「人に忍びざるの心」を説いた。「人に忍びざるの心」とは惻隠の情だ。孟子は、「惻隠の情は、仁の始まりだ」と言った。

『孟子』公孫丑章句上に次の文がある。

「人間はだれでも、人の悲しみに同情する心を持っているというわけは、今ここに、よちよち歩きの子どもが井戸に落ちかけているのを見かけたとすると、人はだれでも驚き慌てて、いたたまれない感情になり、助けに駆け出すに違いない。子どもの父母に懇意になろうという底意があるわけではないし、村人や仲間に、人命救助の名誉と評判を得たいからでもない。またこれを見過ごしたら、無情な人間だという悪名を立てられはしないかと思うからでもない」

生誕150年を迎えた孫文の思想には、彼の信仰したキリスト教の「博愛」に加え、儒教の「仁愛」の影響が深く刻まれている。孫文の『三民主義』はこう語る。

「仁愛も中国のよき道徳である。かつて、愛という言葉について、墨子ほど多くを語った者はいない。墨子が語った兼愛は、キリストの説いた博愛と同じである。かつて、政治の面で愛の道理を語ったものには、『民をわが子のように愛する』や『民に対しては仁(いつく)しみ、ものに対しては愛する』といった言葉があり、何事に対しても『愛』という言葉を含んだ。こうしたことから、古人が仁愛をどのように実行していたかがわかる」

孫文は、外国人が中国で学校や病院をつくり、中国人を教育し、中国人を救おうとしていることを指摘し、仁愛という道徳において、「今の中国ははるかに外国に及ばないようにみえる」と述べる。だが、孫文の主張は次の点にある。「仁愛はやはり中国の古い道徳であり、わが国が外国に学ぶべきは、かれらのそうした行動だけでよい。仁愛を取り戻し、さらにその輝きを増していくことがすなわち、中国が固有に持っている精神なのだ」

『墨子』は、世の中の乱れを愛の不在に求める。「もし天下が兼(ひろ)く相愛することになれば、国と国が攻め合わす、家と家が乱し合うことなく、盗賊はすべてなくなり、君臣父子はみな互いに孝行と慈愛の行いをすることができ、天下は治まる。天下がひろく相愛すれば治まり、たがいに憎みあうと乱れる」(兼愛編)

革命に33歳の若い命を捧げた湖南人の譚嗣同(1865~98)が『仁学』の中で、「仁を身につけ、自在に無に通じた3人」として仏陀、孔子、キリストを挙げ、宗教を越えた愛によって差別のない社会の実現を訴えたことも想起されてよい。譚嗣同は、光緒帝を担いだ戊戌変法に加わったが、西太后一派に弾圧されると、潔く処刑の道を選んだ。梁啓超が北京の日本公館に逃げ込むと、梁啓超に対し「あなたは西郷(隆盛)となれ、私は月照となる」と遺言を残し、北京・菜市口の刑場に赴いた。

「愛」もまた、国境を超える価値を持っている。授業の最初は「自由」と「愛」からスタートする。その土台の上に、価値あるものを探究していく。

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