行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

夏休みの終わり、新学期の始まりに①

2019-08-24 07:45:54 | 日記
7月初めからの夏休みが終わり、間もなく新学期が始まる。涼しい風が秋の気配を運んでくる。昨日は雨上がりのつかの間、虹が出た。東京にもしばし別れを告げる



広東省、汕頭大学での教師生活はすでに当初契約の3年を経たが、大学側や学生たちの強い支援に支えられ、さらに3年の延長が決まった。初心に帰ると同時、人工知能(AI)を中心とした加速度的な科学技術の発展、それにともなうメディア、コミュニケーション環境の激変にあって、これまで以上の精進が求められる。

内向きになる一方の日本に対し、中国では、特に若者層を中心に、ますます日本への関心が高まっている。「爆買い」だけを騒ぎ立てても、彼らのことは何もわからない。日本の伝統文化からサブカルチャー、環境問題から高齢化社会、地域振興まで、関心の対象は幅広く、そして深い。だから学内唯一の日本人教師として、求められる内容も桁違いだ。多くの共通点、相違点を持つ隣り合わせの文化間を行き来しながら見えてくるものがある。複眼的な視点、思考を学生と共有していくことが、最も自分を生かす道だと考える。

学び、教えることにおいて、いかにして問いを立てるか、こそが根源的な問いとなる。ここでボタンを掛け間違えれば迷路に陥る。

インターネットは革命的な情報環境の変化をもたらしたが、忙しく、移り気な現代人は、その意味をじっくり考える余裕がない。情報の洪水に飲み込まれ、身を任せ、漂流しながら、こま切れで、わかりやすく、安価な処方箋にすがる。ネット検索に慣れた若者は、教室でもすぐに答えを求めることが習い性となっている。答えにたどりつくまでの道のりを効率で測り、問い自体の重要さに気づいていない。問いを与えられるのではなく、自分で探さなければ、思考と呼ぶことはできない。

「何か質問は?」と尋ねても沈黙に包まれる。私が授業でしばしば「人間とAIの違いは?」と問いかけ、

「それは、疑問を持つこと、問いを発すること」

と伝える。科学と技術が手を携え、真理の探究と人間の幸福を旗印に、高速で疾走を続ける。哲学の問いは傍らに追いやられ、ますます遠ざかっている。だからこそみなが問いを発しなければならない。グローバリゼーションによる単一化に抵抗し、異なる文化がそれぞれの存在意義を主張しなければならない。ちょうどドーキンスのいう「利己的な遺伝子」が複製によって自己主張を続けるように。

人は古来、「人間とは何か」「汝自身を知れ」と自問自答してきた。おそらく他の生物にはない、自らの存在を問わざるを得ない「意識」を持った。それは実際、生まれて間もなく、進化の過程を凝縮する中で始まっている。

母親から切り離された嬰児はまず、生存のため手と口を通じて環境を模索し始める。ベンフィールドのホムンクルスが物語るように、脳の働きも多くを手や口からの情報に頼っている。だが特殊な例を除き、母親に守られなければ生きてさえいけない。個体だけをみれば非常にか弱い存在だ。だから自分を守るため、やがて心の中に、自己の存在、自分のものという意識を持ち、次に他者の心に気づく。自分の心を用い、他者の異なる心を推し量る「心の理論」を身につけていく。

遺伝子が人の心を設計し、身体を使って自意識を生み、環境と接触する中で他者の心を知る。それはすべて遺伝子の複製、つまり種の保存につながっている。心は、身体もって生きるために不可欠であり、集団生活が求めた結果であり、社会の中で育っていくものだ。

もはや、大学の教室で「心はどこにあるのか」と問われ、心臓に手を当てる学生は少数になったが、では脳の中にすべてがあると決めつけるのも時代遅れだ。身体から切り離した脳、社会から隔離した脳は、納得のいく答えを与えてくれない。だからいくら脳を切り刻んで、心の所在を確かめようとしても、「人間とは何か」の答えは得られない。

問いの立て方が問われているのはそのためだ。

(続)