行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

閨秀詩人を愛読した毛沢東と、習近平に欠けている女性らしさ

2016-03-02 16:40:19 | 日記
明日はひな祭りである。女性をキーワードに毛沢東と習近平の違いを語ったらどうなるか。ちょうどそんなことを考えていたので、試みに書いてみる。きっかけは毛沢東の女性的な一面についての考察だった。

『毛沢東 その詩と人生』(武田泰淳、竹内実)に、毛沢東が南宋の女性詩人、李清照の詩を愛読したことが書かれている。詩作がもっぱら男性に独占された官僚階級の教養とされた中国で、閨秀作家は極めてまれだ。漢字よりは低く見られたひらがなを使い、女流作家が活躍した日本とは異なる。



李清照は中国文学史の中で最高の女性詩人とされる。官吏の夫とともに古い石碑や書物を研究し、金軍による攻撃から逃れる中で夫に先立たれ、私財をなげうって集めた古物も失い、悲惨な晩年を過ごす。次の一文を残している。

有有必有無、有聚必有散、乃理之常。
(ものを得れば必ず失うことがあり、ものが集まれば必ず散じることがあるのは、当然の理である)

性別を超越した気高さがある。彼女の詩には「よく寝たが二日酔いは抜けない」「二、三杯の酒ではこの寒さには耐えられない」など、酒豪ぶりを示す表現もあり、当時としてはかなり男性的な性格だったのではないか。暮れ行く人生を振り返り、

「怎一个愁字了得」(『声声慢』)
(なんで一個の「愁」の字をもって言い表すことができようか)

との感慨には、天を覆う気迫を感じる。毛沢東が愛したのはこうした男勝りの側面もあったのかもしれない。もっとも同書は、毛沢東の詩には「要所要所の用語にみられる女性的な感覚」があると指摘し、毛沢東を取材した女性記者、アグネス・スメドレーは、毛沢東の中にある女性的なものや暗さのアンバランスに違和感を持ったと明かしている。毛沢東自身に女性的なものがあったのだろう。海外留学を辞退し、故郷湖南へのこだわりを持った点も、女性的なものへの思慕を感じる。大海に飛翔しようとする男児の気概ではない。

政敵を容赦なく排除する冷酷な政治闘争は、相手の心理を見抜く女性ならではのきめ細かい感覚に支えられていたとみるのは、私の思い込みだろうか。人間世界は男女、つまり陰陽に住み分けられている。もしその双方を併せ持ったとしたら、より強くなると同時に、反発し合うものの矛盾にさいなまれ、孤独な闇を抱えることになるのではないか。

これに対し、毛沢東を崇拝する習近平をみていても、女性的なものを感じない。むしろ、彼がしばしば「掟」を語り、恥ずかしげもなく「おれの言うことを聞け」と公言するのを聞くにつけ、任侠道を重んじる兄貴分の肌合いが強い。先日、北京で見た中国映画『老炮儿』でも、北京下町のやくざ者が「女か?」と女性に対する不信とも差別ともとれる言葉を吐いているが、まさにそんな男社会の人間だ(このセリフがネットでは「女性蔑視」だと批判されているが、全く見当違いである)。男社会を支配するのは強さである。肉体的にも精神的にも。だから戦争は男社会の論理が仕掛けるものだ。

では平和な時代ではどうだろうか。『老炮儿』で馮小剛扮する主人公は、口では強がりを言っていても、実際は陰で女性に支えられている。メンツにこだわるから認めたくないだけだ。弱く、かわいい一面がある。習近平はと言えば、夫人は軍の人なので、女性らしさよりも山東省出身のきっぷの良さ、つまり男まさりの魅力が際立つ。習近平の昨今の強烈な強権的姿勢を見る限り、周囲に対するきめ細かい女性的な配慮が感じられない。良い意味でもう少しデリカシーを持ったほうがいい。男が主導する戦時思想は、もう時代錯誤である。

最高指導部の党中央政治局常務委員(チャイナセブン)に、これまで女性が入ったことはない。中国は歴史的に、国を傾かせた清朝の西太后や文化大革命の混乱を引き起こした毛沢東夫人の江青ら、権力者一族の女性が政治に口をはさむと乱れる。だが堂々と選出された女性代表であれば、この歴史の法則はあてはまらない。19回党大会、20回党大会に女性常務委員が誕生するかどうか。実は大きな意味を持っているのかもしれない。

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