行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

夏休みの終わり、新学期の始まりに②

2019-08-26 08:03:21 | 日記
学生たちが自分の進路、将来についてしばしば口にするのが「迷茫」と「焦虑」だ。日本語で言えば「迷い」と「焦り」。自分の好きなこと、進むべき道が見つからずに迷い、焦る。かつてに比べれば選択肢は増えているはずだが、選択の基準がわからない。「汝自身を知れ」という問いに対する答えが見つからない。ただし、あきらめ、放棄したとしたら迷いも焦りもないのだから、答えを探そうとしていることは間違いない。それが尊い。なんとか手を差し伸べようと思う。

報道は客観的に、自分の主観を排除せよと教えられる。それはジャーナリズムの技法については当てはまったとしても、我々の実感からは外れる。10人の記者が記事を書けば、十通りの記事ができるからだ。脳も心も、三人称ではなく、一人称で語るしかなく、普遍的な客観が存在しているようには思えない。思考も主観でしかあり得ず、客観はしばしば主観による重荷から逃れるための隠れ蓑になる。

「我思う、故に我在り」とはデカルトの個人的な経験でしかない。個人の思索を出発点として、周囲の環境に問いかけ、言葉に置き換え把握していくことで、西洋の科学は進歩してきた。神の存在に支えられた絶対的真理が背骨だった。だが今や人間自らが自身を超えるAIを夢想し、神に代わる創造主の座を奪わんとしている。座標軸が大きく崩れ、客観は足場を失っている。

主観を排除したところで自由や独立を語る価値はあるのか。抵抗が自由の証であった時代は終わった。インターネットは当初のユートピア幻想から大きく隔たり、人を受動的立場に追いやった。洪水のような情報の中で、どうやって選択すればいいのか。その自由をアルゴリズムに譲った結果、受け身に立たされていることの自覚さえ失っている。だからこそ主観を取り戻さなければならないのではないか。

情報は客観という装いをもったメディアが航空便のように運んでくるものではない。しっかりとした主観をもって受け取るものだ。主観を失えば、価値ある情報は目の前を通り過ぎていく。ネットをいくらさまよっても、ざるで水をすくうようなものである。主観をぶつけ合うことによって、集合知の価値も生まれる。

では、主観とは何か。これはそのまま自分とは何かという問いにかかわる難題となる。自分は非常に不確かな存在だ。我々の脳はしばしば錯覚をするし、我々の心は無意識に支配されている。幻肢痛やラバー・ハンド・イリュージョンの実例をみても、身体の境界さえあやふやなのだ。リベットの実験によれば、人はある行動を意図する前、脳がすでに活動を始めているというのだから、そもそも自由意志の存在に議論が沸騰するのもやむを得ない。

ここでも、問いの立て方自体が問われる。既成の概念に縛られ、ありのままの姿を見過ごしていないか。明確な因果律による物理法則にとらわれ、複雑で柔軟な脳と心の働きを見失ってはいないか。進化を後付けのわかりやすい合理性によって理解してはならない。一個体のDNAは不変である。生殖によって偶然が生まれ、それが環境の中で自然淘汰されるに過ぎない。だから進化の物語はあっても、継ぎはぎだらけの作品だ。いい加減さもあり、それが同時に生き延びるために獲得した知恵でもある。

我々が、意志や行動といった自分たちで作った概念に縛られ、あたかもそれが形のあるものとして存在するかのように議論するからおかしくなる。概念が生まれる前に人間は存在したし、世界もそこにあった。この点を突いたのがデネットである。彼は、意志をある時間の点からみるのではなく、無意識と意識を包含した、時間的な広がりを持った異なるプロセスとしてとらえようとする。物質と精神、理性と感情、人工と自然といった二元論ではもはや、人間とは何かの答えを得ることはできない。

脳の柔軟さに対応した新たなパラダイムが必要なのだ。それはきっとコペルニクス的転回を要する思考となるに違いない。地動説が天動説に正統の座を譲ったように、自分を中心にして世界をみるのではなく、自分が主観的に、身体を用い、環境に対応して世界を巡航しているような人間観が必要なのではないかと思える。

ネット空間は、人間の主観を奪って受け身に追いやり、バーチャルの中に埋没して身体を忘れさせ、実体世界との接触から遠ざけて単一のコミュニケーションを生む危険を多分にはらんでいる。自由な議論、独立した思考というが、制約のない自由、完全な独立といったものが果たして可能なのかどうか。新たな問いを立てなければならない。

(続)