昨日の12月13日、中国南京では78年目を迎えた南京大虐殺を記念する国家哀悼行事が行われた。上海駐在時代は毎年、記念式典に参加した。昨年、国家行事に格上げされ、習近平国家主席が参加するまでは省レベルの扱いだった。開会を告げるサイレンの音が町中に響くと、いつも思い出していたことがある。
南京市内の小中学校に通った経験のある日本人女子大生から聞いた話だ。彼女は「サイレンが鳴ると教室内の視線が一斉に自分に注がれるのを感じた。前日の夜はいつも眠れなかった」と涙を浮かべて話した。若い世代に過去のツケを背負い込ませているかと思い、胸が痛くなった。
南京の天生橋風景区では2006年から毎年、日中の有志による桜植樹が行われている。南京生まれで名古屋の情報処理会社役員を務める韓金竜氏が「日米親善の象徴であるワシントン・ポトマック河畔の3000本を目指し、日中友好の桜花園に」と発案して始まった。京大医学部OBの黄煌・元同市人民代表大会副主任(副議長に相当)は2008年から、「日本でお世話になったお礼をしたい」と、中秋節に現地の日本人留学生を招いた月見会を開催している。日中関係が緊張した局面でも途切れることはなかった。いずれの行事も私は何度か参加した。ここ数年は南京に足を運んでいないが、みんな元気だろうか?
「日中友好は南京から」が日中有志たちの合言葉だった。
今年の記念式典では全国人民代表大会の李建国常務副委員長がスピーチした。習近平氏が参加しなかったことを「日中関係に配慮」などと伝える日本のメディアは、極めて認識が低いと言わざるを得ない。昨年は初の国家行事として参加したのであって、二年目、全人代の代表を送ったとしても不思議はない。歴史問題を政治の道具としてみてしまうと、歴史から正しい教訓をくみ取ることができなくなる。これは双方にとって当てはまることだ。
「被害者30万人」にばかり焦点を当てるステレオタイプの報道も困ったものだ。現地に行かなくても書ける記事はどれだけ量産しても価値がない。伝えるべき真実から目をそらせるという意味では害悪でもある。加害者が難癖をつければ、被害者はより意固地になる。加害者である国の人間として、どのようにこの事件を振り返るべきかと言う視点が欠けているのは、同胞として寂しい限りだ。
日本政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との立場である。2010年1月に公表された日中歴史共同研究の日本側報告書は、南京事件の犠牲者数を「20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」としている。人数はともかく起きたことは事実だ。学問的な論証は歴史学者が行えばよい。それ以外の大多数の者は、枝葉の議論に逃げ込むのではなく、語り伝えるべき幹の事実を記憶するべきだ。
李建国氏は、侵略戦争の美化に反対すると強調する一方、「我々が同胞を哀悼し、抗戦の烈士をしのび、侵略の暴行を非難するのは、恨みを持ち続けるためではなく、善良な人間の平和への希求と堅守の心を呼び覚まし、ともに平和で美しい未來を切り開くためだ」と述べた。昨年、習近平氏が述べた言葉を繰り返したものだ。習氏は,「戦争の犯罪は少数の軍国主義分子にあって人民にはない」とし、「中日両国人民は代々友好でなければならない」と呼びかけてもいる。
南京大虐殺記念館は他の抗日戦争記念館に先駆け1985年に創設された。当時、中国への「侵略」を「進出」に書き換えさせたとの報道に端を発した教科書検定問題が起き(その後「誤報」と判明)、中国で日本の歴史認識に対する批判が強まり始めた。同館のホームページは、「日本の文部省が“侵略”を“進入”に書き換えさせ、侵略の歴史を改竄しようとする試みが中国人民の怒りを引き起こした。そして、大虐殺の避難者、遺族らが政府に手紙を書き、“大虐殺の血をもって南京の地に歴史を刻む”ために建設を求めた」と伝えている。
抗日戦争60年の節目だった2005年は、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝や歴史教科書問題によって日中関係が悪化し、北京、上海などで大規模なデモが発生した。同館でも資料収集が進められ、同年末、大幅な拡張工事に着手し、南京事件70年の2007年に完成した。歴史問題が中国での反日世論を刺激し、抗日戦争記念館の拡張に手を貸している構図を見て取ることが出来る。 年配の中国人に聞くと、「私たちが若いときは、南京大虐殺のことはよく知らなかった」と話す人が多い。静かに語り継いでいくことが、歴史を政治の道具にしないための賢明な道である。
南京市内の小中学校に通った経験のある日本人女子大生から聞いた話だ。彼女は「サイレンが鳴ると教室内の視線が一斉に自分に注がれるのを感じた。前日の夜はいつも眠れなかった」と涙を浮かべて話した。若い世代に過去のツケを背負い込ませているかと思い、胸が痛くなった。
南京の天生橋風景区では2006年から毎年、日中の有志による桜植樹が行われている。南京生まれで名古屋の情報処理会社役員を務める韓金竜氏が「日米親善の象徴であるワシントン・ポトマック河畔の3000本を目指し、日中友好の桜花園に」と発案して始まった。京大医学部OBの黄煌・元同市人民代表大会副主任(副議長に相当)は2008年から、「日本でお世話になったお礼をしたい」と、中秋節に現地の日本人留学生を招いた月見会を開催している。日中関係が緊張した局面でも途切れることはなかった。いずれの行事も私は何度か参加した。ここ数年は南京に足を運んでいないが、みんな元気だろうか?
「日中友好は南京から」が日中有志たちの合言葉だった。
今年の記念式典では全国人民代表大会の李建国常務副委員長がスピーチした。習近平氏が参加しなかったことを「日中関係に配慮」などと伝える日本のメディアは、極めて認識が低いと言わざるを得ない。昨年は初の国家行事として参加したのであって、二年目、全人代の代表を送ったとしても不思議はない。歴史問題を政治の道具としてみてしまうと、歴史から正しい教訓をくみ取ることができなくなる。これは双方にとって当てはまることだ。
「被害者30万人」にばかり焦点を当てるステレオタイプの報道も困ったものだ。現地に行かなくても書ける記事はどれだけ量産しても価値がない。伝えるべき真実から目をそらせるという意味では害悪でもある。加害者が難癖をつければ、被害者はより意固地になる。加害者である国の人間として、どのようにこの事件を振り返るべきかと言う視点が欠けているのは、同胞として寂しい限りだ。
日本政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との立場である。2010年1月に公表された日中歴史共同研究の日本側報告書は、南京事件の犠牲者数を「20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている」としている。人数はともかく起きたことは事実だ。学問的な論証は歴史学者が行えばよい。それ以外の大多数の者は、枝葉の議論に逃げ込むのではなく、語り伝えるべき幹の事実を記憶するべきだ。
李建国氏は、侵略戦争の美化に反対すると強調する一方、「我々が同胞を哀悼し、抗戦の烈士をしのび、侵略の暴行を非難するのは、恨みを持ち続けるためではなく、善良な人間の平和への希求と堅守の心を呼び覚まし、ともに平和で美しい未來を切り開くためだ」と述べた。昨年、習近平氏が述べた言葉を繰り返したものだ。習氏は,「戦争の犯罪は少数の軍国主義分子にあって人民にはない」とし、「中日両国人民は代々友好でなければならない」と呼びかけてもいる。
南京大虐殺記念館は他の抗日戦争記念館に先駆け1985年に創設された。当時、中国への「侵略」を「進出」に書き換えさせたとの報道に端を発した教科書検定問題が起き(その後「誤報」と判明)、中国で日本の歴史認識に対する批判が強まり始めた。同館のホームページは、「日本の文部省が“侵略”を“進入”に書き換えさせ、侵略の歴史を改竄しようとする試みが中国人民の怒りを引き起こした。そして、大虐殺の避難者、遺族らが政府に手紙を書き、“大虐殺の血をもって南京の地に歴史を刻む”ために建設を求めた」と伝えている。
抗日戦争60年の節目だった2005年は、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝や歴史教科書問題によって日中関係が悪化し、北京、上海などで大規模なデモが発生した。同館でも資料収集が進められ、同年末、大幅な拡張工事に着手し、南京事件70年の2007年に完成した。歴史問題が中国での反日世論を刺激し、抗日戦争記念館の拡張に手を貸している構図を見て取ることが出来る。 年配の中国人に聞くと、「私たちが若いときは、南京大虐殺のことはよく知らなかった」と話す人が多い。静かに語り継いでいくことが、歴史を政治の道具にしないための賢明な道である。
中日の場合立場が逆になる。でも、戦後の秩序として、当時の枢軸国はすでに歴史の恥辱の柱に刻まれた。そういうことで、中国の立場はベトナムの場合より強くて、いつも中日の歴史問題が国際問題にもなっている。
過去はどうであれ、人々は未来を開かねばならない。自分のことをばかり考えるのは未来へたどり着かない。中国も日本も自分だけの立場でなく、相互の立場を考えて、より分かりあう時代も迎えられるかもしれない。平民としての考えだけどね(笑)。政治家がどう考えてるのか神様しか分からないことだ。