行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【独立記者論⑱】中国共産党は忠誠心を試す「踏み絵」を始めたのか?

2016-03-02 00:16:46 | 独立記者論
先ほど締め切りの原稿を終えた。早く休みたいところだが、どうしても今日のうちに書いておかなければならないことがある。

習近平は2月19日、党政府の宣伝工作を担う人民日報、新華社、中央テレビ(CCTV)の3社を視察し、「党の一家」として「党中央の権威を高め、党の団結を守る」世論誘導を求めた。軍に加え言論も「中央にならえ!」と命を下した。「党の一家」の原語は「姓党」、直訳すれば「党」の姓を名乗れということだ。「党の喉と舌」と位置付けられる党主導のメディアであれば、「党家」の一員として、家人としての自覚を持ち、家の利益を守らなければならないと言ったのだ。この場合、もちろん党トップの総書記である習近平が家長ということになる。宗族を重んじる中国ならではの表現であろう。

これまでの言論統制の延長線上にあることで、過剰ではあるが本質的な変化と言えるのかは判断しかねる。習近平の立場からすれば、党の利益を代弁するメディアも腐敗し、利益を追求するばかりで、本来の任務を怠っているということなのだろう。この点、多くの庶民は違和感がないのではないか。私も、表向きと裏側で全く異なる官製メディアの堕落ぶりはしばしば見聞きしてきた。

習近平発言に異を唱えたのが、元大手国有不動産会社「華遠集団」会長の任志強だ。3700万人のフォロワーを持つ自身のミニブログ(微博)で次のように批判した。

「人民の政府はいつから姓を変えて党の政府になったのか。党費を払っているのか。徹底して対立する二つの陣営に分けなければならないのか。もしあらゆるメディアに姓があり、それが人民の利益を代表していないとすれば、人民は忘れられた片隅に追いやられることになる」

任志強は党員であるが、かねてから民主的な発言で人気があった。中国では党と異なることを言うだけで人気が出るという風土もある。任志強を擁護する民主派知識人に対し、官製メディアは名指しで任陣営を批判する舌戦が展開された。だが当局の態度はかつてなく強硬だった。彼の微博が閉鎖されたのまではいつものことかと思ったが、ネットを管理する国家インターネット情報弁公室が「国家利益に反する」などと様々な理由を挙げて、閉鎖の正当化を公言したのだ。

このやり取りには、自由な言論が活発だった80年代の伏線がある。当時、元『人民日報』社長の胡績偉(2012年死去)は「人民性は党性よりも高い」「党性の由来は人民性だ」などの議論を提起した。あくまで人民の利益を第一とし、党はその下に置かれたのである。党と人民の一致を前提とする欺瞞的建前に対する挑戦だった。胡積偉は1989年の天安門事件で、武力弾圧に反対する趙紫陽総書記を支持して連座し、趙紫陽と同様、最期まで自己批判を拒んだエピソードは今でも一部に語り継がれている。敬意を払うべき言論人の一人だ。

任志強の発言は往時を思い出させる極めてデリケートな内容を含んでいたわけだが、ここまでならば、私が睡眠時間を削ってまで今、書くことはない。知人から送られてきたある文章がきっかけだ。筆者は朱継東、中国社会科学院国家文化安全・イデオロギー建設研究所センター副主任兼秘書長、中国唯物主義学会副秘書長の肩書がついている。タイトルは「任志強事件は一つの試金石」。

その趣旨を要約すれば、メディアが「党の一家」でなければならないのは、共産党が執政する社会主義中国において基本的な常識、重要な原則であって、それに公然と反論する任志強は看過できない。厳正な処分ができるかどうか、党組織や党員の姿勢が問われる「試金石」であるばかりでなく、「任志強事件というこの重要な試金石をまさにさらに有効に活用し、人々に任志強の背景にあるより多くの人、関係、勢力などの存在を明らかにし、全面的に厳しく党を治めることの重要性、必要性、緊急性をみなに感じさせなければならない」というのだ。

文化大革命から半世紀が経過したが、その再現を思わせる政治闘争の言説だ。戦争の時代は去ったが、世の中はすべて敵対勢力が向き合っているという妄想に基づく世界観である。いささかの寛容も妥協も譲歩もない、冷酷な政治文書である。そもそも感情、人間に対しての愛がない。この文章の「試金石」に急き立てられたように、彼の住む北京市西城区の党委員会が29日、「厳粛な処理」を表明した。その上、「全区の党員はこれを戒めとし、規律と規範意識を確固に打ち建て、断固としてあらゆる党紀違反の言動に対して闘争する」と誓う始末だ。

確かに、これまで微博で大胆な発言が許されたことは、任志強のバックに強力な後ろ盾がいたと推測されても仕方ない。通常の政治ウオッチャーであればそういう見方もするであろう。私も政治的な背景を勘ぐった。情報が常に不透明な中国の事象は極めて複雑なのだ。だが、研究者の肩書を持つ人物が、根拠のない事実をもとに「試金石」のスローガンを掲げ、政治闘争を呼びかけるのは荒唐無稽だとは言えるだろう。あの文章を書いた人物は、歴史の歯車を逆転させたよほど大きな責任を負うべきではないのか。

良心の収まりがつかなかったので長々と書いた。

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