行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア】自然に託す詩人の心・・・「紅豆」には会えぬ人への思いを

2016-02-22 20:50:32 | 日記


自宅の梅がようやくほころび始めた。先日、習近平が携帯のチャットアプリで春節の終わりを告げる元宵節のあいさつをしたので勘違いしたが、正しくは今日が元宵節である。正月が終わり、春の準備が始まる。季節の移ろいに感じ、自然に心情を仮託したのは、盛唐の詩人であり山水画にもたけた王維である。高校時代に習ったわずかな漢詩の中でも、自然を凝視した王維のリズムは強く耳に残っている。

『鹿柴』
空山不見人 但聞人語響 返景入深林 復照青苔上
(空山人を見ず、ただ人語の響くを聞くのみ。返景 深林に入り、また青苔の上を照らす)

「空山人を見ず、ただ人語の響くを聞くのみ」といえば、寂しい森の風景よりも、温かく人を包む静寂を思う。大自然に抱かれ、思索の散策をするのにふさわしい空間が広がっている。「返景 深林に入り」と大きな自然をつかみ取り、「また青苔の上を照らす」と目の前の情景に投影させる。山の空気をいっぱいに吸い込み、しっかりと自然をわがものとした境地だ。「空山人を見ず」と「返景 深林に入り」の二句に、私の心は釘付けになる。仏に帰依した詩人の読経を聞いているかのような心地になる。

『送元二使安西』(元ニの安西に使いするを送る)
渭城朝雨浥軽塵(渭城の朝雨 軽塵をうるおし)
客舎青青柳色新(客舎青々柳色新たなり)
勧君更尽一杯酒(君に勧む 更に尽くせ一杯の酒)
西出陽関無故人(西のかた陽関を出づれば故人無からん )

新疆に赴く友人の元ニを長安郊外の咸陽で見送るため、駅舎で別れの盃を交わしている。早朝の雨が都市の塵埃を沈め、旅館から見える柳は雨のしずくをたたえ青々としている。「さあ、もう一杯飲もうではないか。別れが惜しい。もうあの関所を出たら、酒の友もいなくなってしまうのだから。「客舎青々柳色新たなり」。この句は一度聴いたら忘れないほどの清新さがある。

季節の節目に思うのは、気の置けない懐かしい友たちの顔である。つつがなく暮らしているであろうか、晴れやかな気持ちで過ごしているであろうか、楽しく酒を飲んでいるだろうか、そして少しは私のことを思い出してくれているであろうか。王維の『相思』はそんな思いを詠っている。

紅豆生南国、春来発幾枝?願君多採撷、此物最相思。
(南国に育つ紅豆の樹は今、春を迎えてもう花を咲かせているだろうか。その赤く美しい実を、懐かしい君がたくさん集めてくれるといい。なぜなら紅豆は昔から、会えない人への思いを託すものだから。手に余るほど紅豆を採れば、私たちへの思いもそれだけ強くなるでしょう)

一節には当時の著名な歌手で、杜甫とも親交の深かった李亀年に贈ったとも言われる。李亀年が好んだ歌であるばかりでなく、節がいいので庶民にも愛唱されたという。紅豆の赤は吉祥の色であり、情熱の色である。紅豆は唐小豆とは言われるが、日本でいうアズキとは違う。南方の広東や広西で自生し、鮮やかな赤い実だ。中国語では、海紅豆、相思子とも称される。薬効があり、中医の薬剤としても使われる。



中国の著名歌手、王菲(ワン・フェイ)が歌う『紅豆』も、愛する人を思い慕う詩である。中国の伝統はこのように色濃く今に語り継がれている。

今日、中国の仲間とやり取りをしていて生まれた詩がある。

桜花生東瀛
春来発幾枝
愿君多欣赏
此物最相思

植物に意を託す気持ちは、今昔を問わない。




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