行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

三朝庵へ、112年間お疲れさまでした!

2018-08-30 07:38:51 | 日記
昨日の日本経済新聞文化欄に懐かしい名前と写真を見つけた。早稲田のそば店「三朝庵」四代目女将、加藤峯子さんが寄稿していた。「早大生と歩んだソバ屋 憩いの場・三朝庵、112年の歴史にひっそりと幕」と見出しがあった。



「都の西北、早稲田大学から目と鼻の先にある馬場下町の交差点で112年続けてきたそば屋『三朝庵(さんちょうあん)』を7月末で閉じた。事前に告知すると常連さんだけでなく昔を懐かしむ人たちが殺到してしまうから、ひっそり最終日を迎えた。4代目女将として、後日閉店を知った方々におわびしたい。我が家の歴史は江戸後期に遡る。小石川から今の場所に移り三朝庵を創業したのは1906年(明治39年)。1882年創設の東京専門学校(現早稲田大)との関係は切っても切れない。創設者の大隈重信公はもともと店の家主だった。『街が発展しなければ、学校も発展しない』と近隣の人たちを大切にしたという」

閉店の知らせは事前に同級生から聞いていた。7月末、昼食時に顔を出したが、看板であるはずのお母さんはいなかった。自ずと、閉店せざるを得ない事情がのみこめた。満席だったので、しばらく店内を見回して去った。壁に貼られた色紙や写真が時を刻んでいた。奥で長男がそばをゆでていた。彼は外大の中国語専攻で、中国語書籍専門の出版社にいたこともあったので、私と共通の知人もいた。

現在は立派なビルになっているが(1989年竣工)、私の学生時代は木造の2階建てだった。2階には20畳ほどの大きな座敷があり、午後、横になって昼寝をしたこともある。老舗そば店なので、学生にとって決して手軽な値段ではなかった。ソニー創業者で稲門の井深大さんを見かけたこともある。「元祖」のかつ丼は、私の好物だったが、めったに口にはできなかった。玉子丼が一番多かったのではないかと記憶している。

懐具合が寂しいときは、手持ちの小銭を出すと、「わかったよ」とそれに見合った、というか、それ以上のメニューを出してくれた。昨夜の残り物だからと言って、おかずを差し入れしてくれたこともある。卒業式には、「みんなで飲みなさい」と一升瓶をプレゼントしてくれた。店中に響く大きな声で話すので、私との会話も、客全員を引き込んだ座談のようになる。肝っ玉母さんというのは、きっとこういう女性を言うのだと思っていた。いつも母親の姿がだぶって見えた。人情のある街だった。



寄稿にはこうある。

「最近の学生は随分おとなしくなった。校歌を歌いながら歩いたり、大隈講堂前で夜通し飲んで騒いだりすることもない。近隣住民から苦情が入るから、大学が注意して萎縮してしまうのだろう。街は街、学校は学校で別々というのは人情味に欠ける。学校と街が一緒に発展してきたのだから、ちょっとさみしい」

こんなことを感じながら店番に立つお母さんを想像し、酸っぱい思いがこみあげてきた。「実を言えば、店を閉めたくはなかった」というが、「みな年を取った。働いてくれるおばちゃんたちも同じ。そろそろ体力的に限界だ。手伝ってくれるお客さんもいるが、そんな気遣いをさせるようではやっていけない」と決断をしたのだという。店に嫁いで60年。人には想像のできない葛藤があったのだろう。

「大学の雰囲気は変わったけど、店の雰囲気は変わらない」と立ち寄ってくれる卒業生やなじみ客の居場所をなくすのは本当につらかった。守れなかったことを申し訳なく思う。早稲田の入り口にある店にいつまでもシャッターを下ろしておくわけにはいかない」

謝ることなどなにもない。早稲田のために十分働いたと、感謝状を送りたいほどだ。今は自分のことに専念してほしい。私もそば屋で育った。母方の祖父が経営し、三人姉妹の末っ子だった母がその手伝いをした。働き過ぎたのだろう、晩年は体調を崩し、つらい闘病生活を送った。

昨晩、かつての仲間と早稲田に集まった。三朝庵に立ち寄ると、閉じた門に貼り紙がしてあった。



「スタッフの高齢化と人手不足により、この度やむなく閉店することにいたしました。ごひいき下さいましたお客様には誠に申し訳なくお詫びいたしますと共に、永らくご愛顧賜りましたことに心より感謝申しあげます」







馬場下交差点に立っている自分の周囲が、気が付くと往時の風景になっていた。はす向かいの交番、穴八幡、本部キャンパスに続く下り坂。何度もこの道を歩き、店の前を通り過ぎた。生きる目標を必死で探していたあのころ。自分はどうあるべきなのか。そんな問いかけがまだ続いていることにも気づかされた。

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