行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』の自己評

2016-02-25 11:36:59 | 日記
本日25日は拙著『『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』の発売日である。昨日、親しい仲間が記念の宴席を設けてくれたが、「いつになく饒舌だ」と言われ、わが身を振り返った。意識はしていなかったが、大きな区切りをつけたことに対し、安堵の気持ちがあったのは確かだろう。反省のメールを参加者に送ったら、「口舌の徒から舌を抜いたらもの食う口だけになり、社会的意味なし。意義のあることは、繰り返し語りましょうね」と温かい言葉を頂いた。その人は拙著にも名の出てくる矢吹晋氏である。

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すでに出版社から献本が届いている知人友人からは好意的な評価を頂いているが、誤解や曲解を含め様々な感想があってよいと思っている。異説にこそ言論の意味がある。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で、「仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮りにその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない」と述べている。独立した思考に基づく反対意見は、社会が真理を追求するために不可欠のものである。

私が伝えたいことは拙著に書いたが、あたかも自分で書評をするごとく、若干、付け加えておきたい。

同書に書かれていることはすべて事実である。だがその事実を語ることが、新聞社の中においても難しい世の中になっている。議論がなく、上意下達のシステムが貫徹され、自由や正義とは程遠い論理がまかり通っている。記者一人一人は独立した頭を失い、機械の歯車の一つでしかない。こんな社会がいったいどういう方向に進んでいくのか。そんな危惧を抱かずにはおられない。新聞社の問題だけではない。社会全体の病根だと感じている。官僚主義体質は、企業中心社会の隅々にまで浸透し、自由の隙間を埋めてしまった。

私が極めて特殊な人間だと思う人がいるかもしれない。無理はないだろう。たかが1本の特ダネのために27年勤めた大新聞社を辞め、無謀にも大海に身を投げたのだから。自殺行為だという人もいた。ドンキホーテだと呼ばれても仕方ないだろう。だが人の生き方には原理原則がある。それを失っては、糸の切れた凧になるか、人に糸を操られた凧になるしかない。私はそれに忠実でありたいと思った。もちろん組織に身を置く以上、妥協や譲歩は必要だ。私も何度となくそれを繰り返してきたが、やはり譲れないものがある。もし譲ったら、原則を失ってしまう。そこまで追い込まれての決断だった。

もし中国に住まなかった、こういう選択はなかっただろう。意外に聞こえるだろうが、言論の自由でない国、頑強な官僚主義がはびこる国を見たからこそ、自由の貴さ、官僚主義の悪弊、そして逆説的に、その中で暮らす人たちの強さ、たくましさ、おおらかさに触れることができた。国や体制、文化や思考が違うからこそ、それを超えた人と人との愛を感じることができた。新聞記者の肩書が外れ、「独立記者」を名乗ったとき、私を心から祝福し、力強い励ましを送ってくれ、変わらぬ友情を約束してくれたのは、そうした人々だった。

空気のように自由をとらえていた自分はこれまで、恥ずかしながら自由の貴さを教科書以外の場で真剣に考えたことはなかった。困難な状況の中で、不屈の精神と楽観的精神を忘れず、真理を求めようとする人たちがいる。「自由」があふれているはずの日本で、実はみながその自由を尊重し、享受する努力を忘れているように思えたのだ。自分を恥じ、問い直す日々が続いた。私は中国を見ながら、中国を語りながら、実は日本を、わが身を振り返っていた。

新聞社の中で中国について語るとき、「中国が怖い、危ない、汚い」の3Kとは異なる話をすると、「それって一面でしょ」「ちょっと中国に肩入れし過ぎじゃないですか」「洗脳されたんじゃないですか」と言われることがある。そのたびにわが身を振り返るが、どうしても相手がずれているとしか思えない。リップマンは「人は見てから定義するのではなく、定義してから見る」と至言を残したが、現場を重んじる記者仲間でさえその悪弊に陥っている。沈みかけている船の中で、周囲の変化から目を背けようとしている姿勢が伝わってくる。日本の言論界は、インターネット社会の中にあって、氷河期を迎えていると言っても過言ではない。

昨晩の「饒舌」の中で、私が名刺に刷った「独立記者」の肩書について語った。認知はされていないが、私はこだわりたい。『独立記者』という本を書こう、と酒と饒舌に任せて言い放った言葉が、すでに独り歩きを始めている。

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